文は本当に早稲田大学を卒業しているのか(山口浩著 原理運動の素顔 1975年発行)全文
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Wasedadaigaku wo sotugyousitanoka (genriundou no sugao yamaguti hirosi)
文は本当に早稲田大学を卒業しているのか(山口浩著 原理運動の素顔 1975年発行)
文は本当に早稲田大学を卒業しているのか P135~
一九四一年、文鮮明は日本へやって来た。それも、密入国してしばらく大阪で土方などして働き、東京へやって来たのだ、とか、東京は早稲田大学電気工学科卒業とかいわれているが、これはいつのまにそうなったのか分らない。
当初、早稲田大学を卒業といっていたのが、マスコミが騒いで、毎日新聞社が早稲田大学の卒業名簿を調べて、何処にも文の名が出ていないことを報じたりしたので、この経歴をあわててひっ込めたものと思われる。
『統一教会史試草』にも、この項について、「一九四一年、先生は京城で中学教育を終えてから、日本の東京へ留学しました。
専攻は中学時代に学んだ電気学で、先生の学校教育は一貫して理工系で通しました。
先生の四年間の海外留学ではそういった意味では重大な意味をもたらすものでありました。
学業面ではいうまでもなく、民族的な側面では敵陣(日本のこと口筆者註)の心臓部へ入って行くようなもので、摂理的使命分野で見ると、観念的な分野を備えるとともに、サタンの世界に対して、出陣の第一歩を歩み出す能力を体得しました。必要でかつ重要な経験など、訓練をもってこの時機はとても貴重なのであります。
東京では韓国人学生二、三名と早稲田大学に近い所の新宿区戸塚二丁目に下宿生活をしました。
学業と併行してこの期間にやるべきことは非常に多かった。この間の真の友人として、建築家の厳徳紋がいました。
この間、たえまなく熱中したことは、信仰生活でありました。
いつでも机の上には各国版の政経雑誌がおいてあった。本の中は色鉛筆で全部書き込まれている。
また、聖教会仲間と交際していました。特に主要な問題は原理研究にあった。
他の何よりも優先した。先生にとってこの原理追及が何よりも重要だった」と述べてあるだけだ。しかも、「早稲田大学近所ノ新宿区戸塚町二丁目ニ住ンデ下宿生活ヲシテイタ」とだけあって、早稲田大学に入ったとは書かれていない。大阪の中学に入り、上京して夜間の早稲田実業高等学校に在学した、という説もあるがこれまた不明である。
戸塚二丁目に住んで何をやっていたか。
「数名の韓国人留学生たちと、抗日地下運動をやっていた」(『統一教会史』より)のだそうだ。つまり、時の権力、日本帝国に対してのレジスタンス運動である。
さらにこのころ彼は、モーレツに信仰生活を全うし、聖書を読み、色エンピツで傍線を引いて勉強し、勿論、教会にも出席し、誠心をもって神に祈り、クリスチャン仲間とも交際を持ったという。因みに、学友(どこの学校の友人だか、教会史に書かれていないが、学友と書いてある)として建築家、厳徳紋の名が挙げられている。
ところが、不思議なことに、また引用することになるが、野村健ニサンの筆になる文鮮明の伝記では「日本本土に渡った文青年にとって、この一九三九年から一九四五年までの六年間は、イエス様から託された神の使命に向って公的にあゆみ出すためのすべての準備を整える重要な期間であった。
(中略)
当時、先生は、大学は東京帝大を望んでおられたようだが、すでに独立運動の指導者として知られていて、日本の官立大学への入学は許可されなかった。そのため、私立の中でも人に対して最も自由に門戸を解放していた早稲田大学の電気工学科に進まれたと伝えられる」(『新天地』十月号)
と書かれている。ここでは"伝えられる"と伝承の形式をとっているが、それから四ヵ月後の『新天地』二月号(昭和五十年)にはハッキリと、「釜山に着いて間もなく、文青年は早大時代の級友、厳徳紋氏に道ぽたで会われた。(申略)厳さんは大学時代、文青年ときわめて親しくし"おれ""お前"の仲であった」と、早稲田大学在学を明記している。しかも統一教会史には、どこの大学の学友とも書いてない学友、厳徳紋の名が、野村サンの文章では、ハッキリと早稲田大学の学友となっている。
毎日新聞社が調べ、ある取材記者が調べ、そしてまた私が早稲田大学学生部に問い合わせて、ついにその文龍明、江本龍明、文鮮明の名でもなかった。卒業生名簿に載っていなくとも、文鮮明は早大に在学していたとでもいうのか。
早大近辺の戸塚に住んでいたので、まさか学生に混じって講義だけ聞いていたのではないだろうか、だがくどいようだが、野村サンの電気では、「先生が大学を卒業された時、学徒出陣のため卒業が六か月短縮され、九月に大学をでることになった。釜山連絡船で帰ることとなり、何時に着くと国もとに電報を打ったが(後略)」
このように明らさまに、文が早大を卒業したといっている。
一体、韓国の本部で出している教会史には早稲田大学在学と一行も書いてないのに、統一教の頭脳である野村サンがこうまでハッキリと書いたのはどういうことなのか。
野村サンは、カッコよく文を早大卒にしたかったが、世間はそう甘くなかった、ということなのであろうか。もう一度いう。文鮮明は早稲田大学の学生ではなかったのだ。