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三千世界に花ひらく

2017-07-27 12:48:02 | 国を常しえに立てます
「個性を大切に」
「世界で一つの花」
「自分を咲かせましょう」

もしもこうした言葉が生理的に嫌だったり、空々しい綺麗事にしか聞こえなかったならば、それはとても冷静な人だと思います。
逆に、そうした響きを気持ち良く感じてフワフワ舞っている人には危うさを感じます。

個性だとか花だとか、そんなフワッとした曖昧な表現を信じていいのか?
それが健全な反応でしょう。

そもそも「個」というのが何を指すのかハッキリ自覚できていない状況では、個性にしても花にしても抽象的な概念でしかありません。
何となく良さげなイメージ。綺麗そうなイメージ。そんなところです。
そんなものを信じられるはずがないわけです。

ホワッとしたイメージだけで気持ちよくなって、個を守ろうとか花を咲かせようとか叫ぶことは、自我の暴走や我執の増長を招くことにしか
なりません。

異常なほどの偏向報道、反対のための反対、活動そのものに酔ってしまう集団、ごちゃ混ぜになって国会を空転させる人達というのも根っこは
これと同じです。

気に入らないからヘイトする。
弱い立場を見透かして居丈高に出る。

恥も外聞もなく嘘をついてまで人を貶めて我が身を浮かせる。目的の為なら手段を問わない。
我執まみれのその姿は正視に堪えられるものではありません。

心が穢れることは誰だって嫌なものです。
多くの人たちは、論議以前にそうした心根の醜さを忌み嫌って、テレビも新聞もアンケート調査も全てシャットアウトしてしまうことでしょう。

連日テレビに流される映像は、国会答弁にせよ識者コメントにせよ街頭インタビューにせよ、切り貼りした作り物でしかありません。
個というものを履き違えて公を無差別攻撃することが正義だと思い込む人たちが作り出した張り子の虎です。

「大変だ大変だ。」
(何が大変なのか?)
「いや大変とかでなく、あいつは悪いやつなのだ」
(何が悪いのか?)
「いや何が悪いとかでなく、とにかくあいつは悪いやつなのだ」

戦後の占領政策では、個を尊ぶという美名のもと自我や我欲が野放しになりました。
それを自由だとか解放だとか言うと聞こえがいいため私たちはすっかり騙されてしまいましたが、それは間違いなく欲望の垂れ流しでありました。
経済成長とともに物欲を満たされながら歪んだ価値観を植え付けられた世代は真の犠牲者です。

公を受け入れることは、自我や我欲を抑えることに他なりません。
そのため、個というものを履き違えた人たちは全身全霊でもって公を貶めようとします。
なぜなら自我や我執というものに全身を染められた人にとって、我欲を抑えられることは自らの存在そのものが抑圧されることにしか思えない
からです。
だからこそ大声で相手を罵り、その言葉を封じようとします。

本来、道徳や倫理、躾や恥というものは、我欲をたしなめて真我を翳らさせないための方便でありました。
しかし彼らは戦前戦中の軍国主義を引き合いに出して、そうした方便をも封殺して自らの我欲を正当化し続けました。

反日、反政府、反体制に見られるヒステリーというのは、そうした我執が可視化したものに他ならないわけです。

支持率の低下などという姑息な操作にしても同じくなりふり構わぬヒステリーの現れではないかと思います。
多くの人たちが違和感を感じているはずです。
すぐバレるような嘘をついてまで相手を叩き伏せようとするのは、それだけ危機感を抱いているということでしょう。

ところでこれまでの話は、集団ヒステリーに陥っている人たちを非難しているものではありません。
こちらとあちらというように二元化、対岸化させるつもりは全くありません。

