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お金というもの

2019-09-29 22:03:55 | 天地の仕組み
お金というのは本当に不思議な存在です。

もともとは便利な発明品に過ぎなかったのに、良くも悪くも私たちを丸裸にする鏡となりました。

お金にこだわると、お金で苦労することになります。
お金をいい加減に扱うと、やはりお金で苦労することになります。

そしてお金で尊敬を集めようとすると、お金で恨みを買うことになります。
お金で人を喜ばせようとすると、お金で怒りを買うことになります。

まわりの人たちはその人を尊敬しているのではなく、その人のお金を尊敬しているからです。
まわりの人たちはその人に喜んでいるのではなく、その人のお金に喜んでいるからです。

お金を払う人もお金を貰う人も、お金が鏡となって我執や欲得が自分自身へ跳ねかえることになります。

人を見ずにお金を見ているから、お金が鏡になって自分の姿が反射されるのです。
お金を見ずに人を見ていれば、お金は鏡にはなりません。

お金を通して人を恨むのも、お金を通して人の歓心を買おうとするのも、どちらも幻影をおいかける独り相撲に変わりありません。
お金にフォーカスした時点で、そこに映るのは相手ではなく自分の姿になります。
お金を見る時、私たちは自分の内側を見ているわけです。

お金に映った相手の幻影にワーワーやってる。
それは自分自身にワーワーやってるのと同じことです。

そもそも、お金というのは単なる概念です。

お金という発想自体が架空のものでしかありません。
概念というのは変幻自在です。
コレだという決まった形はありません。
決まったものがないということは、どんな形にでもなれるということです。

お金は、見る人の「見たい姿」となって見えています。

もともとシステムとしてのお金というのは、利便性のために生み出されたものでした。
ただそのお金に「生きる糧」という要素がくっついたことからおかしくなっていきました。

人類がその要素に囚われずサラリと流して、システムとしての利便性だけにとどめていれば、お金というのはもっと軽やかな存在としてクリアに
機能していたでしょう。

しかし生きる糧というところに人々の思いがフォーカスされてしまったため、のべつまくなしに想念が流れ込んで行くことになりました。

人間の思いというのは良いものばかりでなく、ドロドロした欲得や執着もあります。

そうした思いを誰も自制することなく、無自覚のまま無制限に垂れ流し続けました。

そうして何百年、何千年ものあいだ私たちの想念を受け続けたお金は、様々な意味合いを持つ巨大な概念体となったのでした。

お金という抽象的な単語の向こうには、無尽蔵に広がる概念体があるということです。



私たちは漠然と「お金」と言いますが、そのとき意識はこの目には見えない概念体にアクセスしています。

想像してみると、これはとても怖い話です。

もし誰かが「私のもの、私のもの」とガツガツお金を集め始めると、たちまちお金の向こうに広がる何千年もの欲得のドロ海に浸かることになるのです。

そんなの知らないと言ったって見逃してもらえる話ではありません。
それは罪でも罰でもなく、単にシンクロの原理であって自ら望んだものでしかないからです。

だからといって、その逆に「お金なんて汚い」「恐ろしいものだから距離を置こう」と粗雑に扱ったり、忌み嫌ったりしてもこれまた違う意味で
大変なことになります。

そもそもお金は単なるシステムですから、別に汚いものではありません。
もしお金の向こうに広がる巨大な概念体に対してそうした思いを抱いたのならば、距離を置くのはその概念体の方であって、お金そのものではありません。
そこはしっかり切り分ける必要があります。

お金に意識を向けた時点で私たちの心は私たち自身に向いています。
ネガティブな思いを向けるとネガティブな波動がシンクロ反射してきます。

ではどうするのが良いのでしょう。

たとえばそれは、怨霊を鎮めた神社に喩えることができるかもしれません。

言うまでもなく、おすがりするのは大変危険です。
といって、ぞんざいに扱うのも非常に危険です。

良くも悪くも執着せず、涼やかに手を合わせ、スーッと通り過ぎるのがいい。

その場かぎりのものとして感謝をもってお見送りする。
お金がドッと入ってきても、あるいはスッカラカンになっても、静かに手を合わせる。

お金そのものに功罪があるわけではありません。
お金が恐ろしいというのは、お金そのものではなく、想念反射が恐ろしいだけのことです。

そもそも想念反射なんてものはこの世では当たり前に起きていることですし、何ならこの世は想念反射で成り立っていると言ってもいいくらいです。
この世は私たちの思いの現れそのものですから、今さらお金だけが怖いというのもおかしな話でしょう。

