北風と太陽・保存版 統一教会から娘を家族のオープンな話し合いで取り戻した父kokoroのブログ。

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文は本当に早稲田大学を卒業しているのか(山口浩著 原理運動の素顔 1975年発行)

2013-05-17 21:39:37 | 戦時下の文鮮明

 

文は本当に早稲田大学を卒業しているのか(山口浩著 原理運動の素顔 1975年発行)全文

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 Wasedadaigaku wo sotugyousitanoka (genriundou no sugao yamaguti  hirosi)

 

文は本当に早稲田大学を卒業しているのか(山口浩著 原理運動の素顔 1975年発行)

  文は本当に早稲田大学を卒業しているのか P135~

 一九四一年、文鮮明は日本へやって来た。それも、密入国してしばらく大阪で土方などして働き、東京へやって来たのだ、とか、東京は早稲田大学電気工学科卒業とかいわれているが、これはいつのまにそうなったのか分らない。

当初、早稲田大学を卒業といっていたのが、マスコミが騒いで、毎日新聞社が早稲田大学の卒業名簿を調べて、何処にも文の名が出ていないことを報じたりしたので、この経歴をあわててひっ込めたものと思われる。 

『統一教会史試草』にも、この項について、「一九四一年、先生は京城で中学教育を終えてから、日本の東京へ留学しました。

専攻は中学時代に学んだ電気学で、先生の学校教育は一貫して理工系で通しました。

先生の四年間の海外留学ではそういった意味では重大な意味をもたらすものでありました。

学業面ではいうまでもなく、民族的な側面では敵陣(日本のこと口筆者註)の心臓部へ入って行くようなもので、摂理的使命分野で見ると、観念的な分野を備えるとともに、サタンの世界に対して、出陣の第一歩を歩み出す能力を体得しました。必要でかつ重要な経験など、訓練をもってこの時機はとても貴重なのであります。

東京では韓国人学生二、三名と早稲田大学に近い所の新宿区戸塚二丁目に下宿生活をしました。

学業と併行してこの期間にやるべきことは非常に多かった。この間の真の友人として、建築家の厳徳紋がいました。

この間、たえまなく熱中したことは、信仰生活でありました。

いつでも机の上には各国版の政経雑誌がおいてあった。本の中は色鉛筆で全部書き込まれている。

また、聖教会仲間と交際していました。特に主要な問題は原理研究にあった。

他の何よりも優先した。先生にとってこの原理追及が何よりも重要だった」と述べてあるだけだ。しかも、「早稲田大学近所ノ新宿区戸塚町二丁目ニ住ンデ下宿生活ヲシテイタ」とだけあって、早稲田大学に入ったとは書かれていない。大阪の中学に入り、上京して夜間の早稲田実業高等学校に在学した、という説もあるがこれまた不明である。

戸塚二丁目に住んで何をやっていたか。

「数名の韓国人留学生たちと、抗日地下運動をやっていた」(『統一教会史』より)のだそうだ。つまり、時の権力、日本帝国に対してのレジスタンス運動である。

さらにこのころ彼は、モーレツに信仰生活を全うし、聖書を読み、色エンピツで傍線を引いて勉強し、勿論、教会にも出席し、誠心をもって神に祈り、クリスチャン仲間とも交際を持ったという。因みに、学友(どこの学校の友人だか、教会史に書かれていないが、学友と書いてある)として建築家、厳徳紋の名が挙げられている。

ところが、不思議なことに、また引用することになるが、野村健ニサンの筆になる文鮮明の伝記では「日本本土に渡った文青年にとって、この一九三九年から一九四五年までの六年間は、イエス様から託された神の使命に向って公的にあゆみ出すためのすべての準備を整える重要な期間であった。

(中略)

当時、先生は、大学は東京帝大を望んでおられたようだが、すでに独立運動の指導者として知られていて、日本の官立大学への入学は許可されなかった。そのため、私立の中でも人に対して最も自由に門戸を解放していた早稲田大学の電気工学科に進まれたと伝えられる」(『新天地』十月号)

と書かれている。ここでは"伝えられる"と伝承の形式をとっているが、それから四ヵ月後の『新天地』二月号(昭和五十年)にはハッキリと、「釜山に着いて間もなく、文青年は早大時代の級友、厳徳紋氏に道ぽたで会われた。(申略)厳さんは大学時代、文青年ときわめて親しくし"おれ""お前"の仲であった」と、早稲田大学在学を明記している。しかも統一教会史には、どこの大学の学友とも書いてない学友、厳徳紋の名が、野村サンの文章では、ハッキリと早稲田大学の学友となっている。