私たち誰もが持っている我執の囚われは、日本全体の集合意識の中にも存在しており、そうしたものが今このような形で具現化しているだけ
のことです。


つまり、どっちが正しいとか間違っているとかいう次元の話ではないということです。
病気や痛みが生じた時に他人事だと切り捨てることはないでしょう。

彼らは私たち全体の代弁者です。
決して他人事ではなく、全てが自分事であるということです。

従いまして、今この異常な状況に対して多くの人が危機感を覚えるだろうことも含めて、全体的に見ればこれらは必要な流れと見ることが
出来ます。

マスコミやその他勢力にしてもここまでなりふり構わずやっていること自体、非常におかしなことに映ると思います。
少しでもズル賢い人間であればもっと狡猾にできるでしょうに、あまりに底浅く、しかもその度合いがどんどん加速してきている。

それは、それだけの理由があるということです。

どんなにお気楽な人でもさすがにアレ?と思う。違和感を感じて立ち止まる。
まさにその瞬間、他人事だったものごとが自分事となるわけです。

外から入る情報や他人の判断に寄りかかってきた状態から目を覚まし、自分自身の心に問う生き方へ変わるということです。

私たちというのは外に在るのではなく、内に在ります。
天地宇宙すべては私たちの胸の内にあります。
全ては私たちの胸に聞く。自分の心の響きを聞く。

そのように成るために、今この世の現実は呆れるほどの茶番でもって、誰もが目を覚ますように仕組まれているということではないかと思います。


ここ最近の社会ニュースでも明らかにおかしなものがありました。
車椅子の男性が格安航空機のタラップを這って登らされたというニュースや、小学校の先生が生徒に対して窓から飛び降りるように言ったというニュースです。

これを聞いた時に、何かおかしいと思うか、条件反射的にけしからんと思うか、ということです。

実際は、かたや自作自演であり、かたや問題児の母親が腹いせに事実無根の捏造を週刊誌にリークしたものだったのですが、受け手の私たちが
そうした事実に辿り着けるかどうかは、それこそ最初の受け取り方にかかってくるわけです。

マスコミはキャッチーな話題を提供して盛り上げるために、感情を煽るような伝え方をすればいいとしか考えていません。
中身の正確さなど全く関係ありません。

そしてそれをそのまま鵜呑みにするか、不自然に感じるかというのは、頭の問題ではなく心の問題です。

何か引っかかる感じがするかしないか。

まがい物の料理を提供する悪徳レストランは、店も悪いが、客はもっと悪い。
何も考えずに通い続ける客がいるから、店主もエスカレートしてしまうわけです。

出されたものを自分の舌で味わおうとせず、そのまま噛まずに飲み込む。
無思考のまま正義という香料に身を任せ、まんまと騙されて終わりということです。

まさかテレビが、まさかジャーナリズムが、そんな卑怯なことをするはずがないと思考を預けてしまうと、一事が万事同じ罠にはめられて
しまいます。

事実を正反対に捻じ曲げてセンセーショナルな嘘に仕立てる手法は、社会ネタに限らず政治ネタにおいても全く同じこと。
森友問題しかり、加計学園しかりです。

ただ、町のニュースと違い、政治に関わるニュースというのは、国の安全、私たちの命に関わってくることです。
そこを捻じ曲げて、安倍おろしのためになりふり構わず嘘を垂れ流すというのは本当に恐ろしいことです。
その先のことなど本当に全く何も考えていません。

戦前の日本が開戦に至ったのは軍の暴走だと言われますが、そもそもその軍にしても国民の高揚感の前で弱腰姿勢を非難されてあとに引けなく
なっていた事実があり、その異常な空気を作り出したのは当時のマスメディアの扇情に他ならないわけです。

あとのことなど何も考えず、常に誰かを悪者に仕立てて煽るだけ煽り、自らの責任は取らない。
それが私たちが信じて寄りかかってきたマスメディアの正体です。

今もまた強引な数字操作や映像の切り貼りで政権を貶めることに一致団結していますが、正直そこまでの無茶をせずとも、ほどほどの脚色で
煽るほうがもっと上手く騙せるはずなのに、すぐバレてしまうほどの極端な捏造を繰り返しています。

