これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

『泣きなさい 笑いなさい』

2020-08-10 21:16:00 | 天地の仕組み
遥か彼方の座席で映画を観ている私たちというのは、今この私たちと一つに繋がっています。

どちらか一つということではなく二つで一つです。
二者は遠く離れているように感じますが、その間はすべて私たちで埋め尽くされています。

それを、何層にも連なっているという言い方もできますが、正確に言えば隙間なく繋がっている状態です。
人間の体に喩えるなら、頭のてっぺんが今この私たちで、足のつま先が映画館にいる私たちといった感じです。

どこで切り取るかによってそれぞれ違うところに存在しているように見えますが、その全てで一つの私たち。
一つ一つが個別に存在しているのではなく、すべてが一つの私たちです。

その一端は、今この現実においても垣間見ることができます。

それはただボーッとしてみれば叶います。
本当にボーッとするだけ。
雑念が湧いてきても、それをそのまま放っとき続ける。
放っといても次々とまた雑念が出てきて、なかなかボーッとできませんが、それでも放っておく。

これは日常生活から物理的に離れた場所のほうがやりやすいかもしれません。

山々の緑や大空を見ながらボーッとする。
川の流れや焚き火を見ながらボーッとする。
海に漂う小魚を眺めながらボーッとする。
大の字で温泉に浸かってボーッとする。

一時間もするといつの間にか雑念は消えて、頭の中が静かになっています。
遠くの鳥の鳴き声や、シーンとした静寂の中に、自分も溶けこんでいきます。

天地に広がる感覚。深くへ広がる世界。
これもまた私たちであるわけです。

現実で繰り広げられるドタバタの毎日。
目の前の世界というのはそれ一色に見えますが、実はそのベースにはいつでもこれが広がっています。

この静寂は消えたり現れたりするのではなく、常に今ここに広がっています。
その上にチョコンと、目の前のドタバタが乗っかっているということです。

そしてこの静寂の下には、さらに静かな広がりがどこまでも連なっています。

夜中、深い眠りについている時、私たちはこの広がりの下へ下へと溶けこんでいきます。

もともと広がっている自分。
さらに微細な広がり。
そして映画を観ている自分へと。

私たちは、つま先まで自分全体の広がりをしっかり味わってから、再びこのてっぺんの先っちょの現実に戻ってきます。

上から下までそのすべてが私たち自身です。

息を吸ったり吐いたりするのと同じように、すべての生き物はこれを繰り返しています。

呼吸によって全身に酸素が循環されるように、この動きによって私たちのエネルギーが循環されます。

この流れを止めて頭の先っちょだけで滞ってしまうと、呼吸や血液を止めるのと同じことが起きてしまいます。
つまり、酸欠や鬱血状態におちいり、たちまち私たちは朽ちてしまいます。

あらゆる生き物たちが、この世において捕食される危険を冒してまで睡眠を摂るのは、そのためです。

ちなみに、言うまでもなく野生生物たちは常に「今この瞬間」に集中しています。
狩られて命を落とすかもしれないという究極の不安にさらされているにも関わらず、それに囚われることなく、目の前のことだけに集中しています。
ですから、眠る時もしっかり眠ります。

しかし私たち人間はそうではありません。

現実のドタバタに囚われすぎると、私たちは頭がフル回転になって、いつでもそのことに縛られたままとなります。
そうなると、寝ていてもしっかり眠れない。
深くまで行けない状態となります。

命を落とすほどの危険があるわけでもないのに、昼間の現実に囚われてしまっているということです。

氷山の頂きだけに偏っているとエネルギーが枯れていきます。
私たちは遥か深遠まで広がっているのに、ほんの先っちょにとどまってしまったら、そうなるのが当然です。

ですから、しんどい時こそ、何もしないボーッとする時間を無理やり作ることが、本当の意味でとても重要となります。

日常から離れて、山道の一歩一歩を黙々と踏みしめたり、湖面に浮かぶ釣り糸に心をまかせたり、ひなびた温泉地でテレビも携帯も忘れてゴロゴロしたり、いつもと違った一枚絵の中に自分を置いてしまう。
がんじがらめに縛りつけてしまった現実への囚われを手離すため、完全に脳をリセットする。

