小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「安倍首相の平昌出席の是非」議論は無意味

2018年01月31日 17時01分03秒 | 政治



このところ、平昌オリンピックの開会式に、
安倍首相が出席すべきか、すべきでないかの議論が、
一部で盛り上がっています。
筆者は、こんな議論自体がもはや空しいと思っています。
出席してもしなくても、事態は何も変わらないでしょう。
その理由を以下に述べます。

文在寅政権が親北べったり政権というか、
北のエージェント政権であることはもはや明らかです。
また、2015年12月の慰安婦問題をめぐる日韓合意を見直すというのが、
この政権の基本的な立場ですから、
たとえ首脳会談で「合意を守れ」と釘をさしても、
ただの物別れになることは目に見えています。

一方では、「平和の祭典」という建前が、
政治利用にまみれている実態もあります。
金正恩様はこれをチャンスと見て、
いろいろと工夫なさっているようですね。
だからこそ、行くなという議論も成り立ちますし、
だからこそ、行ったほうがいいという議論も成り立ちます。

アメリカからは出席を要請されているに違いないでしょうから、
それに適当につきあっておくという外交的意義が絶無とは言い切れません。
なにしろ、ペンス副大統領も行くのですから、
そこで米韓の水面下の交渉に加わっておくのも得策かもしれません。
筆者としては、
まあ、行かないよりは行ったほうがいいかな、
くらいの気持ちでおります。

しかしいずれにしても、
これは対韓外交としての意義というレベルでは、
興奮してその是非を論ずるに値しない議論です。
それよりも、これを機会に再確認しておくべきことがあります。

それは、
あの日韓合意がどういう性格のものであったか、
その結果国際社会で何が起きたか、

以上を国民がしっかり思い出すことです。

これに関して、次の二点を肝に銘じることが最も重要です。
①間違った中韓の「歴史認識」を誘発し助長させ、
さらに、それを承認してきたのが当の日本人であること。
②この「歴史認識」は中韓を利するのみならず、
第二次大戦の戦勝国である米英豪にとってもはなはだ都合がよいこと。

①の日本人の主役は、言うまでもなく朝日新聞などの反日メディアであり、
敗戦利得を手放したくない国内左翼勢力です。
しかし彼らの言動を無意識のうちに支持し、
暗黙の承認を与えているのは、
戦後教育を受けた一般の日本人です。

戦後教育は、
七年間にわたるGHQの占領統治期間に巧妙に準備されました。
これによって日本人は、魂を抜かれ、
主権回復後もその路線を歩み続けることになりました。
自虐史観に骨の髄まで侵されてしまったのです。

多くの戦後日本人は、周辺諸国に対して、
謝罪姿勢を自ら進んでとる習慣を身につけてきました。
さらに、そういう姿勢をとっておけば、
向うは許してくれて丸く収まるだろうという、
お人好し丸出しの習性まで身につけてしまったのです。
国際社会はそんなに甘くないのだというまともな感覚の喪失です。

②の、中韓の「歴史認識」が戦勝国にとって都合がいいという点。
このでっち上げられた「歴史認識」は、
戦勝国の「正義」を揺るぎないものにすることに貢献してきました。
また原爆投下など、民間人大量虐殺行為の「悪」を隠蔽する効果もあります。
中共は、そのことをよく知っていて、
欧米が抱いている「あの戦争では日本が一方的に悪い」という、
自分たちに都合のよいイメージを大いに活用し、
日米分断を図ろうとしているわけです。

そもそも「日韓合意」は安倍外交の致命的な失敗です。
この合意によって安倍政権の対韓外交は、
河野談話、村山談話と何ら変わらない醜態をさらしました。
当時の岸田外相発言、
軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた。日本政府は責任を痛感している
は、誰が読んでも軍の強制性を認めたとしか解釈できません。
また安倍首相は「心からのお詫びと反省」発言をしています。
さらに韓国新財団に10億円の出資
これは名目上「賠償」ではないと謳ってはいますが、
国際社会はそう見ません。

以上の三点セットで、
旧日本軍は20万人もの韓国女性をセックス・スレイヴとして扱い、虐殺した
とのこれまでの戦勝国の定説を、
オウンゴールで追認したことになります。

 その後、欧米メディアがこの「日韓合意」をどうとらえたかを見ると、
この認識が見事に裏付けられます。
山岡鉄秀氏が主宰するAJCNが、
合意直後の二〇一六年一月七日に出したレポートによると、
次のような記事が目白押しであることがわかります。

2015-12-28 The Guardian (Australia)
日本政府は、女性の性奴隷化に軍が関与していたことを認めた。
日本統治下の朝鮮半島で強制的に売春をさせられた女性の数には論争があるが、
活動家らは20万人と主張している。

2015-01-01 New York Times, To the editors (U.S.A)
生存者の証言によれば、この残酷なシステムの標的は生理もまだ始まっていない13,14歳の少女だった。
彼女たちは積み荷としてアジア各地の戦地へ送られ、日常的に強姦された。
これは戦争犯罪のみならず、幼女誘拐の犯罪でもある。

