小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

ユネスコ記憶遺産というグローバリズムを廃止せよ

2015年10月15日 13時10分50秒 | 政治


南京城内にて子どもたちと遊ぶ
日本兵(1937年12月20日)

 10月9日、国際連合教育科学文化機構(ユネスコ)の記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺文書」の登録が認められました。
 中国が主張してきた「南京大虐殺30万人説」が、何の証拠も確実な目撃証言もなく、写真資料なども偽造や他からの借用ばかりであることは、これまで何度も論じられてきました。ちなみに南京は人口百万の大都市でしたが、1937年12月13日の南京陥落当時は、ほとんどが上海その他に逃げ出しており、10万人から20万人ほどだったというのが最も有力な推定です。そうして陥落後の1938年1月には逃げていた人たちが徐々に帰ってきて、25万人と増えました。さらに9月には40万人から50万人に達したと言われています。この一事をもってしても、30万人説がまったくの捏造であることは疑いの余地がないでしょう。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-123.html
 また陥落からわずか10日後の12月23日には、日本軍の管理のもとに南京自治委員会が成立し、治安がほぼ回復しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.92.8C.E5.B9.B3.E4.BA.A4.E6.B8.89.E3.83.BB.E5.8D.97.E4.BA.AC.E6.88.A6
 そんな短期間に30万人もの大虐殺を行うことは物理的に不可能ですし、またどうやってその軍隊の恐ろしい狂騒を鎮め、酸鼻を極めたはずの膨大な遺体を処理したというのでしょうか。
 概して日本軍の南京入城から秩序回復までは平穏裡に行なわれました。南京攻略に先立つ12月7日には、蒋介石以下の中国軍および政府要人・公務員は、防衛司令長官・康生智を残して重慶に向けて脱出しており、そのため市街は無政府状態に陥り、電気・水道が停止しています。これが何と日本軍管理下の12月31日には回復しているのです。「大虐殺」などが存在しえなかったことは、これによってもわかります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6
 そもそもこの大虐殺説は、当時国民党の宣伝工作にかかわっていた疑いが濃厚なティンパーリとスマイスという二人の外国人ジャーナリストによる『戦争とはなにか』という書物を根拠としています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E7%A8%94
 またあれほど躍起となって情報宣伝工作に精力を注いでいた蒋介石自身が、もしこの事件の実在を重慶で知ったら、さっそくそれを対日宣伝に使わないはずがないのに、そういう痕跡はまったくありません。
 そういえば、先だっての抗日戦争勝利70年記念式典での習近平主席の演説でも、中国軍民死傷者3500万人という数字が飛び出しましたが、これは、1950年の共産党政権樹立当時は1000万人、1985年には2100万人と発表され、1995年、江沢民政権の時に突然3500万人に膨れ上がったそうです。
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/78e6e791439bc7c1a51bc2cf99789f9a
 まさに中国お得意の「白髪三千丈」というヤツですね。しかも日本軍が上海や南京で戦っていたのは中華民国の国民党軍であり、戦後成立した共産党政権ではない。これは誰でも知っている事実です。
 ちなみに例の式典に際しては、その前からさかんに抗日をテーマとした映画が上映されたのですが、その中にチャーチル、ルーズベルト、蒋介石が出席した1943年のカイロ会談を扱ったものがあって、そこには蒋介石はいず、代わりに毛沢東とスターリンが出席したことになっていたそうです。こうなるともう茶番以外の何ものでもありませんね。
 何はともあれ、中国発のこの種のデタラメのたぐいが、ユネスコ記憶遺産として登録されてしまったのです。もともとユネスコが属する国際連合とは戦勝国の連合であり、当然そこには、アメリカに便乗して戦勝国の一員にしてもらった中国の言い分を受け入れる心理的下地があるのでしょう。敵国であった日本の言い分を聞くよりは、かつての日本はナチス・ドイツと同じような暴虐なファシズム国家であったという戦勝国物語をそのまま継続させることができるので、「連合」にとってはまことに都合がいいわけです。アメリカおよび国際連合は、いまだに大国日本が東アジアにおける覇権を握るのではないかと恐れているのです

