これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

天の恵み♾大地のエネルギー

2020-03-10 08:47:00 | 国を常しえに立てます
今年は近年まれに見る暖冬となりました。
一月には大阪で19℃超え、東京でも18℃超えを記録し、17℃を超える日が続きました。

とりわけ、一月後半から二月前半にかけての暖かさはコートを脱ぐ人が続出するほどでした。
あまりの暑さに、自分も体調を崩した記憶があります。

また、今年の冬は雨の日も多かったと言えます。
例年ですと乾燥で喉がやられるところですが、今年は加湿器なしでラクラク過ごせました。

見過ごされがちですが、春節の前後はかなり気温の高い日が続き、また適度な雨も降っていたのでした。

毎年この時期になるとインフルエンザが流行しますが、それはウィルスが寒冷乾燥を好むからです。
逆に高温多湿になるとウィルスは生存できなくなります。

湿気があると空気を舞えずに落ちるというのは何となく分かりますが、高温だとなぜ生存できなくなるのか。
実は熱に弱いのではなく、そこでもやはり水分が影響しています。

空気中に含まれる水分量は温度によって変化します。
温度が高いほど飽和の上限が高くなりますので、より多く水分を含むことができるようになります。

普段、湿度何パーセントと言っているのは、その日の気温で含有できる最大水分量を100とした時に、実際の水分量がどれだけかを示すものです。
ですから湿度30%と言っても、夏場と冬場では空気に含まれる水分量は違うということになります。

このため雨が多い時はもちろん、気温が高い時もまたウィルスにとっては生きにくい環境となるわけです。

そう考えると今年はコロナが騒がれ出した一月後半から今に至るまで、ほとんどどちらかの状態が続いています。
こんな年はこれまで無かったと思います。
先週も今週も、東京では晴れて暖かい日と、寒いけども雨の日が入れ違いで続いています。



日本では昔から疫病退散のため様々な祈りが行なわれてきました。
祇園祭など有名なお祭りの殆どは、疫病を鎮めるために始まったものでありました。

疫病退散や雨乞いというと、非科学的かつ原始的で幼稚な発想だと思いがちですが、これは全く間違っています。
実際のところ人々の思い、天地の恵み、様々なエネルギーが働くと、人知れず今回のようなことが起こっているのです。

もちろん、私たち人間の力だけでそうなるものではありません。

もとより国を護るエネルギーというものがあって、絶えずこの国を包み込んでいます。
私たちの思いが散らかっているとそのノイズにより国を包むエネルギーは滞っていきますが、私たちの思いが一つに清らかになると、それらが本来の姿を現すようになります。

しかし苦しみや悲しみのまま必死の懇願で疫病退散を祈ったり雨乞いをしたりすると、ノイズを散らすことになり逆効果となることもあります。
非情なようですが、それが自然の理なのでどうにも仕方ありません。

思いというのはシンプルなほうが清らかな流れとなります。

ですから、祭り神輿などは意図せず最高の儀式となっているということです。
もう楽しんだもん勝ち、はしゃいだもん勝ちなのです。

私たちが氏神神社で日々の感謝をお伝えしたり、あるいは部屋の神棚に手を合わせるのも、こうしたことへ繋がっていきます。

ちなみに、元来の祭りというものは、神様に喜んでもらうためのもの、楽しんでもらうためのものでありました。
誰かを喜ばせたい、楽しませたい、と心から思った時、余計な邪念は消え去ります。
今も神社で行われる御饌や御神楽というのはその精神を継いでいます。

透き通った思いは清らかなエネルギーとなって天地へ通じます。

今この状況一つとっても日本だけが圧倒的にヒイキされてるように見えますが、これは私たちのご先祖様の貯金によるところが大きいと言えます。
それはノイズで汚しっぱなしにせず綺麗にしてきたという貯金です。
私たちの代で使い果たしてしまわないように、できるかぎり感謝をお伝えしていきたいところです。

さて、疫病退散を最優先に私たちの思いを受け取って天の恩恵が現れていますが、天地・陰陽の裏腹で、それとはまた別の兆候が大地に現れることになります。

雨のあとに一気に気温が上がると、勢いよく天地の氣が流れます。

大地においては日頃マントルの深層からエネルギーが湧き上がっていますが、特に断層などの切れ間ではその湧出が大きくなります。
あるいは立派な山々なども、そうした深層から湧き立つエネルギーと、天からのエネルギーが繋がる場所と言えます。
それらエネルギーの触媒として、昔の人は巨石を磐座としました。



大地はどこであろうと地の底からエネルギーが湧き出ています。

ただ、埋立地などではどうしてもそれが弱くなります。
逆に、中央構造線やフォッサマグナといった大地の切れ目では溢れるように湧き立ちます。

そうしたところでは力のある温泉が数多く湧出しています。
あるいはまたパワースポットと呼ばれる場所になったり、お社が存在することになります。
神社仏閣に関しては、それら龍脈の滞りを無くす(鎮める)ためという理由もありました。

切れ目から溢れ出るエネルギーは、まるで谷を駆ける龍のように見えます。

龍のように連なる割れ目に滞り(詰まり)があると、そこが堰となり圧が掛かり地鳴りが起こることになります。

私たちも無意識のうちに寝起きに伸びをすることがありますが、それは滞りを無くすためのものであります。
ちょっとした凝りならばすぐ取れますが、ガチガチの凝りがある時に無理に伸びをするとグキッと痛めてしまいます。

身体の凝りというのは血流の滞りによって生じます。

この時、適度な温泉に浸かったり、あるいは軽い運動をしたりすると血流がよくなって、その緩やかな流れによって凝りがほぐれていきます。
しかし、ガツンと強い温泉に入ったり、激しい運動をしたりすると、血液は激しい流れとなって凝りにぶつかり、体を壊すことになります。

