これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

ごった煮ワンダーランド

2017-05-11 08:49:24 | 心をラクに
この世というのは本当に様々な人たちに溢れています。

それぞれに経験や知識、境遇が違いますので考え方や価値観も違ってくるのは当たり前でして、そういう意味では、むしろ違う人間が作られる
ようにこの世は出来ているとも言えます。

それなのに私たちは同化を求め、相手を自分寄りに変えようとしたり、あるいは自分を相手寄りに変えようとしたり、さもなくば異質を忌み嫌い
排除しようとしたりします。

確かに、違いというものは様々な軋轢を生む要因になっています。
日常レベルであれば人間関係の摩擦となり、民族・国家となると戦争やテロまで発展することさえあります。

しかし本来そうした軋轢の解決法というのは、違いそのものを無くすことではなく、違いを諦めること、認めることにあります。

そもそも、違いというものがあればこそ、それに触れた私たちの心に波紋が広がり、新しい気づきが生まれます。
これが似たもの同士であれば波紋は起こりません。

実はこれがこの世の成り立ちにもなっています。
あの世ではどこまで行ってもシーンとした水面しかありません。

無音、無風に飽き飽きしてようやくこの世に来たのに、いざ待ち望んだ音や風に触れると、それを忌み嫌い、無音や無風を求めるというのでは
丸っきりコントでしかありません。

私たちが異質なものに触れて苛立ちや衝突を起こす原因は、違いという事実にあるのではなく、単に私たちの受け取り方にあるわけです。

ですから、違いそのものを無くすのではなく、受け取り方を変えてみるというのが理に適っているということになります。
解決へのアプローチは、相手を変えさせようとしたり、自分を相手に合わせようとすることではないわけです。

とはいえ、それを精神論的に、たとえば自我を抑えたり煩悩を昇華させたり、寛容さや慈愛をもって受け入れましょうというのでは、やはり
現実的とは言えません。
あるいは、意識を切り替えて世界平和や人類発展など壮大なことへ突っ走ったところで、現実が追いつかなければ何の意味もないことです。

現実問題として、自分の目の前の今が成らずして世界が成ることなどありません。

世界や人類のこと以前に、一番苦しくまた一番楽しいのは、やはり自分の今であるわけです。

一般的に小欲は卑しいものであって、煩悩とは小欲をなくし大欲を得ることによって昇華できると考えられます。
しかし、あらゆる方便と同じく、そこにこそ大きな落とし穴があります。

世界や人類などといった遠くの景色へ心を向けていれば、道ばたの煩悩に目を止めることは少なくなるでしょう。
しかしだからといって遠くばかり見ているのでは、肝心の「今」を無視することになってしまいます。

それというのは、現実から目を背けてフワフワと夢遊している状態でしかないわけです。

この世や人類が清らかになって、争いの無い調和の取れた世界になることは至福の喜びかもしれません。
ただそれはあくまで結果であって、私たちの今を無視して成立するものではないのです。

天地宇宙が変わったとしても、それは自分自身が変わることとは別ものですし、天地宇宙が変わらなくとも自分自身は変わることができます。

そして、そもそも天地宇宙というのは、私たち自身が変わらずして変わることは有り得ません。
この世の変化を、まわりに求めるのは本末転倒ということです。

この世界がどうなるかではなく、私たち自身がどうなるかがすべて。
だからこそ、この「今」目の前の囚われを直視して、苦しみ悲しむことが絶対に必要であるわけです。

苦しみや悲しみというのはまさしく私たちの鏡であり、それによって私たちは身なりを整えることができるようになります。

入ってくる現実を変えようとするのではなく、その現実の受け取り方を変える。
つまり、鏡の向こうを変えようとするのではなく、鏡のこちらを変える。
すると、結果として現実があとから変わっていくということです。

そもそも結果というものは求めた瞬間、叶わなくなります。

今、今、今の連続がただ成るように成ったのが結果であり、今なくして結果など生じ得ません。

結果を遠望した瞬間、私たちは今から離れてしまいます。
結果とは、求めないところに生じるものです。

実際、結果を不安視しながら物事に当たると、その心は今から離れてしまって、成るものも成らなくなります。
しかし、結果は捨て置いてとにかくこれしかないと信じきりますと、今だけに集中することとなり、結果も成るように成っていきます。

結果を捨て置くというのは、ネガティヴ観念だけでなくポジティブ観念も指します。
不安を抱かないだけでなく、期待もしないということです。
プラスだろうとマイナスだろうと、そこに白黒つけた時点でたちまち今から離れてしまいます。