 しかしここではこのデタラメ自体を取り上げて憤りを表明しようというのではありません(もちろん私は憤っていますが)。記憶遺産という試みそのものをやめるべきだと主張したいのです。
 記憶遺産は、1997年から2年ごとに登録事業が始められ、世界遺産、無形文化遺産とともにユネスコの三大遺産事業と呼ばれていますが、そもそもこれは、自然や建造物や芸術作品のように今もなお目に見え、手で触れられる物的な対象とは違って、すでに過ぎ去った「歴史事実」そのものを確定しようという試みです。日本語流に言えば、この試みは、「もの」と「こと」の区別を無視しているのです。「もの」はいまここにあれば万人がその存在を認めることができますが、「こと」は複雑で、見地によっていくらでも異なり、たくさんの証言者が必要であり、また刻々とその様相が変化するので、どんな小さなものでも確定のためには詮議が必要です。ちなみに欧米語にはこの区別がありません。
 もちろんその事実の確定の手続きのために、残されたさまざまな資料が提出されて検証にかけられるわけですが、この「資料」なるものは、このたびの「南京大虐殺文書」のように、いくらでもあとからの改竄や捏造が可能です。また政治的利用の意図や悪意がなくても、伝聞や推定が無数に入り込み、無意識の改変が行われてしまいます。
 現に西洋思想の根幹をなす「新約聖書」にしても、イエスの言行録(四福音書)については、その成立時点ですでに多くの異聞、偽書の疑い、それぞれの編者の意図に添ったフィクション仕立て、失われた資料の混入などが存在したことは、今日周知の事実です。
 いわゆる「客観的歴史事実」なるものは、もともと時の権威者が集合して大騒ぎで詮議しながら、あれこれ取捨選択して定めていくものなのであって、何か初めから「これこそ真実である」と決まっているわけではありません。「事実」の確定には、それを「事実」と認める現場立会人と利害関係者と権威ある審判者とが絶対に必要だからです。特に政治的な意図がない場合でも、歴史実証主義者の間で論争が絶えず、権威の移ろいによって旧説がひっくり返ってしまう例はごまんとあります。芥川龍之介の『藪の中』は、人の世のこのようなありさまをシニカルにとらえた作品ですね。
 さて中共政府や韓国政府のような反日組織が、この無理な試みを自国の国益のために利用するのは当然と言えば当然です。「利用するな」というほうが無理筋でしょう。では、出遅れた日本が、これに対抗してこれから情報戦を旺盛に繰り広げれば、登録が抹消される可能性があるでしょうか。私の判断では、今となっては、それはまず無理です。
 なぜなら、まず第一に、先述のとおり、国連とは戦勝国連合であり、戦勝国にとって都合のよい「物語」はたやすく受け入れるけれども、都合の悪い事実はなかったことにしようとするからです。
 これはたとえば、ニュルンベルク裁判や東京裁判をやった主役であるアメリカが、「人道に対する罪(C級戦犯)」を設定しておきながら、自らが犯した民間人の大量殺戮である東京大空襲や原爆投下に対しては、この罪に該当するか否かを一顧だにしていないこと(ちなみに東京裁判では日本人にはこの罪が適用されませんでしたが、適用するとただちに自分たちに跳ね返るからです)、またいわゆる「従軍慰安婦問題」に関して、あの朝日新聞ですら不十分ながら誤報を認めたのに、クマラスワミ報告やマグロウヒル社の歴史教科書が一向に変更されないことなどを見てもわかります。
 第二に、ユネスコの主要幹部ポストには中国人と韓国人がいますが、日本人はゼロ。記憶遺産事業では、中韓はアジア太平洋地域委員会レベルで活発に活動しているのに、日本の存在は確認できないそうです。(産経新聞10月14日付)
 第三に、記憶遺産の登録の可否を事実上決定する国際諮問委員会は、わずか14名しかいません。バイアスのかかった特定の地域委員会がここに上程すれば、世界史の重要事項が確定されてしまうわけです。たったこれだけの人数で、資料の完全性、真正性を厳密かつ客観的に判断することなどできるでしょうか。その14名の人がみずから動いて徹底的な裏取りや検証活動をするとでもいうのでしょうか。ある地域で起きた一犯罪事実ですら、警察の容疑確定、逮捕、書類送検、検察の起訴決定、三審制による法廷での審議という長い長いプロセスを経なければ確定されないのに。