雨上がりに気温が急上昇するとエネルギーが一気に流れますので、大地でもこれと同じようなことが起こります。

天地の采配により、暖かい日と雨の日が続き、疫病退散がいま目の前で現在進行形となっていますが、一方で地震の危うさが裏腹となるのでした。



2月初頭、たまたま大阪へ行く用事があったのでその帰り道、天香久山の頂上、奈良の大神神社、檜原神社で手を合わせました。

翌週は徳島出張の帰りに阿波国一ノ宮の大麻比古神社へ行き、翌日は東京から信濃国一ノ宮の諏訪大社へ参りました。

大神神社の御神体は三輪山で、大麻比古神社の奥宮の御神体は大麻山です。
そして諏訪大社の上社本宮の御神体は守屋山です。

山というのは大地のエネルギーが持ち上がって出来たものです。
エネルギーは大地から沸き立ち、天からもエネルギーが降り注いでいます。

地球規模でも、例えば磁力線というものが天から地へ、地から天へと流れています。

天地宇宙はエネルギーが流れ流れ、交流しています。

宮島の厳島神社にしても手を合わせると実はその先の弥山を遥拝する形になります。
弥山の山頂(二つ前の写真)には巨石群があり、何千年何万年も祈りの場でありました。

ただ、そんな巨石崇拝やアミニズム(自然崇拝)の形のままでは原始的だと鼻で笑って、現代まで祈りが受け継がれることは無かったでしょう。
全くもって神社を建てた人たちの凄さというか、建てさせた存在の凄さを思い知らされるばかりです。

一ノ宮というのは、図ったかのように大地のスポットに置かれています。
神社そのものが要石(かなめいし)となって、経絡のツボの上に置かれているようなものです。

ツボというのは面白いもので、ある一点をスッと刺すだけで全身の離れた先端まで一気に氣が通るようになります。

私たちが日頃そうとは知らずに神社へ足を運び手を合わせると、それはそういうことになるのです。
だから、神社で個人の願いをするなんて野暮中の野暮であるわけです。

感謝を伝えればそれは地の流れに乗って天へと上がり再び地に降りて自分に還ってきます。

一人一人の感謝は小さな小石に過ぎずとも、それが集まり集まると巌(いわお)となります。

龍脈の一つに中央構造線があります。
九州熊本から四国徳島、紀伊水道を通り、奈良の上を通って伊勢へ抜け、長野の諏訪湖の先でV字ターンして茨城へと抜けていきます。

大麻比古神社、諏訪大社はこの上にあり、天香具山や大神神社もほぼこの上にあります。

そしてこの経絡の「ここゾの一点」は、やはり伊勢神宮ということになるのでしょう。
今では、お伊勢さんでは個人の願いをしてはいけない、と観光ガイドにも載るようになりました。
伊勢神宮に限らずどの神社であってもそれは同じことですが、龍脈のヘソたる伊勢でそれが浸透するのはとてもいいことです。
一年前の予約がこのタイミングとなりましたが、私も手を合わせに参りたいと思います。



大地の滞りというのは自然由来のものもありますが、人々の心の乱れによるものもあります。

抜け落ちた髪が絡まって吹き溜まるように、私たちの雑念が大地の風通しを悪くします。

古来、人心が乱れると天災が起こりました。
それほど私たちの心というのはパワフルなものです。
逆を言えば、感謝や祈りというのもそれだけのエネルギーがあるということです。

誰か一人の力で何かの奇跡が起こるというものではありません。
私たち一人一人の思いが重なって大河となります。

感謝や祈りといってもアレコレややこしいことをするのではなく、純粋にシンプルに、感謝の思いを置くだけです。

それは別に中央構造線の上で無くとも、家の近くの氏神様でも、自宅の神棚でも、すべては一つに繋がっています。

私たちの体にも縦横無尽に経絡が張り巡らされているように、一軒一軒の神棚も、各地の氏神神社も、すべてが一つに繋がっているのです。

シンプルな感謝の思いというのは、あれこれ単語を並べる必要はありません。
言葉を並べるほど心は固まります。
型にハメようとするほどガチガチになります。
ああだから感謝だとか、こうだから感謝だとか、そんなものは本当に要りません。

 今この瞬間、生きている
 今こうして生かさせて頂いている
 ありがたいなぁ…

それ!
最後のそれ!

せっかく来たのだからと長々と祈り倒すのは逆効果にしかなりません。
ノイズ・セレクション金賞受賞です。
たとえ一瞬であろうと真心が大事なのです。
深さこそがすべて。

第一、時間なんてものは私たち人間の幻想でしかないのですから、そこにこだわる時点でアウトとなります。
この世の仕組みとして、一瞬も永遠も同じものです。
安心してその一瞬にかけて大丈夫です。
信じる勇気。サッと立ち去るのが粋というものです。

 なんだかんだいっても、
 ありがたいよなぁ…

この最後の余韻。
そこに身を投じる。
あとの余計なことは何も要りません。

余韻に浸って、手を合わせ、あとは何もしない。
何も考えない。
ほっておく。

それが天地無限へと響く一陣の風となります。




(おしまい)


  

日本に生まれて良かった

2018-05-13 10:33:05 | 国を常しえに立てます
テレビで、纒向遺跡や箸墓古墳の特集をしていました。
纒向遺跡は卑弥呼の住居、箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われる遺構です。

卑弥呼や邪馬台国という言葉を聞いただけで、ふつふつと気持ちが昂ぶってまいります。



たとえば宇宙に関わるニュースというのはみんなテンションが上がるところだと思います。
ピラミッドのような古代文明もそうかもしれません。

そうしたものは未来と過去の差はあれども、どちらも未知に対するワクワク感そのものと言えます。
未知を体験する、それが私たちの存在そのものですからテンションが上がるのも当然といえるでしょう。

一方で、この国の古代の話となると、日本人にとってはそれとは違う意味で気持ちが昂ぶるところではないかと思います。

それというのは一つには、神話のロマンという夢物語が、遺跡という物質的証拠によってたちまち実体化する、つまりリアルな皮膚感覚化することの感動にあるかと思います。

雲をつかむような遠大な距離が一瞬で消失し、身近な現実のものとして実体感を覚える。

それはつまり、太古から連なる大河の流れが今この自分に直結した瞬間とも言えます。

ボンヤリと見え隠れするその大河を確信したい。霧のようなモヤモヤをスパーンと晴れ渡らせたい。
そうした本能的な衝動がそこにあるような気がします。

実際、日本というのは太古から脈々と連なる膨大な歴史があるはずなのに、わずか1500年くらいしかハッキリしていません。

古代ローマや古代中国、古代エジプトなど他の文明では鮮明にそれが見えているだけに、歯がゆい思いのするところです。

もちろんそこには深い理由があって、隠されているがゆえに日本という国が今に至るまでこの姿、この風習のまま存続できたわけで、もしも
隠されることなく太古の歴史が世界に知れるところになっていたならば、日本の国柄や感性が破壊されていたか、国そのものが滅ぼされていた
ことでしょう。

