北風と太陽・保存版 統一教会から娘を家族のオープンな話し合いで取り戻した父kokoroのブログ。

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21年前の尾鷲マイクロ事故・・・慰霊の旅

2009-12-07 12:13:45 | 統一協会

12月4日のブログのつづきである。12月5、6日と彼女と知人数人で尾鷲に行ってきた。

  

2009_0050

  

尾鷲市街を抜けたらすぐ事故現場に着いた。目印は採石場と橋であった。

写真は尾鷲側から撮影したもので、事故を起こした車は熊野側から走ってきて写真の橋の向こうにある落石防止のネットに激突したと思われる。

  

ダンプや大型車が行きかう合間をぬって、彼女は花束を持って道路を渡った。

小雨の降る中で彼女は事故現場に花束を手向けた。

  

今から21年前若くして亡くなった二人の友へ思いを花束に託したようだ。

  

これで、心に引っかかっていたものが取り払われたような気がすると彼女は言った。

  

そして、彼女の希望で、亡くなった友人たちが最後の夜を過ごした熊野に向かった。

マイクロ部隊が事故の前日に仮眠した熊野駅前に行った。

  

駅前ロータリーには小雨に打たれながら少女の像がたっていたのが印象的だった。

  

仮眠をしたと思われる場所はタクシー専用の駐車場であった。そして、事故を起こした車と同じコースをたどりながら再度事故現場に向かった。

  

矢ノ川トンネルを抜けても曲がりくねった峠道が続いたが一瞬まっすぐに視野が広がった。

事故現場手前の直線コースだ。直線の先は緩やかな右カーブ・・・ここで事故が起きた。

  

私なりに当時を再現してみた。

  

1988年12月12日早朝といっても日が昇る2時間も前に熊野駅前から出発する1台のマイクロバスがあった。この地方は日本一雨量の多い地域であるがその日は晴れていたようだ。

早朝の闇の中を車はあっという間に熊野市街から、山間の道に入った。

  

闇の中を街路灯と、時おり、すれ違う対向車の灯りをたよりに曲がりくねった山間を走る。

リーダーで運転手のSさんは人一倍責任感が強い。午前2時ごろまで珍味売りの集計をしていた。

眠気に襲われながらの運転である。

  

熊野から尾鷲まで車で約40分。日の出までには尾鷲について、早朝の珍味売りをして、少しでも売り上げを伸ばそうと思っていたのであろうか。

しかし、その思いとは裏腹に寝不足からくる睡魔、曲がりくねった道の連続、ハンドルを握りながら、睡魔との闘いであったであろう。

  

彼女の話によれば、運転中は車の後部では6名の食口たちがお互い向き合うようにすわっていたはず。すわりながら居眠りをしていた人もいたかもしれない。

  

トンネル(矢ノ川トンネル)を抜けても曲がりくねった道は続いた。一瞬まっすぐな道が運転手のSさんの目に飛び込んできた。もうすぐ尾鷲だと思った瞬間・・・・車は右カーブを曲がり切れず落石防止の金網を支えるコンクリート壁に激突した。

  

死者2名重軽傷者5名。運転手のSさんはおそらく後に残る大きな障害を負われたようだ。

川崎経子著「統一教会の素顔」には違法改造されたマイクロに横たわる食口たちの絵がある。

  

タコ部屋という言葉がある。今でも外国人労働者を雇う際、小さな部屋に5人から10人ほど押し込ませている会社がある。日本社会ではタコ部屋は違法とされている。

マイクロは移動式タコ部屋だったのだ。

  

この事故で、統一教会の珍味売りマイクロ部隊の過酷な販売方法が明らかになった。

その後マイクロの珍味売りは、規制がかかったようだが、形を変えたもの売りは今でも続いている。

  

彼女は帰る車の中で言った、

「誘われたときに、こんなマイクロ部隊に入って珍味売りをやらなければならないことを聞かされていたら、きっと入らなかっただろう」と・・・・。

  

おそらく、亡くなった二人も同じであったであろう・・・・誘う時にきちんと説明されていれば、こんなことで命を落とすことは無かった。

  

帰りに、事故後相談にのられた方にお会いすることができた。

川崎先生の本には載ってないことを聞かされた。

  

統一教会は遺族に入った保険金まで霊感商法ですべて奪い取っていったそうだ。