 このように言ったからといって、抗議活動や撤回要求活動をあきらめろと言っているのではありません。この問題については、私自身もある組織を通して、ほんのささやかではありますが抗議に名を連ねたことがあります。記憶遺産という事業がともかくも「権威ある」国際機関の名において行われてしまっている以上、これからも日本は精力的に抗議活動と撤回要求活動を続けていく必要があるでしょう。
 ただここで私が強調したいのは、要するに、ユネスコ記憶遺産なる事業が、その組織体質や手続きにおいて、いかにずさんなものでしかないかということです。問題は、そんなずさんな事業が、ただ国際連合の一機関という一見国家を超越した権威の装いを保つだけで、各国が抱懐するそれぞれの歴史よりも、何やらより普遍的で上位の歴史認識を保証するかのような幻想を与えてしまうという事実なのです。
 私はこのことにこそ、まず抗うべきであると考えます。こんなものに権威など認めてはならないのです。ちょうどノーベル平和賞やそのカリカチュアとしての孔子平和賞などが政治的な意味しか持っていないのと同じように。
 こういう権威をいったん認めてしまうと、そこに受け入れられようとする卑屈で激しい競争が発生します。競争が政治性を帯びることはもとより避けられないでしょう。このたび同時に中国が申請した「従軍慰安婦資料」は却下されましたが、再来年には韓国がさらにこれをしつこく申請するに決まっています。そうしてどの国も認められれば鬼の首でも取ったように喜ぶでしょう。この喜びをもたらすのは、「国際事業」という名の権威性ですが、そんな欺瞞的な権威に尻尾を振る必要などどこにもない。だから、この問題を本当に解決に導くためには、このインチキ事業そのものの廃止を求めていく以外にないのです。

 この事業がインチキ事業であるのは、ただ単に組織体質や選定基準がずさんであるからだけではありません。深く考えていけば、ここには世界秩序のあり方にかかわるもっと根本的な問題が隠されていることがわかります。
 現在の世界史的段階においては、歴史を共有できる範囲は、どんなに大きく見積もっても自生的な一民族、一宗教、一国家を超えることはできません。記憶遺産のような超国家的事業を支える理念は、この事実をけっして理解しようとしないのです。ちょうどヒト、モノ、カネの国境を超えた移動・交流をよいことと考える経済的なグローバリズムが、国家主権をむしばむ結果しかもたらさないのと同じように、国境を超えて歴史を共有することを目論むこの種の空想的な理念は、いわば長きにわたって培われてきた伝統的な共同体のエートスを破壊する「精神のグローバリズム」と言えるでしょう。私たちは、経済的なグローバリズムの成立によって、拡大された国際関係という空間的な観念が、ともすれば国家よりも大きな価値を持つのかもしれないという錯覚に陥っているのです。しかし人類の歩みがそんな地点にまでとうてい達しえていないことは、昨今のEUの惨状、中東の混乱、覇権の消滅による大国関係のにらみ合い、小国独立の運動によるさらなる多極化などの現状を一瞥するだけで明らかです。国際協調機関なるものは、これらをどれ一つとして解決しえていません。

 ある歴史を共有できる範囲は、自生的な共同体の範囲を超えないと書きましたが、そもそも歴史とは何でしょうか。それはそれを聞いた誰もが深い心情的なレベルから納得できる「物語」のことです。英語history、ドイツ語Geschichteにもそういうニュアンスがもともと込められていますし、フランス語histoireに至っては、初めから両方の意味に解せられます。ですから、神話と物語と歴史とは本来別ものではなく、特定地域に根差したひとつながりの連続性を持っているのです。
 かつて小林秀雄はこう書きました。

 母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実が在るのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものとなるのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。(『歴史と文学』)

 死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心に子供の死の必然な事がこたえるのではないですか。僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現われる。僕等は決して抵抗を止めない、だから歴史は必然たる事を止めないのであります。(同前)


 ここには、「事実」とか「歴史」とかいう言葉で私たちが通常理解している概念の、鮮やかな転倒が見られます。客観主義から実存主義へと、歴史観を大きくひっくり返しているのです。
 事実や歴史がまずあるからあなたの愛や思いが生まれるのではない。あなたの愛や思いこそが事実を事実たらしめ、歴史を歴史(物語)として紡ぐのである、そう小林は説いています。歴史が生活の共有を通して得られる共通の思いをけっして超えることができず、したがってそれが成り立つ範囲は、せいぜい自生的な共同体までがぎりぎりであるという命題がここから導かれるでしょう。
 私たちは、歴史認識のグローバルな共有などという安易な理念に跪拝してはならないのです。そのような理念は、むしろ一人の個人の、愛し合い憎しみ合った私たち二人の、そうして心情を共有しあった小さな仲間たちの大切な生の記憶を大きな声によって蹂躙していくのです。でも私たちは「決して抵抗を止めない」。それこそが、中共政府のデタラメやそれを安々と追認してしまうユネスコ事業の(おそらくは作為された)いい加減さに対して反対の声を上げる思想的な根拠と言えましょう。
 最後にもう一度言います。敵は中共政府にだけあるのではなく、その中核はむしろ「記憶遺産」という精神のグローバリズムにこそあるのです