2016-01-03 Ottawa Citizen (Canada)
多くの被害者は14歳から18歳の少女で、軍の狙いは処女だった。
抵抗する家族は殺されるケースもあった。
41万人の少女や女性が誘拐され、生存者は46人のみ。
安倍の謝罪は誠意がなく、安部の妻は戦争犯罪者を奉る神社に参拝した写真を公開している。
10億円は生存者を黙らせるための安い賄賂だ。

ご覧の通りの集中砲火です。
これが戦勝国包囲網の常識なのです。
安易な「謝罪」や「責任表明」が何を呼び起こすか、
日本人は改めて肝に銘じるべきでしょう。

そもそも日本側には韓国の会談要求に応ずる必要などまったくなかったのです。
しかし応じてしまったからには、
最低限、次の三つを交渉の絶対条件として臨むべきでした。

①慰安婦問題に関してあらゆる意味で日本国には責任など存在しないことの確認
②大使館前の慰安婦像の撤去
③慰安婦問題に関するいかなる形での資金拠出も行わない。

あの反日メディア・朝日新聞が二〇一四年八月に、
はなはだ不十分ながらも慰安婦報道が誤報であったことを自ら認めました。
にもかかわらず、
安倍政権はこの合意によって、その事実をもひっくり返してしまいました。
安倍首相もまた、
占領統治時代の洗脳政策に始まる戦後教育の犠牲者です。
口では「戦後レジームからの脱却」などと言っていても、
その無意識レベルでは全然脱却などできていなかったわけです。

こういう状況ですから、
嫌韓感情から「安倍の平昌出席を認めるわけにはいかない」と言って、
毅然と拒否の姿勢を示したつもりになっても、
周辺の国際社会は「子どもの喧嘩だ」と受け取るだけでしょうし、
外交的配慮で出席して何か日本にとっての成果を期待しても、
アメリカ親分にくっついて日米同盟の堅固さを、
多少印象づけるくらいの効果しかないでしょう。

大切なことは、
短期間の時局に視野を限定して大騒ぎすることではなく、
私たち国民が日韓合意の大失敗を忘れず、
日本に対する国際社会の恐るべき名誉毀損を、
いかにして雪ぐか
に知恵とエネルギーを集中させることなのです。

なお、以上の主張の基礎になる認識は、
拙著『デタラメが世界を動かしている』で展開しております。
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%81%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E5%8B%95%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B-%E5%B0%8F%E6%B5%9C-%E9%80%B8%E9%83%8E/dp/4569830404/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1517381768&sr=8-1&keywords=%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E9%80%B8%E9%83%8E


【小浜逸郎からのお知らせ】
●『福沢諭吉と明治維新』(仮)を脱稿しました。出版社の都合により、刊行は5月になります。中身については自信を持っていますので(笑)、どうぞご期待ください。
●月刊誌『正論』2月号「日本メーカー不祥事は企業だけが悪いか」
●月刊誌『Voice』3月号「西部邁氏追悼」(2月10日発売)




誤解された思想家たち・日本編シリーズ(16)――吉田松陰(1830~1859)その2

2018年01月29日 13時13分17秒 | 思想


 前記事で、松陰を論じながら、日本人の一部には、闘いに際して、そのための戦略を最優先させる前に、まず桜花が散るように「死の覚悟」を固めることを優先させてしまう敗北の美学が沁みついているということを述べました。特に大国と渡り合わなくてはならない時に、こういう心性をけっして認めるわけにはいきません。
 松陰には、明らかにこの傾向がありました。
 たとえば野山獄から杉家へ移された時期(安政三年・一八五六年)に書かれた『丙辰幽室文稿』のなかの「天下は一人の天下に非ざるの説」に次の記述があります。

本邦の帝皇には、あるいは桀王や紂王のような残虐な行為があったとしても、億兆の民はただ頭を並べて、天子の宮殿の前に伏し、号泣して、天子がみずから感じ反省するのを祈ることができるだけである。不幸にして、天子が激怒し、億兆の民をことごとく殺してしまうときは、四方の残りの民も、また生き残ることはない。神州は滅ぶのである。もしなお一人でも民が生存しているならば、天子の宮殿の前に行って死ぬだけである。これが神州の民である。あるいはもし天子の宮殿の前に行って死なないとあれば、それは神州の民ではないのである。

 これは天皇への絶対的な忠誠心を表すための極端な譬えであると思うかもしれません。しかしまんざらそうでもなく、本気で言っているフシがあります。
 こうした一種の自虐的なまでの原理主義は、ほとんど信仰の域に達しています。同じような硬さが、彼の他の面にも表れているからです。
 たとえば、『武教全書講義』の「子孫教戒」という文章には、女子をいかに教育するかというくだりがあります。
 そこでは、『源氏物語』や『伊勢物語』、その他和歌、俳諧、茶の湯などの遊芸を教えとしてはならないとあります。
 また同じ文章の他の箇所には、妻が夫の家に万一居るにたえないような場合には自害する以外に生き方はなく、離縁されて戻ってきたら父兄は意を含めて自害させなければならないとあります。
 これらは要するに世間知らずの思想家の言うことで、松陰の骨がらみの体質がこういうところにほの見えると言ってよいでしょう。