毎日新聞社が調べ、ある取材記者が調べ、そしてまた私が早稲田大学学生部に問い合わせて、ついにその文龍明、江本龍明、文鮮明の名でもなかった。卒業生名簿に載っていなくとも、文鮮明は早大に在学していたとでもいうのか。

早大近辺の戸塚に住んでいたので、まさか学生に混じって講義だけ聞いていたのではないだろうか、だがくどいようだが、野村サンの電気では、「先生が大学を卒業された時、学徒出陣のため卒業が六か月短縮され、九月に大学をでることになった。釜山連絡船で帰ることとなり、何時に着くと国もとに電報を打ったが(後略)」

このように明らさまに、文が早大を卒業したといっている。

一体、韓国の本部で出している教会史には早稲田大学在学と一行も書いてないのに、統一教の頭脳である野村サンがこうまでハッキリと書いたのはどういうことなのか。

野村サンは、カッコよく文を早大卒にしたかったが、世間はそう甘くなかった、ということなのであろうか。もう一度いう。文鮮明は早稲田大学の学生ではなかったのだ。

 


「原理運動の実態」茶本繁正著(三一書房)・・早大時代の謎

2013-05-14 21:56:41 | 戦時下の文鮮明

「原理運動の実態」茶本繁正著(三一書房)・・早大時代の謎 p100~p104

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 早大時代のナゾ

 前に紹介した「講義ノート」に再びもどろう。講義は文鮮明が十六歳のとき.神の啓示"をうけたというところから、さらにつづく。

このノートの筆者は女性である。ときたま散見する誤字、脱字をのぞけば、き帳面に、きれいな文字で書きこんである。上級幹部の講義を、必死にノートしているさまが浮かんでくる。

「お父様(注・文鮮明)のお好きなもの。さつまいも(きれいに洗い、四等分して銀紙につつんで焼く)・栗。柿。さしみ、生ずし。あんみつ。ウェハース(外国製)。小さな干物。いつおかわりされるかわからないから量は多めに」焼きいもやあんみつの好きな教祖。いかにも人間臭い一面がのぞくかとおもうと、一方で「メ

シアの路程」とか「現実はメシアを迎えるのでなく、メシアはすでに来ている、すでに摂理は進められている」とある。“.実在のメシア”ーいうまでもなく文鮮明のことにほかならない。

 統一協会は外部に対しては、文鮮明が.再臨のメシア"であるとはいわない。巧妙にかくしている。

しかし、内部でははっきりそう教えていることがわかる。ノートにはこういう部分もある。

 「○19歳、(定州)普通学校を卒業された。全てのことに関心をもたれ、生態を眺めては研究された。

○ソウル(京城)、京城商工実務学校電気科入学(現在・中央大学付属高校)。メシアとして修業(傍点筆者)

○早稲田大学電気科入学」

 旧制の農業学校や工業学校には、甲種と乙種があった。甲種は旧制中学(現在の高校に相当)とおなじく五年制、乙種は三年制。日本植民地下の朝鮮は、日本と同じ教育制度をとっていた。

京城商工実務学校は乙種三年制、校長は日本人だった。文鮮明がこの学校の卒業生であることは、まちがいない。

というのは、統一協会はこのことすら久しく伏せていた。かつて私は文鮮明の京城商工実務学校時代の恩師(日本人、現在某大学教授)から、このことを確認した。

京城商工実務学校に入るまえの定州の「普通学校」とは当時の高等小学校(現在の小学校に高等科二年を付したもの)であるはず。どのような経緯や生い立ちがあったのかわからないが、文鮮明が十九歳で小学校を卒業したとすれば、彼が"神の啓示"をきいて、メシアへの第一歩を踏み出したのは、小学生のときということになる。

ノートに「メシア」という文字は、その後もでてくる。「早稲田大学電気科入学(啓示による)、メシアとしての修業、いろんな階層の人と出会った。抗日運動」。

 神の啓示にしたがって早稲田大学に入学する文鮮明の早大時代については、早大原理研がつくっていた「ザ・リトル・エンジェルス後援会早大支部」が作成したパソフレットにくわしく記入してある。