 


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7 コメント

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とても素晴らしい論考です。 (村田一)
2015-10-15 21:55:20
とても素晴らしく、示唆に富み思慮深い論考であり主張だと思います。シェアさせていただきます。欧米のグローバル金融資本が莫大な投資をして発展させてきた中国経済が、ここへ来て破綻の兆しが見えて、今迄黙認してきた中国のプロパガンダ=捏造の数々か、今やどうにも庇いきれなくなってきたのではないでしょうか。グローバル資本主義の犠牲者が、彼の韓国経済であり、東芝の不正経理事件であり、フォルクスワーゲンの偽グリーンディーゼル車であったと言えます。今回の”南京大虐殺”を世界遺産に登録認可したユネスコにしても似たように構図で、金に籠絡されたユネスコ職員が、しでかしたものに過ぎない偽物語でしょう。
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村田一さんへ (小浜逸郎)
2015-10-16 00:03:43
好意溢れるコメントとシェア、ありがとうございます。

ユネスコの今回の選択もまた、腐敗したグローバル資本主義の一帰結だというご指摘、おっしゃる通りと思います。

だれがこんな浮ついた組織理念を考え出したのか、「リベラル」や「コスモポリタン」や「地球人」などの安っぽい観念に飛びつく前に、まず自分たちの足元の問題をしっかり見つめるべきでしょうね。

「修身、斉家、治国、平天下」が、同じ中国の故事成語であることを考えると、中共政府は自民族の智慧から何も学んでいないのだなあ、とつくづく思ってしまいます。
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Unknown (難波)
2015-10-18 21:02:50
私が思うのは「専門家は何やってんの?」ということです。
人類共通の「歴史」なんかないとしても「歴史学」には(限界はあるにせよ)国や民族を越えたコンセンサスがあるはずです。
また、歴史の取扱いの「作法」みたいなものもアカデミシャンの世界では重い蓄積があるはずです。

実のところは素人の集まりが勝手に権威を捏造して善男善女をたぶらかしてるわけですよね。
そこはプロたちが腰をあげて「あんなもんイワシの頭だ」と力強く言明してくれないと。

安易なイデオロギー臭ふんぷんたる「○○学会が懸念を表明」「研究者○万人が署名」みたいな予定調和イベントはときたまあるけど
シリアスな意味で歴史の政治利用と闘うのはやっぱりしんどいのでしょうか。
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Unknown (難波)
2015-10-19 03:01:29
もう一つ、
思いが事実を血の通った事実たらしめ、そこにおいて歴史が立ち現れると、
注意深く読めばそれはそうなんでしょうが、
少しでもナナメに読むと、それはアチラさんの「政治に随う歴史」「ナショナリズム涵養に資するための歴史」をも正当化してしまう弁のように聞こえてしまいますね。

歴史の重みというのは決して軽んじてよいものではないけど、
エモーショナルに語ることが歴史に正しく対する態度ではないのは言うまでもない。


暴戻なグローバリズムの一端としてのユネスコ記憶遺産という観点は正直私にはピンときませんでした。
「わが民族の物語に対する侵犯を許すな!」みたいなことでなく、単純に中共のやりくちにせよユネスコ記憶遺産のズサンさにせよ
「歴史問題」というよりも、現行犯での詐欺万引きの類として「コラッ!」と怒鳴ってやるべきなのではないでしょうか。
「そんなデタラメなことなら金出さない(かも)よ」…これはまあ「これこれ」くらいか。

対して、「廃止せよ!」は、なにかソレの権威を裏返しに認めているようにも感じられる。
東アジア的事大主義と言ってよいのか、日中韓では「あの」ユネスコ様がアレを認めたコレは認めなかったとマジで騒いでるが、
私は欧米の現実とか知りませんが、連中もうちょっと国連事業の類なんてカッコだけのセレモニーとして軽く見てるんじゃないのか。

自分ちの墓にしょんべんぶっかけてるバカを見つけたとして、大マジに「我が一族への冒涜である!」と怒るよりも
おいお前それ器物損壊だよと、別に興奮しないけど見逃しもしない。私にはそういう行き方が望ましいと思われます。
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難波さんへ (小浜逸郎)
2015-10-19 20:08:34
再び、辛辣なコメント二つ、ありがとうございます。