 松陰はたしかに、早くから迫りくる列強に対抗しうるだけの近代的軍備を西洋に学んで整える必要を力説しています。
 しかしこれなどは、彼の師である佐久間象山の直接の影響であり、また、松陰よりずっと年上の横井小楠もさんざん言っていたことです。松陰より七つ年上の勝海舟などは、海軍伝習掛や海軍奉行として現実にその実践に当たっています。
 また幕府上層部も、黒船来航以前からその必要を痛感し、準備を進めていました。彼らのほうが欧米の恐るべき実態をよく感じ取っていたのです。

 たとえば松陰は、「僕は罪を得て幽囚の身となっているが、わが神州の運命を自ら担う気概を忘れず、神州に迫る四方の夷狄を討伐しようとの志を抱いている。(中略)いまわが神州を興隆に導き、四方の夷狄を討伐するのは、これ仁道である。したがってこれを妨げるものは不仁である。どうして仁が不仁に敗れることがあろうか。もし不仁に勝ちえないならばそれは、仁ではないからである」(『孔孟余話』)などと、独りよがりな断定に満ちた激を飛ばしています。
 さらに、「いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ整えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャツカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。また、朝鮮を促して昔同様に貢納させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾、ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである」(『幽囚録』)と、何とも無謀な企てを開陳しています。
 加えて、古代の天皇の「雄大な計画」などを典拠として持ち出し、関東ではなく畿内の防備を固める具体策を事細かに展開しています。しかしこれは敵が万一陸戦に踏み込んだ場合の話で、見当外れの空想というほかありません。
 なぜなら当時の列強は、日本に対して戦いを挑むなら、まずは進退自由な海戦で臨んだに決まっているからです。
 このことは、同時代に、横井小楠が、海軍力を充実させる必要を論じた『国是三論』(万延元年、一八六〇年)の中でさんざん説いているところです。

 幽囚の身であるがゆえに妄想も活発化するのでしょうが、後世に名を残すべき思想家たる者、夜郎自大に走らず、もう少し現実をよく見るべきだったでしょう。
 これを結果論だという反論は成り立ちません。
 すでに触れたように、同時代でもっとよく現実を見ていた人は、小楠だけでなく、勤王派にせよ、佐幕派にせよ、攘夷派にせよ、開国派にせよ、何人もいたのですから。

 そもそも松陰は、風雲急を告げるこの時代に、逸る心を抑えきれず、攘夷実現のために下田踏海、伏見要駕策、間部要撃策など、いくつも計画を立てていますが、ことごとく失敗または未遂に終わっています。伏見要駕策は高杉晋作ら、弟子が止めたにもかかわらず、断行して失敗しました。
 これらの計画は、細かく見ると、いずれも計画の綿密さに乏しく、準備活動において拙劣な独り相撲だったことがわかります。
 下田踏海は、ペリーの軍艦に二人で乗り付けて密航を許してもらおうとした有名な試みです。本来なら死刑に値する罪ですが、それが故郷の野山獄入獄という寛大な措置になったのは、徳川幕府で要職を歴任した有能な川路聖謨が担当奉行を熱心に説得してくれたおかげでした。
 これらは、松陰の一種の愚直さを表しており、彼が高度な術策を必要とする政治行動に不向きだったことを示してもいるでしょう。高邁な志と学識だけでは世は動いてくれないのです。

 愚直さと言えば、彼にその自覚がなかったわけではなく、随所に自分のつたなさを反省する文言が見えます。しかし、彼は最後までこの愚直さを貫くしかありませんでした。
 刑死直前に書かれた有名な『留魂録』には、安政の大獄に連なる取り調べで、身に覚えのない容疑をかけられたにもかかわらず、問われてもいない間部要撃策のことを告白してしまったことが書かれています。余計なことをしゃべらなければ彼は死刑にはならなかったでしょう。
 これ以前に長州藩では、いろいろな意味で松陰の名は通っていました。まあ、学識は認めるが、何をしでかすかわからないので、敬して遠ざけるといったスタンスではなかったかと想像されます。ことに江戸屋敷ではその傾向が強かったようです。

 松陰は、安政五年(一八五八年)、日米修好通商条約締結の少し前、『愚論』と称する一文を書き、これが帰藩した藩主の目に留まり、さらに人を介して孝明天皇の手元にも届くことになります。
 『愚論』の内容は、簡単に言うと、鎖国を解くにしても、このたびのアメリカの要求には断固拒絶の姿勢を持って臨み、幕府の因循姑息をこの際克服して、諸藩の勢力を結集し、全国一致してアメリカを討つべきだ、それは可能であるという激しいものでした。
 激しくはありますが、アメリカの実力を知らずまた国内事情をわきまえない観念的な攘夷論です。幕府のほうが、直接折衝に当たっているので、そんなに簡単に行くわけがないということはわかっているわけです。
 やがて勅許を俟たずして条約が結ばれ、この事実を知った松陰は憤激します。彼の攘夷感情はここにおいて後戻りができないまでに高まったのでした。一度は自分の文章が孝明天皇の手に渡ったと知って感涙にむせんだのでしたが。