ひたすらボケーっとする。
とことんボケーっとなる。
思考のオーバーヒートを止めて、無限に広がる静寂へと身をまかせる。

単なる理屈や理念だけでなく、この「無」に自分を戻す作業が、実体験として必要なのです。

てっぺんに偏っている私たち、そこで根詰まりを起こしている私たちを、少しずつ緩めて広げていく。
これはまさに、こわばった筋肉をほぐして血流を戻していく作業なのです。

ですから、日中にガリガリと氷山のてっぺんに縛りつけられ酸欠状態になっていながら、休みの日もテレビやネットゲームで暇をつぶすなんていうのは、何の解消にもなっていないわけです。

そんなことを続けたら、エネルギーは枯れ、ますます囚人状態が進み、最期のエンドロールを観ながら歯ぎしりをすることになってしまいます。

ドタバタの一枚絵の下に広がる静寂は、特別な環境に身を置かなくても、いつでも得ることができます。
テレビや携帯を手放し、公園でボーッとする、お風呂でボーッとする、喫茶店でボーッとする、トイレでボーッとする。

目の前の景色というのは単なる絵画です。
その広さや狭さに関係なく、私たちというのは天地無限に広がっているのです。




深層に広がる私たちにまかせきるというのは、天地宇宙にまかせきると言い換えることもできます。

私たちはしっかり護られている、見守られている、ちゃんとコントロールされているわけです。

深層に広がる私たちだろうと天地宇宙だろうと、どちらも同じことなので、自分でシックリくる方を使えばいい。
とにかく、おまかせしきって目の前のことだけに集中すればオールOKというのを納得できること、安心できること、信じきれることが重要です。

そして、くれぐれも、そこに打算や逆算を入れないよう注意が必要です。

たとえばツラい現実に直面した時、映画館にいる自分を思い出して「最後はGOODエンドになるからこれでいいのだ」というのは、できることなら避けたい。

理屈ぬきに「これでいい」というのが理想だと言えます。

もちろん、慣れるまでの方便としてならばアリかもしれませんが、いつまでもそれをやってしまうと自分の本心を誤魔化していることになってしまいます。

これが危ない。
優等生気質が陥りやすい罠です。

自分の本心から目を背け続けるのは、エンドロールで一番後悔するパターンです。

それが良いことであろうと悪いことであろうと、打算や逆算の行動というのは自分の本心を包み隠して押さえつけるものなので、自分自身がもっとも残念に感じることとなります。

ですから、正解狙いや優等生的発想というのは、とにかく即やめた方がいい。

そうなるくらいなら、やらないほうがいい。
やりたいように、やっちまったほうがいい。

自分の欲得や執着に素直になった方が、本当にずっとマシなのです。
それほど、自分自身に嘘をつくというのは、残念無念な行いなわけです。

誰かに褒められたいという思いは捨てちまったほうがいい。なにせ最後の砦たる自分自身こそが残念がるわけですから。
誰からも認められないかもしれないという不安も捨てちまったほうがいい。本心に素直であることこそ自分自身が喜ぶことなのだから。

ですから、ひとたび現実社会に戻ったら、この世の仕組みやネタバラシなど忘れて、目の前のことだけに集中しきることです。

そのために私たちは、わざわざ全部忘れて生まれて来ています。


ところで、天地自然に広がった大きな自分を体感すると、その感覚のままで目の前のドタバタに集中したいと思うところです。
たしかに目指すところはそうなのですが、そこは焦らず気長に考えた方がいいかもしれません。

私たちは一度に一つのことしかできません。
二つのことを同時に出来ないようになっています。

正確に言えば、一瞬一瞬において私たちは一つのことしかできません。

「いや、テレビを観ながらメールをやっている」と思うのはただの錯覚です。
一つ一つの瞬間は必ずどちらかのことしかやっていません。

それほど深く没頭していない時は、別のことに瞬間的に心を切り替えられるだけの話です。
凄い速さで行ったり来たりできるから、まるで同時にやれてるように感じてるだけで、同じ瞬間に二つや三つのことに心を向けているわけではありません。