前半ですが、お考え通りに学問的な普遍性が力を持ち得るなら、その限りでまったくの正論と思います。しかし私自身は、この「歴史学」なるものに対しても、ややペシミスティックな印象を抱いています。同じ国史のレベルでも、論争が絶えず、一致した見解に到達することは稀です。いわんや仲の悪い隣国同士の「共同研究」なるものにおいてをや。しかし、ご説のように、専門家は何をしているのかと叱咤し続けることはぜひ必要でしょうね。

後半ですが、たしかに小林を援用した私の論理は、読み方次第では、アチラさんの「政治による歴史」をも認めてしまいかねない危うさを孕んでいるかもしれません。しかし私は多文化相対主義を標榜したつもりはないので、不当な言いがかりに対する抵抗の一番根源的な根拠だけを提示したつもりです。問題は、多文化の安易な容認が、そのまま、一部勢力の大きな声の力による客観的正統性の僭称につながってしまう危険をどうしたら避けられるのかということに尽きると思います。「歴史とは捏造の歴史である」というアイロニカルな実態をその通り認めることは仕方がないとしても、その歴史のただなかを生きる私たち自身にとって、そういう冷ややかなスタンスに安住するわけにはいきませんね。そのためには、こちらから迎撃することももちろん必要ですが、もう一つ、正当性を担保している「権威」なるもののインチキ性を、単にその組織や選択プロセスのいい加減さを突くことによって暴くだけではなく、私たちがなぜ歴史なるものを必要とするのかという実存的な契機について、彼ら(中共権力者だけでなく客観的事実主義者たち)がまったく理解していないことを指摘するべきだと思うのです。

記憶遺産をグローバリズムに結びつける私の説に関する難波さんの違和感については理解できなくはありませんが、素朴な客観主義、普遍主義がまかり通っているからこそ、ある特定の(この場合はデタラメな)歴史認識を普遍的に定着させたいとする欲望も生ずるわけで、これはやはりグローバリズムというイデオロギーが持つ、けっこう深刻で大きな問題ではないでしょうか。

また、弁解めきますが、「廃止せよ」は新聞や雑誌がやるような、人目を引く効果を狙ったタイトルのセンセーショナリズムの一種ですので、どうぞご海容ください。内容は必ずしも重要視の裏返しにはなっていないと思います。こんなものを権威と認めず、ただのゴミと見なせ、というのが私の本音です。その点で、東アジア的事大主義を指摘されて、欧米では単なるセレモニーとして軽く見ているのではないかという難波さんのご説にまったく同意します。しかしゴミだから無視すればいいのかというと、そうもいきませんね。ゴミだからこそ廃棄場所をきちんと探そうではないかという提案も必要になってきます。とりあえずは、わが邦の「泣いて喜ぶ」「青筋立てて怒る」事大主義を何とかしなければ。

「現行犯での詐欺万引きの類として「コラッ!」と怒鳴ってやるべきなのではないでしょうか」というのもレトリックとして卓抜と思いますが、これが本当に功を奏するためには、やはり軍事力までも含めたろいろな策略、説得力、権力が必要になってくると思います。
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Unknown (難波)
2015-10-20 01:11:56
なるほど随分腑に落ちました。この問題に対する上で我々が原点とするべきところはまさにお示しの通りだと思います。
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Unknown (難波)
2015-10-21 02:15:27
蛇足も蛇足ながら。

妄想サヨクと浪花節ウヨクのプロレスには心底うんざりしつつまた見下しつつ、
しかしそれら既成の古くさい言説に代えて何の用意があるかといえば
「とりあえず」プラグマティックに、冷静に、万事是々非々の態度でいくしかないだろう…くらいのことしか言えない、
(なので、突き詰めては考えずに「とりあえず」でフタをしてあった死角を衝く論を一読しても、まるでピンとこなかった)

…というのは自分のことですが、しかし自分だけではない、けっこう世の中みんなそこどまりじゃないかと思います。
(己の無知は承知で、敢えて言うと)若手論客と言われるような、同世代あたりの発言者らを見ても。

そのようないわば根無し草の論理しか持ち合わせないと、
普遍や客観の装いをとったガラクタや、それを隠れ蓑にした政治的意思というものに対して、結局のところ抵抗力を持てないのですね。
いろいろなことについて一から考え直すきっかけをいただきました。
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