 以上のように見てくると、松陰の思想が日本の近代化に貢献するようなものではなく、ただ夾雑物を受け入れない純粋で狭隘な神国思想以外のものではないことが理解できると思います。
 そしてこれは、後に日本が国際社会の中で孤立した時に現れた、過激で前時代的な皇国思想にそのまま通ずるものであることもわかります。あまり私たちが尊ぶたぐいのものではありません。

 松陰についてもっぱら否定的な言葉を連ねてきましたが、これには同情すべき点がいくつかあることをことわっておきたいと思います。
 一つは、やはり「若さ」です。なまじ天才的であったがために自恃の念強く志高く、そのためにひたすら一徹に走ったと言えるでしょう。
 もう一つは、長州という外様藩が長年抱えてきた中央に対するルサンチマンの空気が関係してsいるでしょう。
 このルサンチマンはやがて討幕と新政府の樹立の機運を高めることになるのですが、しかし私たちは、この経緯を単純に時代の進歩と考えないほうがいいと思います。別に長州の志士たちの活躍がなくても時代は動いたでしょう。
 また場合によっては、徳川家を中心に雄藩連合の改革精神によって近代化を進めることができた可能性もありました。
 さらに、注意すべきなのは、維新後の初めの十五年ほどの日本は、混乱の極みであったことです。維新が成って、すぐにでも政治中枢部の統一や社会混乱の収束がなされたなどと錯覚してはなりません。
 第三に、これが最も重要ですが、松陰の思想の狭さ、もっと言えば反動性は、彼が一度も外国の土を踏む機会を得られなかったこと、実際に西洋人と交流するチャンスがなかったことに起因する点が大きいと考えられます。
 いかに頑固な攘夷論者も、いったん西洋に滞在すれば、いやでも当時の日本社会を客観的に相対化せざるを得なかったでしょう。その意味では、下田踏海の拙劣な失敗が悔やまれるとも言えます。
 ここに、福沢諭吉との運命の決定的な分かれ道が明確に認められます。福沢は、断続的に日本を離れていたために、動乱期の日本の情勢を見誤った部分がありましたが、その代わり、欧米列強の強さの秘密を内的に見破る目を持ち帰ることができました。
 どちらも明確なナショナリストであり、その点では何の違いもありません。しかし生年の五年の差、もともとの資質の違い(松陰は内向的、福沢は外向的)、洋行経験の有無などによって、これだけの相違が出てきてしまうのです。

 松陰は、維新の志士の元祖のように思われています。そこから日本の近代化に何らかの貢献をしたかのような短絡が生じる恐れがあります。
 筆者はその種の神話を壊したいと思う者です。
 日本の近代化に本当の意味で思想的に貢献したのは誰か。言うまでもなくその筆頭は福沢です。
 松陰の古めかしさ、直情性と、福沢の開明性、功利主義的思考とは著しいコントラストをなしています。
 次回は、福沢を取り上げて、近代を志向する思想とその反動思想とを際立たせたいと思います。
 これからの日本のあり方を冷静に模索していく上でも、松陰を反面教師としてとらえることが必要に思えるからです。


誤解された思想家たち・日本編シリーズ(15)――吉田松陰(1830~1859)その1

2018年01月24日 23時25分09秒 | 思想


 幕末の思想家といえば、まずなんといっても吉田松陰が思い浮かぶでしょう。
 早くから神州不滅を唱え、勅許なしの幕府の開国に憤激したこの早熟の天才は、尊皇攘夷思想の元祖として理解されています。その国を思う至情には、多くの日本人が共感を示してきました。
 松陰が最ももてはやされたのは、戦前・戦中の皇国思想一点張りの時期です。これは当然といってよいでしょう。
 しかし、戦後(GHQ占領統治期間を除いて)になっても彼の大衆的人気は続き、最近のNHK大河ドラマにまで取り上げられています。東京世田谷の松陰神社はすでに百三十年以上の歴史を持ち、文字通り松陰は神格化されているわけです。
 しかし筆者は、吉田松陰という人は思想家としてそんなに偉いのかな、と前から思っていました。あえて悪口を叩くなら、彼は、必要な局面で必要とされる合理的思考を欠き、時々の情緒におぼれがちな日本人の短所をまさしく体現したような人ではないか。
 松陰が二十九歳という若さで非業の死を遂げたことを、早く来すぎた者の悲劇と見ない人はまずいないでしょう。その悲劇は、半分は時勢のしからしめるところで、致し方ない部分がたしかにあります。しかし後述のように、あとの半分は自ら招いたものというべきです。

 松陰は、なぜこんなに人気があるのでしょうか。ここには、不当といってもよいいくつかの理由が考えられます。
 一つは日本人の判官贔屓です。これはまあ仕方がありません。学識において天才性を示した大望の人が、若くして権力による無慈悲な斬首という憂き目に遭ったのですから。