逆に一つのことに集中しきっている時は、他への切り替えをすることなく連続してそこに心が向いています。
そういう時には、二つのことに同時に心を向けるのが不可能であることを実感します。

これこそが、今この瞬間が一枚絵であること、すなわちこの世には今ココしか存在していないことの証左であり、どうやっても私たちは「今ココ」(=目の前)に集中することしかできないことの証明になっています。

ですから「心を広げようということに意識を使いながら、目の前にフォーカスする」というのはこの世の仕組みとして不可能なことです。

広がるほうに心を使ってしまうと他のことが何もできなくなる。
そうなると、その両立は不可能なのかというとそういうことではない。
心を使わなくてもそれが当たり前になるまで、広がった状態を身体に染みこませればよい。

一度染み込ませれば、あとはそっちのほうに心を使わなくてもそれが自然な状態となる。
そうなれば、心は目の前のことだけに使える、目の前に集中できるということです。

ということで、ボーッする行為は、天地の広がりを身体に染み込ませるための実践トレーニングになります。
まかせきった状態を体が覚えるには、繰り返し繰り返し、数を重ねるしかありません。

ボーッとする。
無になる。

それはしがらみを捨て去った状態です。

しかるに、ボーッとしていると自分が怠けているような罪悪感が湧いてくるとなれば、それは優等生脳の仕業です。
まんまとエゴに騙されています。

実際「ボーッとする」ではなく「無になる」と言い換えれば、たちまち真面目な感じに見えるから不思議なものです。
ただ残念ながら、無になろうとすると無にはなれません。
それは、脳やエゴが主導権を握った状態だからです。

それが「ボーッとする」と言えば不真面目な感じがするけど、簡単に無になれる。

これは本当に大切なことを言っています。

それと同じように、現実に囚われまいと、あの世を強く思いすぎてしまうのも、やはり脳やエゴが主導権を握った状態にあるため血行不全を起こします。

「どうせスクリーンの中の作り話なんだから適当にサラッと流せばいいのだ」とヤル気のない俳優が居たら、どう感じるでしょう。
石に噛りついてでも貪欲に生きようとする姿にこそ、拍手喝采が起こるのではないでしょうか。

一休禅師や禅僧・仙厓義梵は辞世の句で「死にとうない」と言いました。
それはこの世への未練や執着ではなく、目の前への集中から出た言葉です。

つまり、死ぬ間際まで「必死に」生きようとした。
最期の最後まで、目の前のことに一所懸命であったということなのです。




さてここで話を少し広げますと、この世というのは、私たちのまわりの暮らしだけでなく、そこには国があり世界が存在しています。

社会や経済、国際情勢というと私たちからは遠く離れた出来事のように感じますが、どれもが今この目の前の一枚絵の中に共に存在しています。

私たちの日常と、世界の出来事は、決して無関係なものではありません。
そうしたものもまた映画館の私たちを楽しませる要素となっています。

大国同士のいざこざがキナ臭くなっています。
5年後、10年後、想像もつかない嵐の中に私たちは巻き込まれるかもしれません。
でも、それも含めて私たちの芯の部分は楽しんでいるということです。

それは大災害や天変地異であっても同じことです。
私たちからすればそんなものは嫌に決まってますが、それも含めて私たちの芯の部分は楽しんでいる。
生きることを楽しんでいる。

何が言いたいかというと、そうなるのは嫌なわけですが、そうなったら、もうバンザイしかないということです。
諦めろと言ってるのではありません。
回避するために、事前の策も含めて、最期の最後までジタバタするのが私たちの為すべきことです。
ただ、それ以外のことまで囚われる必要はないということです。

この部分、早とちりしやすいのでもう一度言います。

「まだ起きてもいない先々のことに縛られず、目の前のことだけ見ていればいい」ということであって「いま目の前のことまでも斜に構えて適当に流せばいい」ということではありません。

