フルマラソン挑戦・成長期の私にとって2大目標、それは「サブ3.5」の達成と当時クラブのエースであった「第3の師匠からの勝利」でした。
これがなかなか高くて険しい壁であったのですが…。
2000年3月、私にとって生涯の歴史的レースとなる荒川市民マラソンを迎えるのでした!!
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1999年〜2000年にかけて、第3の師匠と私による“死闘”は当時のクラブでも「頂上決戦」として一番の注目となっていたのですが(ちなみに第1、第2の師匠はすでに転勤でクラブからは離れており、まさしく“2強時代”となっていたのですね…)、ついにその最終決戦の場が訪れました!
2000年3月の第3回荒川市民マラソン(現板橋City)です!!
この荒川市民マラソンは「荒川春の陣」と呼ばれ注目された訳です!
一方で私には“サブ3.5の達成”というもう一つの重要な目標もあり、荒川はこちらも達成する絶好の機会となったのです!!
私はこの2つを同時に達成するべく決戦のスタートラインに立ちました。
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私は荒川決戦に挑むにあたって作戦を考えていました。
前哨戦・三浦国際(ハーフ)の結果から第3の師匠は
「30km前後からペースがダウンする!」
と踏んでいたのです。
抜くならここしかないでしょ!(笑)
また、サブ3.5を確実に達成させるためにも前半突っ込むことは得策ではなく、前半はキロ4分40秒という確実なペースで走ることに徹しました。
スタート後、やはり師匠は前半を突っ込んでいきました。折り返し時点では5分くらいは差を離されていたのではないかと思います。
シメシメ、作戦通り♪(笑)、と思うだけの余裕は私もなかったですが…(笑)
そして運命はやはり30kmで訪れました!
明らかにペースダウンしている師匠をついに捕えたのです!!
私はここで三浦国際の失敗を思い出しました…。
この時は無用に話しかけ、しばらく並走してしまっていたのです。その結果、師匠が元気を取り戻し逆に私がバテて取り残される結果に・・・。
これは非情にも
「完全無視して一気に抜き去る!!」
のが一番効果的だと判断しました!
作戦通り一気に抜き去ったら全く追ってくる気配はなく、私も何より姿が見えなくなるまでは必死に走りましたね(笑)
師匠からの勝利はほぼ確信できたため次なるはタイムとの闘いです! 35kmくらいで念願であったサブ3.5は見えてきたのですが、ペースダウンをしないよう、さらに記録を更新すべくキロ5分のペースをなんとか維持して走りました。
その結果、3時間23分の自己ベストでフィニッシュ!!
ついに私はこの荒川決戦で“師匠からの勝利”と“サブ3.5”の「2大目標」を同時に達成したのでした!!!
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この荒川市民マラソンは私にとっては言うまでもなく“生涯最高試合(ベストバウト)”といえるレースとなったのですが、冒頭にも述べた通り、クラブではレース前から「荒川春の陣」として注目されていたのですが、当時はレース後も“政権交代”“歴史的一戦”としてクラブ史にも大きな1ページとして刻まれました。
そして結果的に師匠との対戦はこの荒川市民が“本当に最後”となりました。
師匠は同年7月、転勤によりクラブを去ることになったのでした…。
これにより私は師匠より正式に“クラブのエース”という称号を、さらには運営面でのトップ(運営代表である監督職)も引き継ぐことになり、名実共にクラブの主軸としての時代を迎えるのでした…。
(続く)
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