覇権主義の国々というのは劣等意識を抱いたが最後、たとえ相手に争う気がなくても、相手を侵略しつくして屈服させるか、この世から消し去るか
しないと劣等感を払拭できず苦しみ続けてしまうからです。

世の中には、どちらも知らない方が幸せな真実があるということです。



石器時代、縄文時代から弥生時代、古墳時代まで何万年もの時が流れていますが、そうした長い長い封印の中で、一瞬のフラッシュのように
この国の姿をパッと映し出した瞬間がありました。

それが『魏志倭人伝』です。

正式には『三国志』(魏・呉・蜀)の中の『魏書』の一部。
周辺諸国について書かれた『東夷伝』の中のほんの一編。わずか二千字。

原稿用紙にして、たった5枚ほど。

まさに暗闇に差す一瞬の光の如くですが、それでもそこに私たちは大河の実在を垣間見るわけです。
伝説や神話ではなく、確かに存在したと。



ところでこの記録書というのは、自分たちの優劣意識を満たすために、他国に対してひたすら蔑めるような当て字を使っています。

邪馬壹国、倭人、卑弥呼、といったようにです。

物心ついた時から見ている字なので、私たちも何の疑いもなく「そういう変わった文字を使うところがいかにも古代っぽい」くらいにしか思って
いませんが、あらためて頭をリセットさせますと、とにかく酷い漢字ばかり使われていることに気づきます。

隣国を卑下して呼び名に動物の漢字やケモノヘンの漢字を当てる。
そんな感性ではいつまでも国がもつはずもなく、あとは推して知るべし。歴史が証明するところです。

「他者を貶めて自己保身を図るような人々は必ず滅びます」

これは時代に関係なく誰にでも当てはまる理屈なので、国内外よくよく注意が必要です。

さてそれでは改めて、このような悪意に満ちた漢字をリセットさせて、真っさらになって読み直すとどうなるか見てみましょう。

◯邪馬壹国 ⇨ ヤマト国 ⇨ 大和国
◯倭人 ⇨ ワ人 ⇨ 和人
◯卑弥呼 ⇨ ヒミコ ⇨ 日巫女、日御子、日神子

ごく普通に「大和国に住む和人たち、それを統べる日神子」となるのでした。

原文の漢字のままでは、古くからの生活をルーチンで繰り返すだけの、知性や感性の弱々しい、大陸に比べ文明文化の劣る人たちをイメージする
ところでしたが、当て字を変えた途端にそれがガラリと変わります。

まさしく古代の印象操作です。笑

時代はもう少しあと、古墳時代になりますが、倭姫命(やまとひめのみこと)という方がいらっしゃいます。
天照大御神の御杖代(依り代)となって、その鎮座する場を探して諸国を巡り、ついに伊勢に至った皇女(天皇の娘)です。

ここでも「倭」と書いて「やまと(大和)」と呼んでいます。
つまり当時の日本では、「倭」=「和」と認識していたことになります。

そしてその倭姫が伊勢の地に辿り着く以前、天照大御神を祀っていた場所というのが元伊勢と呼ばれる奈良(大和国)の檜原神社でした。

この元伊勢(檜原神社)と、纒向遺跡、箸墓古墳は歩いて行けるほどの近さにあります。

邪馬壹国と聞くと、今の日本の流れとは断絶した、どこか遠くに消えてなくなった小国のような感じがしますが、この三ヶ所の位置関係を見た
だけでも、地理的には断絶どころか丸っきり一つの流れであることが分かります。

さらに言えば、箸墓古墳は宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定されています。
卑弥呼の墓というのは一つの説で、といって倭迹迹日百襲姫命の墓が正しいとする根拠もありません。
ただ、その2人の重複によって逆に色々なものが見えてきます。

倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女です。
母が倭国香媛となっておりますので、まさしく大和の地の血筋と想像できます。


(箸墓古墳と三輪山)

小難しい話をするつもりはありませんが、あと少しだけお付き合い下さい。

倭迹迹日百襲姫命とはまた長い名前ですが、文字を省略すると倭姫命(天照大御神の御杖代、伊勢神宮の斎主)との関連性を感じずにはいられません。
ちなみに倭姫命は4代くだった第11代垂仁天皇の皇女になります

さすがにこの3人が同一人物というのは無理がありますが、それでも地理的にも内容的にもこれだけ近い年代で重なってきますと、そこには何らか
の繋がりがあると考えるのが自然でしょう。

◯箸墓 = 日巫女の墓、倭迹迹日百襲姫命(皇女)の墓
◯纒向遺跡 = 日巫女の住居
◯檜原神社 = 伊勢神宮の前身

この三ヶ所が、歩いていけるほどの距離に集まっているわけです。

ヒミコは太陽神を祀る祭主でした。
そして大和国の精神的支柱でした。

その後も同じ土地で太陽神は祀られ続け、そののち伊勢に遷り(うつり)ました。

伊勢神宮においても斎主は代々、皇女がつとめられています。
そして現在は黒田清子様が務められています。

ヒミコというのは個人名ではなく役職名ないし尊称であったとも言われますが、もしそうであるならば、弥生時代以降も檜原神社を経て、今に
至るまで皇女がその務めを引き継ぎ続けているということになります。

今この時は、黒田清子様が日巫女の役目をお務めされているということです。



(弥生建築を今に残す、伊勢神宮の唯一神明造り)