良いも悪いも判断しない。
ただ、やる。
白黒つけず黙ってやる。


まさしく、来たもの拒まず。
そのままを味わう状態となるわけです。


日常生活において、嫌がらせをされたり陰口を叩かれたり、意見がふつかったり、話が平行線になったり、いくら誠意を尽くしても相手に通じず
嫌な思いをするようなことがあるかもしれません。

そんな時、お互い同じ価値観、同じ感性であったなら、軋轢や摩擦など起こらず誰も心を痛めず済むのにと思ったりするでしょう。

しかしそんな時こそ、人それぞれの「違い」というものを考え直す機会であるわけです。

人は育った環境によってまず感覚や感性が養われ、感覚や感性のもと歳を重ねるにつれ、嗜好、信条、良識、常識が形成されていきます。

そしてそれとは逆の順番、つまり外側から、常識、信条そして感性という順に、人は人に対して共感したり、心を許していきます。

より芯に近い部分はなかなかシンクロしないものだという経験則がありますので、感性や嗜好が違う程度なら気にせず放っとけますが、
信念、信条となると心が波立ち始め、さらに常識や良識の違いになりますと苛立ちや嫌悪すら抱くようになっていきます。

しかしそもそもの育ちが異なりますので、世代の違い、国の違い、はたまた性別の違いにより全く違っていくのが全く自然な話であるわけです。

これらは、自分が複雑な感情を抱く相手を思い浮かべてみるとよく分かるかもしれません。

会社の上司や同僚、取引相手、お店の店員さん、通勤電車で見かける人たち、ご近所さん、趣味やスポーツの知り合い、そして親や家族…

ムカッとなった時に再び原点に戻ってみるということです。

いったい私たちは何に対してムカッとなっているのか。
そして、そもそもこの世とは何のために存在するのか、と。


あの世というのは、初めから同じ感性の者同士しか会えないわけです。
それは面倒の起きない、まさしく私たちの待ち望んだ世界と言えるかもしれません。
しかし同時に大変退屈な、お花畑の世界ということなのです。
刺激を受けたくても何の変化もない。
見渡すかぎり、波一つない真っ平らな海面のような世界です。

そこでは見た目だけでなく中身もみんな同じですから、どこまでも平和であり、平穏であり、平凡であるわけです。

それに対してこの世の人々というのは、見た目は同じであっても、その中身はバラエティに富んでいます。
あの世では決して触れ合うことのできない、アミューズメントに溢れています。

みんな一般人の姿をしていますが、一皮剥けば、まるでファンタジー小説やロールプレイングゲームのように、様々なキャラクターがごった煮
の世界であるということです。

あの世は中身が表に現れてしまう世界ですが、この世は中身が隠されてしまう世界です。
そのためみんな同じ一般人、同じサラリーマン、同じ主婦に映ります。

でもみんな庶民Aは仮の姿。
その実体は、風貌も能力も種属も生物も丸っきり違う、まさに異世界のキャラクターであるわけです。
それは自分にとってもそうですし、相手にとってもそう。
それを生き地獄と見るか、ワンダーランドと見るかということなのです。

あの世では絶対に会話することもできない人たち、接触することもできない人たち、そういう人たちに溢れた世界がこの世です。
とにかく、とてもでないけど会うこともできないような人たちばかりだということです。

それはすぐ隣の人こそが、そうなのです。

あの世に行ったら会いたくても会えない。
違うということ、合わないということはそういうことなのです。

当たり前に思っているこの世界というのは、実は誰もが憧れる稀有な異世界だったわけです。

子供の頃のゲームやマンガを思い出せばすぐに感覚がよみがえることでしょう。
それは、それぞれのキャラクターの違いに苦しむ世界などではなく、それぞれの違いを楽しむ世界でありました。


安心安全のために波立って欲しくないというのは、根本から天地がひっくり返っています。

自分に合わせて欲しいとか、自分をまわりに合わせようとか、そのこと自体が全くのナンセンスということです。

違いがあっていい。
いや、違いがあるからいいわけです。

ごった煮は、色々な味があるから美味しい。
似たような味ばかりだったら何の喜びもない。
違えば違うほど、それぞれの味わいがキュッと引き立ちます。

誰がいけないとか間違ってるというような話は、そもそもの論点がズレていることがよく分かります。

みんな正解であるわけです。
だからこそ、みんながこの世に存在している。

あぁ、あなたはそうなんだね。
あぁ、きみはそうなんだね。

他の人と違うからこそ、存在している。
それは私たち自身もそうですし、私たちのまわりの人たちもそうだということです。

同じであることを求める必要などありません。
波立ちを恐れる必要はないのです。

似た者同士の楽園探しはやめましょう。
せちがらい俗世こそがワンダーランド。

まわりと違うということが、私たちがこの世に存在している意味なのですから。