目の前で、紛争や災害が起きたならば、その時の自分の思いには素直になる。

目の前のことに対して自分の中から湧き上がる思いこそは「今ここ」そのものです。
それを誤魔化したり、繕ったりするのは逃げです。
目の前の今をしっかり受け入れることが、私たちの芯の部分が求めていることです。

私たちというのは、遥か深くへ、樹木のように根を広げています。

深く深くに広がる私たちと常に繋がり、そこから栄養が流れてきて地上の幹や葉のように私たちが支えられています。

そして、地上に姿を現している今この世界で、陽の光や空気をいっぱい浴び、それが栄養となって深く深くへと送られています。

それを向こうから見れば、それこそ全く逆の姿となります。
地中深く根を伸ばしている先がこの世界であって、そこでの様々な刺激や体験、それに伴う内的反応が、栄養となって向こうで花を咲かせます。

蓮の花は汚れた泥の中でも美しく咲いている、だから私たちも頑張れば美しい花が咲く、などと言われますが、それだと価値判断や打算の域を出ません。

泥が汚れているというのは私たちの価値基準であり、ただの決めつけです。
蓮にしてみれば、泥というのは栄養豊富な美しく輝くご馳走なのです。

同じように、この世というのも白黒さまざまなものが入り混じった栄養豊富な世界です。
そこには私たちの内から生じる色々な思いも含まれています。

それを泥沼と称するのは勝手ですが、ネガティブに捉えるのは完全な間違いなわけです。

栄養豊富な世界だからこそ、向こうで見事な蓮華が咲きます。

ですから「泥沼だけど」とか「汚れてるけど」とか、そんな先入観こそ余計です。

私たちがここでやるのは、ただ、その栄養をしっかりと味わいきることだけです。



足の先っぽ寄りでもない、頭のてっぺん寄りでもない、今ここに集中することが私たち自身の証明となります。

それぞれ、その時その場所の役割があります。

この世に居る時は、この世に集中しきる。
目の前の一枚絵を味わい尽くす。
自分自身に素直になりきるということです。

先のことやまわりのことなど考えない。
目の前の一枚絵がすべて。

打算も逆算も見栄も何もありません。

これからも、日々の生活は嵐の連続かもしれません。
難破してボロボロになるかもしれません。
世界では争いが激化し、天地も荒れ狂うかもしれません。

それでも、それは私たち自身の芯の部分は、それも含めてヨシとしている。
その中で生きることを楽しんでいるのです。

いま一度言います。

そうなったら嫌だ!というところに、囚われすぎないことです。

大波が来たら回避行動をするのが、この世に生きる私たちの本分ですから、そうならないように今ここでの最大限の努力をする。
ただ、そうした先に、結局そういう一枚絵がやってきたとしても、それはそれで仕方ない。
深層の私たちがそれだけ壮大なスケールのミックス味を求めていた。
ですからその時が来たら、あとはただ、ひたすら泣き喚くのみです。

最後がどうなろうとも、それでいい。
何が正解なんてものは無い。

何が不幸で何が悲劇なのかなんて、表層の私たちが偉そうに決めつけるものではないのです。

私たちは、ただ目の前に集中し、今ここで出来ることを精一杯やり、そして目の前で起きたことには素直に笑ったり悲しんだり、怒ったり怯えたりするだけ。
その瞬間の自分に素直になるのみです。

子供というのは目の前のことだけに一所懸命です。
やめろと言われてもやる。
そのかわり本当に目の前しか見えない。それしか見てない。
他の雑音は入ってきていません。
それだからこそ、些細なことでも泣き、笑い、怒り、喜ぶのです。

それが目の前を100パーセント味わいきる姿です。

今の私たちというのは何者なのでしょう。
自分で自分を作ってしまってはいないでしょうか。

私たちの本当の心は、素直な私たちを望んでいます。

大人ぶる必要はありません。
カッコつける必要はないのです。

目の前のことに全身を投じ、そして湧き上がるままに、泣き、笑い、怒り、悲しむ。

それがすべて。

それこそがこの世に生を受けた私たちの役目であり、存在意義であるわけです。






(おしまい)





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