 二つ目に、大義のためには進んで命を捨てる潔さに対する人々の憧れがあるでしょう。
 しかし、この時期、命懸けで事に臨んだ人は、松陰自身、およびその弟子以外でも枚挙にいとまがありません。その立場の良し悪しは別として、高野長英、佐久間象山、橋本左内、横井小楠、桂小五郎(木戸孝允)、後藤象二郎、西郷隆盛、大久保利通、江藤新平、板垣退助その他。
 また幕閣や幕臣あるいは列藩の藩主でも、その種の人はたくさんいました。井伊直弼、阿部正弘、堀田正睦、勝海舟、川路聖謨、榎本武揚、松平春嶽、山内容堂その他。一橋慶喜ですらこの例に漏れないでしょう。ですから、死を覚悟しながら事に臨んだというだけでは神格化されるべき理由にはなりません。

 三つ目に、日本の近代化に貢献したと言われる「元勲」たちの多くが松下村塾の出身者だという事実があります。むろん彼らが松陰の影響を強く受けたことは否定すべくもありません。
 しかし松陰は安政六年(一八五九年)に刑死しており、松下村塾の出身者たち、伊藤博文、山縣有朋、品川弥次郎らが、元勲の名にふさわしい活躍を示すのは、明治十年(一八七七年)前後からです。その間の二十年には、新時代における大混乱と、それに対処する彼ら自身の悪戦苦闘のプロセスがあったのです。それこそが近代政治の基をようやくにして作り上げたというべきでしょう。
 それは、松陰が往時抱いていた思想とは直接の関連はありません。彼は最後に「草莽崛起、豈に他人の力を仮らんや。恐れながら天朝も幕府、吾が藩も入らぬ。只だ六尺の微躯が入用」(野村和作宛書簡)と極端な精神主義を唱えますが、これは門人たちに反対され、彼らと絶交にまで至っています。彼の属した長州でさえ、彼の死後には小攘夷から大攘夷に方針を切り替えていますし、大攘夷の典型である長井雅樂の航海遠略策が藩論を支配した時期もあります。
 松陰が小攘夷だったと決めつけるわけではありません。彼もまた大攘夷的な戦略の持ち主ではありましたが、その思想の矯激な質において、やはり小攘夷的な側面が強かったと見るべきでしょう。
 また維新後、薩長を中心とした政府は、攘夷とはおよそ無縁な、幕政を受け継いだ積極的開国政策を取っているので、その意味からも松陰の志を活かしたとは言えないでしょう。

 四つ目に、彼がいち早く、来たるべき明治絶対王政の到来を予感し、幕藩体制に替えて尊皇思想を徹底的に貫いたという事績が考えられます。
 けれども、松陰には倒幕を目標として狙い定めた形跡はありません。それは彼の予想だにしなかったことでしょう。
 というのも、松陰の教養の根はもっぱら儒教でした。ですから、その道徳観は忠君奉公の観念の域を出るものではなく、藩主に背くとか、将軍家に叛逆するといった発想はありませんでした。
 たとえば、『野山獄文稿』の中の「浮屠清狂に与ふる書」という文章では、僧・月性に反対して、次のように述べています。

天皇に請うて幕府を討つということについては、これを可とすることはできません。昔より、暴政府を倒すのは、一時の憤激によるだけでは、よく成功するところではありません。……たとえ天下の憤激に乗じて、一朝にして幕府を倒すとしても、わが藩主のなすところが、湯王・文王のなしたこと以上の深切さがなければ、結局天下の兵を動かすだけでいたずらに世間を騒がしたことになるでしょう》(中央公論社『日本の名著31』・以下引用は断りない限り同じ)

 これなどは、むしろなかなか理性的で、松陰の死後、長州の過激分子が京都を擾乱に導いて結局幕府に征伐された事情を、先取り的に戒めるものとなっています。もっとも、死を賭して主君を諌めるとか、君側の奸を排するいう観念は人並み外れて強かったようですが、それは、まさに儒教道徳にも武士道にもぴったり叶っています。
 またその尊皇思想は、もっぱら古代王朝への復帰を目指すものでしたから、当時の社会体制や人民の生活意識には逆行するものでした。
 彼はただ純粋に、神学的に、道徳的に「万世一系の皇統によるよき統治」を夢想したにすぎません。すでに否定すべくもなく強固な基盤を持っていた当時の商業資本による経済システムなどはほとんど念頭になかったのです。それが証拠に、彼は漢籍を模範として引きながら、以下のような「米本位制」を説いています。

諸士で閑職についているものの俸給その他の賞与などは、金・銀・銭や紙幣を支給することをいっさいやめ、米穀や布・絹などをもってする。また漸次紙幣の発行をやめ、これをなくする。》(『武教全書講義録』)

 ここには、商業に対する伝統的な軽侮の念さえうかがえます。ですからそれははっきり言って時代錯誤の代物でした。

 五つ目に、これが一番重要なのですが、彼の思想的な核心は、ただ皇国に対して「至誠」をつくすという一言に尽きます。
 誠さえ貫けばどんな事態も動くというこの精神主義は、多くの日本人をいたく感激させます。松陰の人気は、それを貫いて言行を一致させたというところにあるのでしょう。
 ところがこうした純粋心情の美学は、えてしてその裏側で、合理的な戦略思考や視野狭窄をもたらします。
 たとえば昭和の二・二六事件は、先々の見通しもなく蹶起した青年将校のクーデターです。よく聞かれるのは、その無計画さはともかくとしても、彼らの心情は純粋に憂国の念から出たもので、その志は多とすべきだといった議論です。
 しかしこれは端的に誤りです。
 このクーデターの結果、日本の苦しい経済情勢をいつも巧みに切り抜けてきた高橋是清が殺害されましたし、優れた政治思想家であった北一輝は、直接の関連がないのに、この事変に連座したとして刑死させられました。
 青年将校たちの行動は、激情にかられただけの行動であり、日本の苦境を総合的に見て解決しようとする視野をもたない若気の至り以外の何ものでもありません。