このパンフレットは、一九七四年「リトル・エソジェルス第九回定期世界公演」のさいに発行したもので、現職教授二人の推薦文のほか、前回公演のさいの切符三十枚以上の売上げ先として一流企業百十四社の企業名、役員名、稲門会(校友会)名も掲載されている。

文鮮明の早大時代は、こうある。 

「一九二〇年大韓民国平安北道定州郡徳彦面に生まれる。

一九三六年早稲田大学理工学部専門部工科電気科入学。同級生に日経編集局長の新井昭氏、ソニーの賀田恭行氏、松田基次氏、三菱商事の川久保信行氏、木下慎一郎氏、電電公社の山本牧男氏、三菱電機の近藤恒平氏らがいた。日本名を『山本朋成』という。新宿区戸塚町二の七三三橋方に下宿していた。担任は山崎秀夫教授、三田洋二教授であった。

一九六二年ザ・リトル・エンジェルス創設する(以下略)」

 結論からいったほうがよさそうである。この文鮮明の略歴は、まっ赤な偽りである。日本名「山本朋成」とは、とんでもない話で、文鮮明の日本名は「江本龍明」。「山本朋成」は東京生まれの、れっきとした日本人で、いまも健在。アカの他人である。

パンフレットの略歴にしたがえば、一九二〇年生まれの文鮮明は、一九三六年に早大入学、つまり十六歳で大学生になっている。ありえないことだ。だいいち、旧制の早大には専門部工科はあっても、理工学部専門部など存在しなかった。

統一協会傘下の『世界日報』(日刊紙)は、ごく最近になって、「師は江本龍明という日本名で、早稲田大学付属早稲田高等工業学校を卒業されています」と、さりげなく報道した。

この学校名も正確にいえば「早稲田高等工学校」である(傍点筆者)。

 “再臨のメシア”の略歴に他人の名をかたって、切符を売るー詐術ではないか……。

 (注)その後『世界日報』は早稲田高等工学校と訂正する報道を小さく行なった.

 


在船橋市朝鮮人苦学生を中心とする「民族主義ゲループ」事件・・昭和特高弾圧史第8巻より

2013-04-22 02:25:40 | 戦時下の文鮮明

在船橋市朝鮮人苦学生を中心とする「民族主義ゲループ」事件・・昭和特高弾圧史第8巻より

グループ結集経緯

中心人物神田恩波は昭和十年内地に渡来し、京都・東京を転々し苦学し来り昭和十七年二月頃より船橋市に居住し、新聞配達を為しつつ東京都麹町区所在東部神学校に入学し勉学中なるが、苦学の過程に於て民族的反感を極めて先鋭化し、昭和十六年八月頃より同様新聞配達等を為す苦学生或は千葉県下所在明倫中学(昭和十七年七月不良学校の為め閉鎖さる)在学中の朝鮮人、又は同郷出身関係の知友等に対し、朝鮮が独立するに非ざれば今日の朝鮮民衆の苦難なる環境は改められざる旨を申し向け、相共に民族的不満、乃至反感を論談しつつありたり。

斯くて此の間国本政雄(同業関係)、大原麟瑞(明倫中学生)、金沢昌植(明倫中学生)、安田文奎(明倫中学生)、吉許武雄(関東商業生)等と逐次思想的に意気投合し蝕に神田恩波を中心として六名の同志の結集を見たり。

一方国本政雄・吉許武雄は同郷関係の交友を指導啓蒙して、治川信篤(在東京神田区満蒙学校生)、金山吉龍(在神田区昌平中学生)、許文現(中大法学部生)、城山弘忠(明倫中学生)、玉川文雄(明倫中学生)等を逐次同志として獲得し本名等を中心とする同志の結集を為し、両者相連係して秘に独立意識の高揚、団結の強化等に晴躍する所ありたり。

 

策動概要

前記の如く苦学の過程等に於て相当深刻なる民族的反感を包持するに至りたる彼らは思想的に全く意気投合し相共に朝鮮民族の為に献身せんと為し屢会合し密に独立運動の教義扇動を為しつつありたるが主要なる点を摘録せば次の如し。