何をそこまで躍起になっているのか、いったいこれは何なのか。
不気味に感じている方は大勢いると思います。

しかし当事者はいたって大真面目で、それこそがマスメディアという集合体の本質であり、まさしく戦争に突入した時も同じことがあったと
いうことです。

そこに属する人たちは独立して動いていたとしても、それは目に見えない大きな波に乗った上での自由行動であるわけです。
空間そのものが大きなうねりとなって加速している時、その中に居る人はそのことには気付かないか、気づいたとしてもそれにあがらうことが
出来なくなります。

とはいえ、そのようになりながらも、その大きな動きというのが結果的に私たちの意識改革に一役買っているのでありました。

外に答えを求める時代は終わり、内に答えを求める時代に成ったということです。



冒頭の「個性を大事にする」「花を咲かせる」にしても、そもそもその場合の「自分」が何なのか、そこをハッキリさせておかないとおかしな
ことになってしまいます。

それはそのまま「我欲や我執を大切にする」「自我の好きなようにやる」ということになり兼ねないということです。

私たちというのは、いったいどれのことを指すのか。
今こうしてあれこれ考えている自分のことなのか。
アレしたいコレしたいと思っている自分のことなのか。

もちろん自我というのは、私たちの大切なパートナーで、私たちの一部であるのは間違いありません。
ですから、自我というのも広い意味で私たちであります。
ただ、それを大切にすることと、野放しにすることは全く別の話です。

パーソナリティやら世界に一つの花やら、そんなものは誰かに守ってもらうものではありません。そもそも誰かに踏みにじられるようなものではないのです。
他人からとやかく言われただけで恐怖したり怒りを覚えて騒ぎ立てる時点で、真我と自我を取り違えていることは明らかです。

親や子、家族のことを心配する時、私たちの自我はなくなり相手のことだけで全身が一杯になっています。
この時の実体の無い感覚、それこそが私たちの芯であり、大切に守らなくてはいけないものであります。

マスコミのニュースを鵜呑みにして感情のままに批判する。
世界に一つの花を咲かせようとフワフワ舞い踊る。
どちらも外の世界、外の観念に身を預けた行為でしかありません。

それがいかにおかしなことであるか、別の視点から見れば一目瞭然です。


私たちは、目に見えない魂と、目に見える肉体で成り立っています。
目に見えない世界と、目に見える世界がそれぞれ大きく広がり、私たちという中心点で一つに繋がっています。
その一点を別の言葉に置き換えると、今ココということになります。

それぞれの世界に向けて、私たちという今ココから広がっていき、私たちという今ココに収斂しています。
その姿は、文字通り「無限」(8の字)となっています。



同じように、天と地の間に私たちは在ります。

天と地を繋ぐ柱が私たちであり、今ココを中心として天高く突き抜けた光は、天をめぐって私たちへと戻り、私たちを通って地深く大地へと
突き抜け、地をめぐって再び私たちへと戻っています。

私たちが全ての中心と成っている。
私たちの外に在るのではなく、すべては私たちの中心に在るのです。


外に答えを求める時代が終わり、内に答えを求める時代へと変わっていく理由はそこにあります。

柱が立たなくては天も地もありません。
8の字の中心に私たちが居ます。
私たちという臍を通して、あちらへ広がり、こちらへ広がっているわけです。
それはまさに、天に向け、地に向け、大きく花開く姿と成ります。



外に答えを求めることがいかに的はずれであるか、外に寄りかかることがいかにトンチンカンであるか、肌身に感じられるはずです。

私たちが今ココに居ずして、天も地もありません。
私たちが私たち自身から離れてしまっては、この世界は張りぼてにしかならないということです。


外野から何を言われようと、外野で何が起きようと、すべては私たちの内から広がった世界に過ぎません。
そんなものに動じたり、振り回されたり、酔いしれたりするのは滑稽以外の何ものでもありません。

正義だ何だ、世界に一つだ何だ、そうした観念に無条件に飛びつくことはやめる。

すべては胸の内にあります。
ですから、ただ自分を自分に置いて、心に耳を傾けるだけです。

結果としてそれが真の意味の、世界に一つの花と「成ります」。




(おわり)