長谷寺からの帰り道、参道にある初瀬商店街には物産品店、名物の草餅や奈良漬店、茶店・飲食店などが多く、まだ古い街道のイメージが残っている。その一軒の古い旧家を開放して喫茶店をやっていた。元禄時代の建物と明治時代に建てた母屋からなっており、節句が近いため立派な武者人形も公開していた。
元禄文化では既に節分・花見・月見・節句などの年中行事が一般化した時代であったそうである。武者人形を大阪城の前に持ってきた。(チョッとやりすぎんの声が聞こえる)
長谷寺からの帰り道、参道にある初瀬商店街には物産品店、名物の草餅や奈良漬店、茶店・飲食店などが多く、まだ古い街道のイメージが残っている。その一軒の古い旧家を開放して喫茶店をやっていた。元禄時代の建物と明治時代に建てた母屋からなっており、節句が近いため立派な武者人形も公開していた。
元禄文化では既に節分・花見・月見・節句などの年中行事が一般化した時代であったそうである。武者人形を大阪城の前に持ってきた。(チョッとやりすぎんの声が聞こえる)
入口の仁王門、両脇に仁王さん、楼上に十六羅漢が安置してある。何度か災害にあい。現在のは明治18年(1885)の再建。また本堂までは特徴的な399段の登廊(重要文化財、屋根付きの階段)で両サイドには季節の花が咲いている。
昭和29年、戦後日本で初めて建てられた五重塔、昭和の名塔、純和様式の整った形である。本堂から見た五重塔が一番美しい。「新緑の頃の五重塔」
長谷寺は、牡丹のお寺としても名高く、「 ぼたんの長谷寺 」と呼ばれ人々に親しまれ、日本一の牡丹の名所としても有名である。千年の昔から栽培されていたとのこと、丁度4月中旬頃は染井吉野桜や椿が散り八重桜・枝垂れ桜が満開、牡丹が咲き始め、さんしゅゆ、山吹、しゃくなげ、ぼけ、などが咲いていた。
本尊・十一面観音像を安置する国宝本堂から大黒堂を眺めると遅咲きの桜と芽吹き始めたもみじの浅緑は見事なコントラスト、この時期ならの光景であった(4/16)
本堂(国宝)-本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代から室町時代の天文5年(1536年)まで7回焼失している。7回目の焼失後、豊臣秀長の援助で天正16年(1588年)に新しい堂が完成した。その後、堂の雨漏りや傷みが激しいため、修理ではなく新築することとなり、徳川家光の寄進を得て、5年がかりの工事の後、慶安3年(1650年)に新築落慶したのが現・本堂である。(ウイキペディア)
本堂の横にある重要文化財の鐘楼、「尾上の鐘」で正午になると鐘が突かれる、それに合わせて数人の若僧が仁王門の方向(里の方)に向かってほら貝を吹く、何年も続いている毎日の修行なのかもしれない。(追記;朝6時と正午の二回時を知らせる鐘と法螺貝が千年の昔から絶えることなく続いている)
花の御寺、西国33所8番札所長谷寺、染井吉野が散り、楓が薄緑に芽吹く頃本坊付近の庭に「御衣黄桜」(ギョイコウ桜)は咲き始めていた。
緑色の花を咲かせる唯一のサクラである。この緑色は葉緑体によるもので、同じく葉緑体をもつ鬱金も若干緑色がかかるのだが、その量が少ないためにもっと薄い淡黄色である。また濃緑色の筋の部分には、江戸時代に、京都の仁和寺で栽培されたのがはじまりと言われている。名前の由来は、貴族の衣服の萌黄色に近いため。古くは「黄桜」「浅葱桜(浅黄桜)」などとも呼ばれていたが、それが御衣黄なのかそれとも鬱金を指すものなのか不明である。
珍しいサクラではあるが、沖縄を除く日本各地の100ヶ所以上で見ることができる(Wikipedia)
毎年岸和田城の桜が満開の頃「紀州街道にぎわい市」がある。今年は4月5日(土)前夜祭で「夢灯路 越中おわら 紀州街道 風の盆」が開催された。約200張の灯篭に添って、光明寺~円城寺まで、 越中八尾おわら道場関西支部の皆様(約40名)による「おわら風の盆」が踊られた。紀州街道岸和田本町界隈は見物人で溢れていた。
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写真家大森克巳さんの写真集『チェリーブロッサムズ』に青い桜が載っている。室内用のタングステンフィルムを使って屋外で露出オーバ気味に撮った、記憶の中の表現とのことでした。私も満開の6,000本桜に埋もれていると「青い桜」のイメージが沸いてきた。