それでもお金が怖いとすれば、それは私たちがお金に対しては丸裸で本心をさらけ出しているため、想念・観念の反射率がそれだけ高いという
ところに尽きます。

私たちはお金をスケープゴート(逃げ道、言い訳、大義)にして想念を流し続けています。

お金が不安だと言っては不安のエネルギーを増幅させ、お金が嬉しいと言っては欲得のエネルギーを増幅させてしまっています。

お金は単なる媒体に過ぎません。

その向こうに広がるもの。
そこへジャブジャブ垂れ流しているもの。
そうして、その世界へと自ら全身を投じてしまっていること。

どれもこれも、目に見えないまま静かに起きていることなのです。



お金というのは誰のものでもありません。
自分のお金なんてものはありません。

お金とは何なのかと言えば、それは「ご縁」です。

生きているかぎり私たちはお金を使います。
お金を一円も使わないということは有り得ません。

貯金を銀行に塩漬けしたりタンス預金したとしても、生きるためのお金は回っている。
概念としてのお金は常に出たり入ったりしていて留まることは無い。

お金とは海の水のようなもので、そこに区分けなどありません。
「使っているお金」「使っていないお金」などといった区分けはなく、私たちが勝手に定義付けしているだけです。

たまたまそこからすくい上げた一部をタンス預金と名付けたところで、広大な海は変わることなく流れ流れています。
海辺ですくった水など、まさしく御縁以外の何ものでもないでしょう。

意識や定義付けによって私たちは自分で自分を縛っています。
お金が私たちを縛っているのではなく、私たちが私たちを縛っているということです。
お金が私たちを悩ませるのではなく、私たちが私たちを悩ませているのです。

事実を事実として見れば、悩みも生まれません。

目の前のお金が無くなった時というのは、自分が使ったにせよ誰かに取られたにせよ「そういうご縁だったのだ」と割り切るだけの話です。

恨んだり怒ったりするのは自作自演のマッチポンプ(=自分で火をつけ自分で消火する偽善行為、被害者意識)でしかありません。
自ら仕込んで自ら被弾する、まさに自傷行為です。

お金を失っても、いっときの御縁と割り切った上でさらに心の中で手を合わせられれば、これは本当に最高です。

何故ならば、その瞬間に心のフォーカスがお金から離れて「まわりまわっている御縁」の方に向くからです。

まわりまわっている御縁に感謝すると、まわりまわる御縁がスムーズに流れるようになります。
たとえば、お金がまた入ってくることにもなります。

生かされていることに感謝すると、生かされていることがスムーズに流れるようになります。
つまり、ますます生かされるようになります。


向けたものが返ってくる法則というのは一つの比喩であって、実際は、向けた先に自らの流れを創造しているというのが真実です。

ですから逆に、お金が入ってきた時もまた、自分が稼いだにせよ誰かに貰ったにせよ、ホイホイ喜ぶのではなく、そういうご縁なのだとやはり手を
合わせるということです。

どんな時でも、お金に心を向けず、ご縁に感謝です。

ご縁というのは、人やモノ、環境、タイミング、そうした全てによって紡がれるものです。

さまざまなことが重なって今この瞬間に接点となって目の前に現れたもの。それがご縁です。

次の瞬間には消えてしまい、同じものは二度と現れません。
掴んで離すまいとしても実現不可能。物理的に不可能なのです。
その不可能なことにこだわるから苦しみが生じます。

それは目の前の空気を掴んで離すまいとするのと同じようなものです。

呼吸ができなくなったらどうしようと不安になって掴んで離すまいとする。
しかしそんな心配しなくても私たちは今も生きているし、将来も生きていけます。
私たちがそれを頑張って止めないかぎり、流れが止まることはないのです。

お金は得たり失ったりするものではありません。
御縁の結果、ただ現れたか消えたかだけです。
自分のものであったことなど一度もありません。

心配しなくても私たちは今も生きているし、将来も生きていけます。
私たちが生きるという流れが止まることはありません。


「お金が無かったら『生きていけない』」という思いだけが、唯一その流れを詰まらせるものとなるのです。




(つづく)





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