 一時の激情にかられることを戒める冷静な松陰と、神がかり的に皇統への至誠を貫く非合理な精神主義者の松陰。
 彼一身の内にはこの矛盾した両面があったと言えば人物批評としては片づくのかもしれません。けれども思想的に見れば、後者のほうははるかに重要な問題をはらんでいます。それは日本の伝統的な弱点と言っても過言ではないからです。
 敗色濃厚になった先の大戦における無謀なガダルカナル作戦やインパール作戦、片道燃料だけで若い有為な命を次々に死地に追いやった特攻隊作戦、同じく片道燃料だけの戦艦大和の出撃などには、この伝統的な弱点が象徴されています。つまりは、玉砕を進んで多とする思想であり、死の美学によって自分たちの行動を肯定しようとする思想です。
 筆者は二、二六事件や大東亜戦争をけっして道徳的に非難しているのではありません。日本人のこの思想体質が、いざ闘いに臨むにあたって合目的的な思考や巧みな攻略を発出するための障碍となっている事実を指摘したいのです。残念というほかはありません。
 闘いは、勝って生還するのでなければ意味がないのに、そのための戦略を最優先させる前に、まず桜花が散るように、「死の覚悟」を固めることを優先させてしまう――こういう一種の敗北の美学を、大国と渡り合わなくてはならない時に、けっして認めるわけにはいかないのです。(つづく)

水道の民営化を阻止せよ・その2

2018年01月19日 16時01分26秒 | 政治


フェイスブックに、このブログの前記事「水道の民営化を阻止せよ」の掲載を告知したところ、石塚幾太郎さんという人から、たいへん詳しいコメントをいただきました。
https://www.facebook.com/i.kohama ">https://www.facebook.com/i.kohama

以下に掲げるのは、これに応えたものです。

水道民営化の問題は、国内政治問題としていま最重要と言っても過言ではないので、読者の皆さん、どうか最後まで読み通されることを願っております。

まず、結論的なことを申し上げますが、私の前ブログ記事の趣旨は、もともと次の点にあります。

①水道の民営化は政府の規制緩和方針の一環であり、私は、小泉政権以来の規制緩和路線をデフレ脱却のための成長戦略として位置づける考え方に、一貫して反対であること。
②この路線は、竹中平蔵氏に代表されるグローバリズム・イデオロギーにもとづいており、これは、日本国民の生活や日本の伝統を破壊する危険なイデオロギーであること。
③この路線は、緊縮財政を貫こうとする財務省の頑固な方針にまことによく合致しており、私は、この財務省方針こそが、長引くデフレと国民の貧困化をもたらしている最大の原因であることを一貫して指摘してきたこと。

ところで石塚さんは、コメントの中で、「少なくても『グローバル水企業に日本の水道が支配される』という事態にはならないと理解しています。」と書かれていますので、石塚さんご自身も、万一そういう事態になったら、それは危機的なことと考えていると理解できます。
私も日本の水道が「すべてグローバル水企業に支配される」と断定はしません。しかし、この間の水道法改正の流れや、日本の各自治体でのコンセッション方式による外資導入の動き、ことに今回明らかになった東京都の民営化方針の打ち出しなどを見ていると、「蟻の三穴」くらいはもう開いていると考えざるを得ません。これが、「自由はよいこと」「小さな政府」などの空気の席捲によって、今後全国に広まらないという保証はどこにもありません。緊縮真理教に染まっている財務省には、これほどうれしいことはないでしょう。また、この傾向が広まることが、国民生活の安全に取って、重大な危機に発展するという懸念は拭えません。

石塚さんが提供してくださった資料の中に、ご自身とYoshiko Matsudaさんという方とのコメントやり取りがありましたが、このなかに、次のようなMatsudaさんの意見があります。
https://www.facebook.com/groups/whatisTPP/permalink/1906350602919292/

「民営化するとサービスが低下して料金が上がる」これは日本でそうさせないためにも、起こり得る懸念として声高に言っておく必要がある事柄だと認識しております。

これが、普通の市民の方たちの平均的な感想だと思います。その上に、水の安全が脅かされること、外資系グローバル水資本に利益を掠め取られること、などの危険が伴うわけです。
しかし、石塚さんは、これらのまっとうな懸念に対して何ら答えていません。