(一)昭和17年4月より同年9月迄の間舟橋市本町2丁目1180番地吉岡正吉方、神田の下宿、市川市中山492番地小川宗作方、大原の下宿等に於て神田恩波、城山弘忠、大原麟瑞、金沢昌植・国本政雄は二名乃至四名にて前後十数回に亘り屡会合し朝鮮問題を検討し、殊に大東亜戦争の長期化に伴ひ日本は国力衰退し武力、思想的に逼迫動揺し遂には敗戦に至るべく此の機に乗じ海外独立運動団体と連絡提携し、一斉に武装蜂起以て祖国朝鮮独立を実現せしむべく之が準備として同志特に指導的人物の養成獲得を為さんとし其の手段方法並に具体的任務等につき協議を重ねたり。

(二)昭和十六年十二月より昭和十八年三月迄の間神田恩波・国本政雄・城山弘忠・大原麟瑞・金沢昌植・安田文奎・吉許武雄・金山吉龍は各自の下宿を輪番的に会合所と為し又は千葉海岸等に於て二名乃至四名にて前後数十回に亘り屡会合し「戦局の推移」「内地人の朝鮮人に対する差別」「就職、就学、下宿難の実情」「朝鮮民衆の生活状況」「内地婦人との結婚問題」「徴兵制の実施」「創氏改名」「朝鮮文化の滅亡」等の問題に関し検討し民族的立場より批判論議して独立の必要性を強調し以て相互に意識の高揚を図りたり。

(三)昭和十八年四月東京都麹町区所在東部神学校に於て神田恩波は友人たる鮮人学生金城英雄・文城容梧の両名に対し学校入学制限問題に関し我々朝鮮人が差別を受くるは独立国家民族に非ざるものなるを以て朝鮮民族の幸福の為朝鮮独立は絶対必要なりと強調し以て之を同志に獲得せんと扇動せり。

(四)昭和十六年十一月より昭和十七年九月迄の間東京都神田区神保町一二金海方青海下宿、又は東京都中野区東中野駅付近等に於て治川信島は青松陸燥と膜会合し同人より朝鮮独立運動参加の勧誘を受け之に参加し大東亜戦下独立運動展開の絶好機会なるを以て同志獲得を為すべしと之が手段方法及具体的任務等につき協議を重ねたり。

五)昭和十六年八月より昭和十八年四月迄の間金山・吉許・許文現等の下宿に於て治川信篤は同郷出身関係たる吉許武雄・金山吉龍・国本政雄・許文現外五名等に対し前後十数回に亘り二名乃至六名会合せる際「戦局の推移」「朝鮮に於ける内地人官憲の圧迫状況」「徴兵制の実施」「朝鮮人に対する内地人の差別」「海外に於ける独立運動の活動状況」「内地在住朝鮮人学生の無自覚」等につき民族的立場より批判矯激なる言辞を以て論議し朝鮮独立の必要性を強調し之を以て同志を獲得すべく宣伝扇動を重ねたり。

(六)昭和十七年一月より昭和十八年六月迄の間金山吉龍・吉許武雄・許文現・国本政雄・治川信鶴等は各自の下宿等に於て前後数十回に亘り二名乃至四名にて屡会合し「戦局の推移」「就職、就学、下宿難問題」「朝鮮人に対する差別」等に関し民族的偏見より批判すると共に朝鮮独立は血を見ずしては不可能なり、我々朝鮮人は団結すべきなりと矯激なる言辞を以て論議し以て朝鮮独立に献身すべき決意を披渥し団結の強化を図りたり。

(七)昭和十八年六月東京都江戸川区小岩町四ノ一九五六豊荘玉川の下宿に於て城山弘忠・玉川文雄の両名は前後三回に亘り会合し朝鮮問題に付検討し殊に大東亜戦下朝鮮独立の絶好機会なりとして同志獲得を為すべく協議を重ねたり。

(八)昭和十七年九月上旬頃東京都淀橋区戸塚町一ノ五二三白鷺荘に於て大原麟瑞は友人たる専修大学生高山允徳、早大生江本某、早大生松本鏑禧の三名に対し支那蒋介石軍の下に朝鮮独立運動者が参加し日本と戦争し居る旨を強調同志として獲綿せんとして朝鮮独立に関し宣伝扇勤を為したり。

措置

千葉県に在っては船橋市居住朝鮮人苦学生及び管下所在明倫中学朝鮮人学生等が屡会合する等容疑行動あるを偵知し、本年6月6日以降関係者11名を検挙し、取調べたる結果叙上事犯の内容判明せるを以て左記の通千葉地方裁判所検事局に送局せり。

検挙者