今日はこの国の連続性について書き綴っています。
もう一度整理してみます。

言うまでもなく、大和とは日本のことです。
そして日本の皇祖神は天照大御神です。

「卑弥呼」とは「日の神子、日の御子、日の巫女」でしたので、それを書き下すと「天照大御神の子孫にして、天照大御神を祀る巫女」という
ことになります。

それを踏まえて、魏志倭人伝を読み返します。

「大和という国に和を貴ぶ人たちが住んでいました。それらを統べているのは日神子(日巫女)という人物でした。」

大和の国は今もここにあります。
そして天照大御神の末裔にして、天照大御神を祀られている存在は今もおられます。

つまり、私たちの国というのは飛鳥時代や奈良時代あたりからボンヤリと現れたのではなく、遥か昔、弥生時代にはすでに今と全く形で成立して
いたということです。

しかもそれは悪口三昧の大陸の記録書をして「和人」と呼ばせるほどに、和を重んじる調和の民族であったわけです。
そして天照大御神の子孫が祖神を祀り、祭主として国の中心となっていたのでした。

まるっきり今現在と変わらぬ姿です。

古い記録書にほんの一瞬だけ映った景色。
わずかそれだけであっても、私たちにはすべてが繋がります。

そうしますと、その魏志和人伝よりも前の時代から、そのような景色があったことも想像できます。
私たちの国というのは、弥生時代よりもっと古くから、今と同じような状態で存在していたということになります。

ものの感じ方、考え方、生き方、国の在り方、国柄の何もかもが今と変わらず遥かな太古から延々と続いている。
誇らしいのはもちろん、この上ない有り難みを感じるばかりです。



私たちというのは自分ひとりで成り立っているものではありません。
何百年、何千年も連綿と続く流れそのものが私たちなのです。

脳ミソや自意識の世界に居ると、一個体という小さな存在になってしまって、まるで大海の荒波に翻弄される葉っぱのような頼りなさを感じてしまいます。
でもそこで、私たちという「存在」を考えた時、たちまち何千年もの歴史が広大な大河となって、その背後にドドーンと現れてきます。

この国とご先祖様たちという、果てしなく広がる情景がアリアリと感じられるようになるわけです。

それも、薄っすらとした弱々しい景色なんかではなく、すでに弥生時代の昔には今と全く同じ世界が出来上がっていたという、途轍もなく濃密で
深淵な広がりがあるわけです。

それが今この私たちの足元まで、直行でズドーンと繋がっている。
チョロチョロと弱々しい流れなどではなく、ブレようのない広大な大河が、私たちの背中へ直接ドーンと流れ込んできているのです。



私たちは弥生時代の昔からすでに「和の人」でした。

そうなろうとして成っているのではなく、この地に生まれた時から、私たちの存在そのものが「和」であったわけです。

もちろんそれは私たち一個人の資質などではなく、この大河そのものを指しています。

何千年もの流れがそれを培ってきたのですから、今ここで謙遜したり疑ったりする必要は全くありません。そういう話ではありません。
信じる信じないではなく、それを事実と理解することです。

私たちは、そもそも「和」そのものなのです。

いちいち迷ったりブレたりするなどアホらしいほど、私たちの存在そのものは最初から定まっているわけです。

あること無いこと金切り声で騒ぎ立てて他人の足を引っぱるような輩がいたところで、それに振り回されるような、そんな薄っぺらい存在では
ないのです。

例えば過去にも、異なる価値観に翻弄された時期がありました。
最初の一つは、弥生時代から数世紀のち、飛鳥時代のことでした。

この時代、蘇我氏を筆頭に大陸や半島から移民が数多く国政に雪崩れ込んできました。
我欲を前面に押し出し、強引な進め方で他者を貶めて牛耳る。そのような風潮が蔓延しました。

この国の在り方そのものが危機に陥った時、今一度、私たちとは何なのか思い出しましょうというのが十七条憲法でした。

聖徳太子は移民たちによって乱される風潮に対して、古くから私たちが引き継いできた感性、その大流を改めて気づかせようとしたのでした。

それは新しい提案などではなく、もともと私たちが持っているものを思い出させようとしたものでした。

翻って、今この国を眺めますと、まさに聖徳太子の時代と同じような情勢になっていることに気がつきます。

自分の思い通りにならないならば、大声をあげて騒ぎ立て、他者を貶め、力に物を言わせて白も黒にしてしまう。

それは何千年も紡がれてきた和人の感性には全くそぐわないものです。私たちが心地よく感じる調和には程遠いものです。

私たちには何千年にもわたる揺るぎない大河が流れています。

「和を以て貴しと為す」

思い出して下さい
私たちは何者でしたか?
忘れてはいけませんよ
ただ思い出すだけですよ


十七条憲法の第一条からはそんな声が聞こえてきます。

大いなる調和と聞くと、未来の理想社会や、どこか遠い星の高度文明、あるいは欲望を断ち切った解脱集団のような夢幻の世界に聞こえます。

でも、そんな大それたものなんかではありませんでした。

大いなる調和というのは、私たちのことです。
そうなろうとしなくても、私たちはこの国に生まれた時点で、もうそうなのです。


たとえ貴方がこれまで何十年間か自らを汚してしまったとしても、そんな、たかだか何十年間の汚れなど微塵も影響しないほど、途轍もなく広大な
大河が流れこんでいるのです。

絶対的な信頼を置いて大丈夫です。
頼りきって大丈夫。まかせきって大丈夫。

ひるまず、慌てず、落ち込まず、安心しきって堂々と前を向いて歩けば良い。
いちいち雑音なんかに耳を貸すことはありません。

大河の流れは、生命そのものです。

生命のエネルギーが大河となって私たちに流れこんでいます。

大河の流れは、私たちそのものであり、ご先祖様たちそのものであり、何千年ものこの国の姿であり、何万年ものこの大地の存在であります。

大いなる流れを前にしますと、言葉には表せられない思いが全身に湧き上がってきます。

ただただ、感謝しかなくなるわけです。

生きていることへの感謝は五穀豊穣の感謝となり、大流そのものへの感謝はご先祖様たちやこの国への感謝となります。

私たちに流れるその広がりへ身をまかせて、感謝と祈りを捧げる。

その大河への感謝は、ご先祖様への感謝となり、この国への感謝となり、この大地への感謝となります。

それが、遥か昔から当たり前になされてきた。
それゆえの「和人」であるわけです。

今この私たちは、まごうかたなき大和民族です。

その大河を観て、私たちへ流れ込む生命のエネルギーを感じるならば、私たちも感謝を捧げるだけです。

この大地へ、この国へ、ご先祖様たちへ。

それがこの大河を途絶えさせないための務めとなります。

私たちのその思い、その心が、今この瞬間の流れとなって、未来へ繋がる大河となるのです。


(大和国・笠縫邑の三輪山)