また、石塚さんは、同じ記事の中で、麻生財務大臣の答弁を次のように克明に引用されています。

今、色々なアイデアが実に多くの人から出されているが、その中でと思っているのは、いわゆる規制の緩和です。規制の緩和、なかんずく医療に関して言わせていただければ、例えば日本では医療、介護用のロボットというのを作っています。事実、人間が思っているだけで手の方が勝手に動くと言うロボットはすでに開発されています。日本で。これをいわゆる介護用ロボットとして使う場合は、残念ながら日本の厚生省というところでは、ロボットを開発するに当たっての制度が全くありませんので、薬の開発する制度をそのままロボットに当てはめているため、臨床実験を何百回とやらされるため、その頃はそのロボットが古くなる。これが今の実態ですから、これに合わせて全く新しいシステムを作ろうとしている一つの例です。
このロボットは一つの例ですが、例えばいま日本で水道というものは世界中ほとんどの国ではプライベートの会社が水道を運営しているが、日本では自治省以外ではこの水道を扱うことはできません。しかし水道の料金を回収する99.99%というようなシステムを持っている国は日本の水道会社以外にありませんけれども、この水道は全て国営もしくは市営・町営でできていて、こういったものを全て民営化します。いわゆる学校を造って運営は民間、民営化する、公設民営、そういったものもひとつの考え方に、アイデアとして上がってきつつあります。


この答弁は、石塚さんも一部指摘しているとおり、間違いだらけですが、石塚さんは、この麻生氏の考え方に関して、同記事で、「注意して聞くと前後の文脈から、『介護ロボット認可の問題に続き、公が学校を設立し民間が運営するように水道民営化の規制緩和のアイデアとして日本で提案されている』と受け取れる。『全て民営化します。』と一旦話を切ったのが誤解を招く発言になったのだと思う。」と評しています。
しかし、この発言は、「注意して聞く」なら、介護ロボットによる新システムの開発や学校の民営化など、水道の問題と何の関係もない話で前後を埋めて、議論の焦点をごまかしているとしか聞こえません。問題の核心は、「なぜ規制緩和路線としての水道の民営化が日本国民にとって良いことなのか」「公営事業としてこれまでどういう問題があり、それが民営化によってどうよくなるのか」という点であって、麻生氏はそれにはまったく答えていません。規制緩和が既定路線だからやるのだと言っているだけです。

初めに述べたように、私は、小泉改革以来の規制緩和がまさにグローバリズムへの迎合であり、それは日本国民の利益にとって大きな危険を含むと主張しているのです。「水道を民営化しても大丈夫」「すべて民営化ということにはならない」という答え方は、まことに悪しき意味での官僚的な答え方で、国民の不安に答えていませんし、なぜある政策がよいことなのかという問いに対する答えにもなっていません。石塚さんもその意味で同じです。

また石塚さんは、浜松市の公式HPや、内閣府の調査資料、大阪都構想の一環としての大阪府の水道事業統合計画(大阪市議会での否決と住民投票の敗北により頓挫)、松山市の公式HPなど、やたら行政府の公式HPを一種の「証拠資料」として引用されていますが、多くの公式HPがきれいごとばかり並べている(それは当然のことですね)のを、石塚さんはそのまま承認しているのですか。それでは、政府や自治体が公式に宣明していることはすべて正しいと安易に信じているのと同じですね。国民の国政監視義務と反対のことをしていると言われても仕方がないのではありませんか。

さらに石塚さんは、(小浜がブログで)「リンクされている『アジア・太平洋人権情報センター』の国際人権ひろば No.73(2007年05月発行号)に民営化の経緯が書かれているが、その資料に引用された佐久間智子氏の投稿文が分かり易い。」として、「2017年1月3日、石塚幾太郎氏による調査 風説の検証」で、ボリビアの実態についての、日経記事に乘った佐久間氏の投稿を、誠実にも、わざわざ引用されています。その一部にこう書かれています。
https://www.facebook.com/groups/whatisTPP/permalink/1906350602919292/

「民営化されれば、効率的なサービスが提供される」という信条がそこにあったことまでは否定しませんが、しかし水道事業を民間企業が担うことは、「例え絶対に必要なものであっても、採算が合わなければ提供しない」ことをも意味します。実際、ボリビアでは民営化の直後、「従来の水道料金では採算が合わない」という理由で水道料金が2~3倍に引き上げられ、低所得者が水道にアクセスできない状況が続発し、暴動にまで発展しました

このまともな指摘に対して、石塚さんご自身はどのような見解をお持ちですか? できればお示しください。

最後になりますが、石塚さんは、同記事で、大阪府の水道事業と東京都のそれとは事情が根本的に違うということをしきりに強調されています。その上で、次のように書かれています。

東京都水道局の「東京水道事業の概要」表3-1財政収支の推移を見ると元利償還金が年々減少し、h28年度では建設改良費1千億円以上を計上しても黒字となり優良事業体です。民営化などの話はあり得ないと思います。

この予言、見事に外れましたね。私も予言を外すことがあるので、あまり大きなことは言えませんが、肝心なことは次の点です。
「東京都の水道事業は優良事業体なので、民営化などあり得ない」と多くの人が思っていたのに、今まさにそれを構想し始めたということは、いかに政府・自治体のみならず、ほとんどの国民が、「自由化はよいことだ」「民営化は必要だ」「規制緩和を進めるべきだ」といった抽象的なイデオロギー(「空気」といった方がわかりやすいですね)に染まっているかを示しています。
ちなみに私は、石塚さんからのご指摘を受ける前から、一部例外を除いて、多摩地区その他の水道事業が、東京都に統一されていることを知っていました。しかし、だからこそ、いったん東京都が民営化に本気で乘りだしたら、その深甚な影響が広汎に(もしかしたら日本全国に)及ぶのではありませんか。

