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7月14日(月) 第2週4日目
苦しみと向き合う
今日は週に一度のレージーディ。夕方まではアクティビティがなく、のんびり過ごせます。
プラムヴィレッジでの第1週は、生活に慣れるのがやっと。しかもニューハムレットは日本人が多く、慌ただしくもにぎやかに過ごしました。
でも2週目になると、少しずつここでのやり方に慣れてきました。また、日本人は私をふくめて4人だけに。(うち2人はボランティアスタッフ、1人は長期滞在者です)
1人で静かに過ごす時間が増え、またプラクティスの効果もあり、自然と気づき(マインドフルネス)が深まっていきます。すると様々な感情や思いグセが、心身の苦しみとともに次々に認識されるようになりました。
これ、かなりキツいです。今まで無意識と顕在意識の狭間で流していたネガティブなものたちや、なんとなく気がつきながらも目をつぶっていた自分の問題点が、次々と波のように打ち寄せてくるのですから。
でも、苦しみと向き合うのも、プラムヴィレッジの大切なプラクティス。今日は、自由な時間がたっぷりあります。自分が長い年月をかけて溜め込んでしまったものと、じっくり向き合うチャンスです。
心身に現れてきた苦しみを抱きしめて、プラム畑を歩き、ブッダホールで座り、座るのさえ辛い時はリラクゼーションスペースとして解放されているメディテーションホールで横になり、それでも呼吸とともに心を静め、苦しみにアクセスし、深く潜り込んで洞察することを続けました。
すると、その苦しみを作り出してきた過程や、その苦しみの奥にある思いに対する理解(気づき)を得たとき、フッと心身が楽になり、苦しみのエネルギーが、他のエネルギーに変わっていくのを感じます。私が長い年月をかけて作りあげてきた、いくつかの大きなしこりも溶けていきました。
苦しみのケアを一通り終えた時には、険しい縦走登山から無事に下山したような、達成感と爽快感が残りました。
苦しみの変容
ティク・ナット・ハン師はこの苦しみを変容する過程を、こう表現されています。
苦しみの本質を深く見つめることで、初めてその原因が見つかり、それを生んだ根本要因を確定することにつながるのです。瞑想をある程度続けていれば、意識の根底でつねに変容が起こり続けていることがわかります。~深く見つめることから得られた洞察は、私たちを解放し、種のかたちで保存された苦しみを変容させます。
「リトリート ブッダの瞑想の実践」野草社
このヘビーなプラクティスをするのに、プラムヴィレッジを満たすマインドフルネスのエネルギー、慈悲のエネルギーが、大きな助けとなってくれました。ここでなら安心して、自分の深いところまで入っていくことができる……ティク・ナット・ハン師がサンガの大切さを強調されていることが、身を持って納得できました。
また、タイ(ティク・ナット・ハン師)はサマーリトリート中の法話で、苦しみについて以下のように話されたことが、強く心に残っています。最初の一行はちょっとショッキングですが、最後まで読んでみて下さい。私たちに苦しみと向き合う勇気を与えてくれます。
私は子供たちを、苦しみのないところに送りたいとは思いません。
苦しみのないところでは、理解や慈悲を育むことができないからです。
天国には喜びや幸せなど素晴らしいものがあります。苦しみもその素晴らしいものの一つです。
天国は苦しみのないところではなく、苦しみの対し方を知っている人の場所です。
その後、たまっていた洗濯物を手洗いし、ゆっくりシャワーをあびました。ここでは洗濯は手洗い、バスタブもありません。ドライヤーもないので、洗った髪は自然乾燥です。
文字通り心身ともにさっぱりとして、ハーブティーを飲みながら野外でくつろいでいると、プラム並木が続く丘、大アザミ、見慣れた風景の輪郭がいつもよりクッキリ見えました。濡れた髪を風が揺らす感覚も、スローに感じます。
「必要なものは全て、今ここにあるんだなあ」、静かで満ち足りた時間が流れていきました。
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今回は本来、瞑想指導者だけに伝えるような瞑想における深い体験を、どこまでオープンにしていいのか、またティク・ナット・ハン師の文脈から外れずにどのように伝えたらいいのか、悩みながらの執筆になりました。抑えた語り口になりましたが、それでもなにか伝えることができたら幸いです。
苦しみを深く洞察するプラクティスはプラムヴィレッジに限らず、テーラワーダ(上座部仏教)でもマハーヤーナ(大乗仏教)でも伝統的に行われていますが、心の深くまで踏み込むため独学でするのは危険がともないます。どうぞ、信頼できる指導者と環境のもとで行ってください。