(おわり)

世界は静けさの中に

2018-04-14 23:39:53 | 国を常しえに立てます
目に映る景色というのは、もとより無色透明なもので、今そこに広がる「それそのまま」が全てです。

そこには形があるだけで、名前も、意味も、価値も、もともと存在していません。

でも名前や意味や価値が生じますと、いつしか「こうあるべき」「こうでなくてはならない」「こうあって欲しい」という囁き(ささやき)
が頭の中に流れはじめます。

これは原始的な洗脳にとてもよく似ています。

目隠しされてヘッドホンから同じことを流され続けていると、まるでそれが自分の本心であるかのような錯覚に陥っていきます。

身のまわりで何か出来事が起きたり、状況が変化したりするとカチッとそのテープが流れ出します。
あるいは、他人の言動に接した時にもスイッチが入って再生スタートとなります。





前回、この世には「これが正しい」というものは存在しないという話をしました。

そこにあるのは、ただの本人の好みだけです。

その好き嫌いというもの自体、自分の中から生じたものではなく、あとづけのものに過ぎません。
すなわち、それもまたヘッドホンから流され続けた受け売りであるわけです。

このことを知らずに、好き嫌いは自分自身が決めているものと思い込んでしまうと、それこそ底無し沼へ一直線となります。

「好き嫌いは持って生まれたものだ」「嫌なものは嫌だからどうしようもない」という信念は、そうした好き嫌いをさらに強固なものにしていきます。

「こうあるべき」「これが正しい」「こうあって欲しい」

それは正しさや善を求める心に依拠しています。

しかし実は、善を求める心根と、悪を求める心根は全く同じものです。
我欲を忌み嫌う心根と、我欲に溺れる心根が同じようにです。

どちらも出どころは同じ。その方向が違うだけに過ぎません。

価値基準というものからスタートしている限り、どちらへ向かおうとも迷宮入りのアリ地獄に変わりはありません。

そこから抜け出すためには、私たちが「良い悪い」「好き嫌い」という自動判定装置に身を預けてしまっている事実に気づくことが第一歩と
なります。

あえて過激な表現をするならば、私たちは今この瞬間も手放し暴走しているのです。



のべつまくなしに価値判断をし続けている脳内装置。プログラムソフト。
それは、この世に生まれて、家庭生活、社会生活を過ごすうちに植え付けられたものです。

もちろん集団生活において最低限のルールは必要となります。
それがなければ秩序を守ることはできません。

ただ頭ごなしに理屈で押し付けるものになると、それが脳内テープの元凶となってしまいます。

秩序を守るなら、それこそ共有感覚の相互確認という程度のものだけで十分です。

共有感覚とは、誰もが自然に受け入れられるもの、すなわち天地の道理に則したものを指します。

したがって、その根幹にあるのは理屈ではなく「道理」です。

言い方を変えれば、外からの押し付けではなく、内から生じるものということになります。

内から生じるものをみんな同じように感じる。
共有感覚とはそのことです。
それをお互いに確認し合うことで、みんなが同じ感覚のもと暮らしていける。
そうして秩序が保たれるということです。

ですから注力すべきは、心の感覚を磨くことになります。
そこで、あれはダメこれはダメと心を縛ってしまうのは、逆にそうした感覚を鈍らせることにしかなりません。まったく本末転倒です。

内なる声に耳を澄ましてそれがしっくりくるものかどうかは、幼い子供でも分かることです。
まさしく理屈などとは無縁の世界となります。

最低限のルールというのは「心が痛むかどうか、心が喜ぶかどうか」その一点に尽きます。

その感覚をどれだけクリアにキャッチできるかというのが目指すところとなります。

そうしますと自ずと「心を濁らせないようにする」ことに重きが置かれるようになります。

全てはそこから派生していく。
それこそが躾け(しつけ)であり、真の教育であるわけです。

私たちのご先祖さまが、穢れを忌み嫌い、ひたすら禊ぎ祓い、慎ましやかに過ごそうとされたのは、まさにそこに尽きます。

今というのは理屈(頭)から思考をスタートさせる社会となっているため、躾けもまた理屈で説明するようになっています。
これこそが価値判断装置に支配されてしまった最大の原因です。

理屈など要らない。
自分の胸に聞けばよい。

「弱い者をいじめない」
「好き勝手にやらない」
「年下の面倒を見る」
「困っている人は助ける」

そうしたことは小さな子供であっても、いやむしろクリアな子供だからこそスーッと自然に入ることばかりでしょう。

そしてそれを破った時には、なんとも言えないモヤモヤとしたものが心の底から湧き立ちます。
昔の人はそれを「穢れ」と表現しました。



そのような状態になった時、何とも言えぬ切ない気持ちになります。あるいは寂しい気持ち、悲しい気持ちと言ってもいいかもしれません。

何に対してかというと、それは天地に対してであり、自分自身に対してであるわけです。

それら一連を総称して「卑怯」「恥」などと表現しました。

卑怯というのは卑しく怯えること。
真っすぐお天道様を見られないこと。

お天道様というのは自分自身であるわけです。

誰かに怒られたり咎められるからルールを守るのではない。
自分が悲しくなるからそうならないようにする。

それが天地の道理ということです。

お分かりの通り、前者は罰則や戒律の世界です。

文明開化の頃、西洋では宗教の戒律によって自らを律して我欲を抑えていたため、教典の無かった日本は野蛮で遅れた国として馬鹿にされました。

新渡戸稲造は武士道という精神を持って反論しましたが、そもそもそんな型にはまったものすらも無かったというのが事実でした。

言うに及ばず、外の声ではなく内の声に耳を傾けていれば、そのような教典など不要のものだったわけです。

しかしそれからのち、特にここ最近「結果や理屈を求めるのが正しい」と教えられるにつれ、私たちの感性は少しずつ濁っていきました。

道理ではなく理屈で説明されるのが当たり前になると、私たちも自分の心ではなく頭に耳を向けるようになりました。

悪よりも善のほうがイイ。
ダメな状態よりも良い状態のほうがイイ。

何が善なのか、何が良い状態なのか。
正義だ悪だ、勝ち組だ負け組だ、それらは外からの受け売りで植え付けられていきました。

悪はダメだ。善がイイ。
劣った状態はダメだ。優った状態がイイ。

そうして他者をおもんばかることよりも、自分を持ち上げることを是とするようになりました。


頭の中には「それが正しいのだ」と証明する方程式がガッチリ植え込まれている。
そしてそこに身も心も丸っきり預けてしまったがために、心の内に湧き上がっているモヤモヤも感じ取れなくなりました。

いつでもどこでも頭の中で自動的にテープが流れ、それが自分の意見、自分の心の声だと疑わず従い続ける。

グルジェフが「人類はいまだにみな眠ってる」と言ったのは、一つにはそういうことでした。
家畜という表現をしたのも仕方のないところです。

今この時も、映画やテレビ、新聞など様々なチャンネルを通して、私たちは頭の中の善悪や良し悪しをセッセと磨いています。

それは、決して闇の組織の陰謀などではありません。
その多くは自ら望んで自給自足してしまっているというのが事実です。

子供の頃、まだ洒落っ気のない男の子は、洋服選びが面倒くさくて制服の方がラクだったかと思います。
それは「確実にOKをもらえる」「誰にも怒られない」という保証のもと「考えなくてもいい」というラクさがあったからです。

それと全く同じことが、いま目の前の日々に起きているわけです。
私たちは自ら望んでセッセと自動再生テープに身を預けています。



「間違ってる!」
「おかしい!」

今日もテレビから罵声が聞こえてきます。
双方の意見が流れるのではなく、一方の意見だけが流され続けています。

私たちに判断を任せるような状況を作ると、頭の中の自動装置が鈍ることになります。

しかしそれは、これまで私たちが望んできた結果でもあります。
開けた口にドンドン流し込んでくれるのを求めてきたのは私たちです。
必ずしもマスコミだけが悪ということではない。お互い様なのです。

「こいつは悪だ!」
「排除しなくてはいけない!」
「さもなくば大変なことになるぞ!」

反撃しないのをいいことに大勢で一人を吊るし上げる。
ありもしない難癖をつけて国民の恐怖心を煽り立てる。

それはまさしく魔女狩りの構図です。

その卑劣さと破廉恥さは、見ているだけで心が塞がり苦しくなります。

しかし、頭の理屈の世界に住んでしまうと、そんな心の痛みも全く聞こえなくなってしまいます。

正義だ悪だという価値判断に依存しすぎると、その言動自体に安心と喜びを感じるようになっていくのです。
それは当事者もそうですし、それに賛同する人にしてもそうです。

「こうあるべき」「これが正しい」「こうあって欲しい」

そんなものは初めから存在していません。
「正解」なんてものは夢物語でしかないのです。


しかし真面目な人や、区別をしたがる人は必死にそれを探します。
そこに身を預ければ、安心だし、安全だし、ラクだからです。

そうして正義やら正解やら、もともと存在しない幻想を作り上げ、そこに依存したがる人たちだけの世界を作り上げようとします。

それに当てはまらない人たちは排除する。
それが魔女狩りの構図です。

つまり全ては自分たちが安心したいがための行動であるわけです。

言い換えれば、他人をおもんばかることよりも自分の安心を優先させているということになります。
だからそれを見ていると心が塞がり息が苦しくなるのです。



この世界というのは無色透明です。
白も黒もありません。

ですから白黒つけようとする心グセを棄てることがまず第一となります。
そうなってようやく、赤児のような真っさらな状態でこの世界を見ることができるようになります。

理屈で考えたい。理屈で考えようとする。
そうした衝動がこれからもやってくるでしょう。
でもそれに流されない。
胸に手を当てて、心に耳を傾けてみる。

私たちは、一人一人が自由自在に存在しています。
天地とはもともとそういうものです。

何が嬉しいか、何が悲しいか、理屈ではなく心の声に耳を澄ませる。
それがクリアになればなるほど、天地の心と同じものになっていきます。

いま現実で繰り広げられている魔女狩りというのは、実は私たちにそれを気づかせるためのものでもあります。

私たちは大なり小なり、屁理屈を土台として生きています。

少し目覚めている人というのは、それをおかしいと感じ始め、感覚に耳を傾けるようになっています。
しかしそれでもなお、この社会の中で暮らすかぎりは屁理屈の価値判断に片足を突っ込んだままにならざるを得ません。
そうでなければ、まわりの人たちと円滑なコミニュケーションが取れなくなるからです。

誰しも皆、頭にテープの流れるまま平和に生きてきました。

いま目の前で起きている騒動は、胸の苦しみをこれでもかというほどに掻き立てるものとなっています。

無視することも出来ないほどに胸の中に響き渡る、内なる声。
堪え難いほどに心の内に充満するモヤモヤ。

それでもなお耳を塞ぎ、イジメに加担して喜びと安心を得ようとするのか。
それとも、いよいよその声に耳を傾け、何かおかしいと思い始めるのか。

今まさにそれが起きようとしています。

この世界が本当は無色透明であると気づいた時、その時こそ、ようやく真の安心感に巡り会えるでしょう。

誰もが恋い焦がれた夢の世界とは、いま目の前に在ったのでした。

(おしまい)


強い人にはNOしたい

2017-10-08 22:11:07 | 国を常しえに立てます
何でもスマートにやる人を目にした時、素敵だなぁ凄いなぁと感じる人もいれば、なんだコンチクショウと思う人もいます。

相手は落ち着いて話しているのに、何だか分からないモヤモヤが胸に湧き上がる。
それが何なのか分からないまま、スッキリしたいがために相手のアラ探しをして非難する。
すると何故か、先ほどのモヤモヤは消えてラクになる…

スッキリしたいという思いは、もともとは清らかになりたいという衝動によるものです。
なんだかモヤモヤして汚れたような感じがするのは全く正しい反応と言えます。
しかしそれを取り除くための行動を間違えてしまうと、清らかさとは程遠い結果と成ってしまいます。

そのモヤモヤというのは、比較意識と優劣意識そのものであり、劣等感に他なりません。

相手はそんなつもりカケラも無いのに、そのサクサクこなしている姿を見ると、何だか自分が劣っているような気がしてくる。何とは無しに
悲しさや空しさ、腹立たしさを感じる。

これは自我の作り出す一人相撲に他なりません。
それが汚れの正体です。

ですからモヤモヤとした思いを取り除こうとするならば、まずはこの我執を白日のもとに晒して丸裸にしてしまうのが正しいわけです。

しかし悶々やモヤモヤの正体が分からないまま、とにかく早くスッキリさせたいと思ってしまうと、それこそ自我の思うツボになってしまいます。

相手にケチをつけることで自分よりも下に落とす。すると劣等感は解消されますのでモヤモヤは消えます。
しかしこんなことは禊祓いでも何でも無い。
逆に悶々やモヤモヤの発生源にますますエネルギーを注いで肥大させることにしかなっていません。

それでもモヤモヤが消えるという成功体験がありますと、このパターンが条件反射として刷り込まれていくことになります。
そうしてそれ以降、無思考のままそれが繰り返される。

強い人には無条件にNOしたい衝動というのは、そういうことです。

たとえば子供の時は、親や家族、学校などに守られているのが当たり前の状態にあります。
義務教育という言葉もありますので、まわりが自分を生かそうとするのは「当たり前」だと勘違いしがちです。

そうなると、どうなるか。

自分が一番でないと嫌だ、自分の思いどおりにならないと嫌だと自我の肥大が止まらなくなる。
そうしてワガママや反抗が始まります。

子供が親に激しく当たるのは、甘え以外の何ものでもありません。
それは自分は守られているのが当たり前だという慢心であり増長であったわけです。

それが成長していくにつれて、私たちは自分の足で生きていかなくてはならないようになります。
まわりが自分のために何かするのが当たり前ではなくなると、自我の肥大はおさまり、謙虚に成っていきます。

ところが、大人になってもなお自分が守られているのが当たり前のままに自己肥大のおさまらないケースがあります。

家族が自分を守っているのは当たり前。自分のことを立てるのは当たり前。
国が自分を守っているのは当たり前。経済が安定しているのは当たり前。
天地が自分を守っているのは当たり前。空気があり水があり食べ物があり、乱れず安定しているのは当たり前…

天地は何も語らず私たちを護り、生かしています。
国家も何も語らず私たちを護り、生かしています。

そうした事実に目をふさぎ、目の前の平和を当たり前のものとする。

そうして天地に向かって感謝の気持ちを忘れる。
国家に対しても感謝の気持ちを忘れる。

あまつさえ、その大恩人に向かって非難や文句ばかりを叫び、自らのモヤモヤを解消して満足する。

これが、親に楯突くワガママな子供で無くして何なのか。

絶対的に守られていること、生かしてもらっていることを本当に知らず、知ろうとせず、あるいはそれを知った上で逆に相手の足元を見て、
甘え、幼稚園程度の知識を振りかざして自分が賢人でもあるような増長満で大恩人を貶める。

平穏で平和な日々に感謝をすることなく、その偉大さ、ありがたさに気がつくこともなく、訳のわからない上っ面だけ派手なお囃子(おはやし)
に新鮮味を感じてフラフラと流される。

日々の食事に感謝せず、流行りの外食に浮かれる。

これが子供で無くして何なのか。

いま私たちの頭の中に存在する理屈も、心の中にあるプライドも、何もかもすべては自我を正当化させるための虚構に過ぎません。

唯一確実なこと、それは、
今ココに存在している。
今こうして生かしてもらっている。


その事実に勝るものなど何一つ無いのです。

生かしてもらえていることに感謝あるのみ。
それこそがモヤモヤも悶々もサラサラと流すことになります。

今ココに在ればこそ、私たちは天地の中心となります。
今ココに在るというのは、私たちが感謝に包まれていることに他なりません。

家族しかり、国家しかり。
身のまわりのお陰さまに気づかずして、天地のお陰さまに感謝できるはずがありません。

今回の選挙もまた同じです。

フワフワと浮ついた心を鎮めて、心から感謝を思えば、自ずと感じるものがあるでしょう。

たかが国政選挙と思うなかれ。

私たちは天地の中心です。
すべては繋がっています。

身のまわりの些細なお陰さまに気がつけるかどうか。それが日本の未来、世界の未来、そして天地の未来へと繋がっていきます。

少しでも何かを感じたならば、投票という実行動を刻む。
それが、私たちがこの世に生きている証となります。




(「この世に清き一票を」2017-4-24)
http://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/9cbbe4ee71bc3ab46c0487cb9839a26a



(おわり)





母なる大地 日本

2017-10-02 23:30:52 | 国を常しえに立てます
前回は中央構造線の話をしましたが、そもそも中央構造線はどのようにして出来たのでしょうか。

実はそれをひも解くことは、そのまま私たちの故郷・日本の誕生を辿ることにもなります。

少し堅い話になりますが出来るだけ簡潔にまとめたいと思います。




今から1億年以上前、ユーラシア大陸の東端に私たちの故郷の一部がありました。
一方、残り半分はイザナギプレートに乗ってはるばる南方から北上して来ました。

何千万年もかけて半分ずつが重なり合い、陰陽合一の結果、日本列島の土台が出来あがりました。
このときの合一の名残りが中央構造線であったわけです。

断層というと大地が裂けて出来たものを想像しますが、中央構造線は実はとんでもないスケールの、地球規模の大流動の末に生まれたものなの
でした。




中央構造線こそは、日本誕生の御印(みしるし)そのものだと言えます。

母なる大地が生まれた証(あかし)、それがこうして私たちの目の前に残っているということです。

そしてまたイザナギプレートとはよくぞ名付けたもので、そのプレートは日本列島を作り終わると消失したのでした。
(「イザナギ・イザナミの国生み」参照)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/国産み




母なる大地誕生のドラマはまだまだ続きます。

その頃、東日本はまだ一面の海でした。
それが西日本の陰陽(山陰・山陽)が合一した頃、突如、太平洋プレートが日本列島側へ向きを変えて流れ出し、その沈み込みにより東日本
の海底が次々と隆起をし出したのでした。

こうして日本列島の原型が出そろったわけですが、その当時はまだ大陸のすぐ近くにあって、さらに今とは逆向きに日本海側へカーブした形を
していました。

それはまさに胎児が背中を丸めているような格好だったと言えます。

それが驚くべきことに、北米プレートとフィリピン海プレートの移動により「西日本は右回りに45°」「東日本は左回りに20°」の大回転を
始めました。


母なる大地は大陸から離れ、ついに今のようにクッと背筋の通った堂々たる日本列島と成ったのでした。

この大反転の名残りが、富山から富士川を貫くフォッサマグナだと言われています。




これほど広大な面積の土地が、しかもそれぞれ逆回転の大移動をしたという信じがたい事実。
つまりそこにもまた右回りと左回りの陰陽の理が働いたのでありました。

この大反転はわずか一千万年の期間で完了しました。
これを神業と言わずして何と言うかです。

私たちの故郷、母なる大地は、たまたま出来たのではなく、全方位から天地宇宙のエネルギーが流れ込むようにして、これでもかと言わんばかり
のおかげさまによって生まれました。

この大地はとてつもないスケールの奇跡の結晶として今ココに在るわけです。

わずか数千万年のうちに起きたこの大変動を考えれば、今の中央構造線で起きる揺れを忌み嫌うのはどうなのかという気持ちになってきます。

むしろその振動によって、数千万年にわたって繰り広げられた日本(=地球)のダイナミックな生命の脈動が、今でもココに流れていることを
強く感じられるのではないかと思います。

そうした数千万年を知らずして今しか見えていないと、私たちはわずかな振動も恐怖に感じてしまいます。
地球や大地を無視して自分しか見えていないと、今の生活が当たり前になってしまい、わずかな変化も嫌なことに思えてしまうものです。

しかしこうして広く大きく物事を見てみますと、そこには全く違った景色が広がってまいります。

大断層こそは天地に流れる生命の現われであり、母なる大地に脈々と流れている生命の証(あかし)であるわけです。
そのエネルギーあればこそ、この大地は大地と成り、私たちはここに生まれ出ることができ、そして今こうして生きることができている。


まさしく感謝そのものではないでしょうか。

そしてそこに流れるエネルギーとは、まさに私たちに流れる生命と同じものであります。
だからこそ、私たちが感謝を思うことはそのまま大地の詰まりを通すことにも成るのでありました。

「大断層」=「地震」=「命の危険」「生活の危機」
そう考えてしまうと怖くなったり忌み嫌ってしまいます。

「大断層」=「生命の息吹き」=「母なる大地のルーツ」「生かして頂いている感謝」
このように考えれば、たちまちイメージが変わるはずです。

それでもなお、死の恐怖が頭にチラつくのであればこのように考えてみます。

私たちは、自分の力だけで生まれ出たのでもなければ、自分の力だけで生きているのでもありません。
私たちは母なる大地あればこそこの地に生まれることができ、そしてこうして生きてこれた。

生まれた瞬間から死ぬ時まで、私たちは母なる天地に包まれ、その腕の中に抱かれ続けています。
そして万が一にも天地によって召されたとしても、天命というものを考えるならば何も理不尽なことはなく、事件や事故で亡くなるよりも
ずっと納得がいきます。
病気で死ぬよりも遥かに自然死です。

命を奪われるのではなく、天から召されるのです。

自分の人生というものを「自分でコントロールして全てを握っている」と思うから、自分以外の存在によって運命づけられることに無念さと
怒りと恐怖を感じてしまうのです。

自我の我執に囚われることは多くの苦悩を生む全ての原因です。
思うようにならない。ままならない。
そんなのは当たり前すぎる話です。

もとより私たちは、私たちを大きく包む数多くのお陰さまによって生かして頂いています。
私たちの自我の思うままに成るはずがないし、そんな安っぽいものではないわけです。

私たちというのは天地を繋ぐ柱です。
そこに流れる「無限の8の字」の中心です。
自分ひとり独立した存在などではないのです。

自分だけで生きているなどトンデモナイ。
私たちは、生かし、生かされています。

大地に思いを向けるのは私たちにしか出来ないことであり、だからこそこうして我執に振り回されてしまっている現実に気がつくことが本当に
重要になるのです。

自分のことしか見えていないと、恐怖は恐怖のまま増幅されていきます。
明日のことはどうでもいい。
私たちが今この瞬間ココに生きていられているという、ただそのことに思いを馳せたときにフッと心に浮かぶものがあるでしょう。

それを大切にすくいとって、素直に表にあらわすということです。




いま一度、大地のことへ話を戻します。

凝りや緊張が取れて流れが良くなりましても、少しずつ凝りや緊張は積もっていくものです。
ですから大地への感謝というのは、いつでも大切な意味を持ちます。

私たちも疲れや凝りが溜まり、知らず知らずのうちに体の節々が緊張していくものです。
たまに伸びやアクビをしたり、適度に体を動かしたりします。

この大地もまた同じです。

詰まり詰まって大きな塊にならないためには私たちの思いがとても重要になります。
天地人の感謝の流れというのは、私たちを生かすものであり、天地を生かすものです。

特別なことではなく、ごく普通の状態にあるだけでいい。
我欲に染められず、ホットケの境地にあればいい。

地震は嫌だから抑えようとか、生活を壊されたくないから祓おうとか、そういう我執は一切無用。
大断層だから怖いとか嫌だとかいう我心は逆効果でしかありません。

地震が起きるとか起きないとか、そういう些細な次元の思いは捨て去る。
そうではなくて、ただただ、私たちが存在できている事実、そこにある母なる大地の存在、そうしたことに対しての純粋な思いだけでいい。

そうして私たち一人一人が、何かの縁で降り立った土地で、あぁ気持ちがいいなぁと喜びに浸る。ありがたいなぁと素直に思う。

それが幾千万の柱と成って、天地宇宙へサラサラと流れていくことになるでしょう。





(おわり)