初めに書きましたように、私は、アベノミクス第三の矢(規制緩和、構造改革)に早くから反対の論陣を張っています。この種の空気が蔓延することが一番怖いのです(もうとっくに蔓延していますが)。なぜなら、イデオロギーの支配、空気の蔓延は、そうすることがなぜ良いことなのかという根本的な問いを抹殺してしまうからです。このことは、これまで世界史の多くの局面で実証されていますね。
石塚さんにも、よくお考えいただくことをお勧めします。



水道の民営化を阻止せよ

2018年01月17日 11時26分17秒 | 政治



いよいよ、「水道民営化」法案(水道法改正)が、1月22日から始まる通常国会に上程されます。
この法案がいかにひどい考え方にもとづいているかは、すでに「三橋経済新聞」で、三橋貴明さんや島倉原さんが詳しく指摘しています。
https://38news.jp/economy/11490
https://38news.jp/economy/11500

要するに、地方財政が逼迫しているために、民間企業に上下水道の運営権を売却し(コンセッション方式)、その売却益を、自治体が政府から借りている負債(財政投融資)の返済に前倒しで充当させるというものです。
しかもそのお金も、政府は支出の増加に充てるのではなく国債の償還に充てるのだろうと、島倉さんは鋭く見抜いています。
そうに違いありません。

この法案では、
運営権売却に際して地方議会の議決が不要となるほか、
運営企業の利用料金設定も届け出制にする
と謳われています。
つまり、民間企業が勝手に料金を決め、勝手に管理運営を行うわけです。

財政が逼迫していない東京都までも売却を構想中です。
また、すでに多摩地域では、昭島市、羽村市、武蔵野市以外の市町では水道部門がありません。
水道業務を行っているのは、PUE、東京水道サービスといった、東京都水道局の外郭団体である株式会社です。
http://suigenren.jp/news/2017/03/10/9066/

水道の民営化については、第二次安倍政権成立後間もない2013年4月に、麻生財務大臣がワシントンで、
日本のすべての水道を民営化する
と言い放って周囲を驚かせたのが有名です。
http://www.mag2.com/p/money/312562

4年後の2017年3月には、その言葉通り、水道民営化に道を開く水道法改正が閣議決定されました。
このように、国民不在のまま、水道民営化路線は着々と進められてきたのです。

水道民営化が、電力自由化、労働者派遣法改正、農協法改正、種子法廃止と同じように、
規制緩和路線(グローバリズム)の一環であることは言うまでもありません。
これにより、外資の自由な参入、水道料金の高騰、メンテナンス費用の節約、故障による断水、
渇水期における節水要請の困難、従業員の賃金低下、水質悪化による疫病の流行の危険
などが
かなり高い確率で起きることが予想されます。

ちなみに現在の日本の水道管はあちこちで老朽化していて、これを全て新しいものと取り換えるには、
数十兆円規模の予算がかかると言われています。
しかしいくら金がかかろうと、国民の生命にかかわる飲料水が飲めなくなる状態を改善することこそは政府の責任でしょう。
それを放置して、すべて民間に丸投げしようというのです。
正しく公共精神の放棄です。

民間企業は利益にならないことはしません。
例によって、外資のレントシーカーたち(主としてフランスのヴェオリアとスエズ)の餌食になることは目に見えています。

浜松市では、2017年の10月にヴェオリアと契約し、下水道の運営を委託しました。
2018年の4月から実施されることになっています。
浜松市民の今後が思いやられます。
https://www.excite.co.jp/News/economy_g/20171101/Toushin_4370.html

フランスでは水道事業の半分以上をこれらの民間が担っているというのは、民営化論者がよく持出す根拠ですが、
そのフランスも、次のような状態になったために、パリでは2010年に再公営化に踏み切ったそうです。

フランス・パリでは1985年から25年間、スエズとヴェオリアの子会社が給水事業をおこない、
浄化・送水・水質管理業務は、SAGEP社(パリ市が70%を出資)がコンセッション契約で担当した。
すると2009年までで水道料金が2・5倍以上にはね上がった。
水道管が破損しても送水管や給水管の境界が不明確であるため、2つの水道会社が工事を押し付けあい、トラブルが続出した。

https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=148552

「ではの神」が成り立たない典型ですね。
相変わらず、日本政府は「周回遅れ」をやっています。
しかも「水」という、広域にわたって住民の身体に直接かかわる物質の問題だけに、事態は深刻です。

このような水道民営化は、推進論者がうそぶくように、少しも世界のトレンドなどではありません。
それどころか、もうかなり前からその弊害が指摘され、反対運動も高まり、
再公営化した自治体が180にも上っているということです。
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=148552

経済評論家の高橋洋一氏は、この問題に関して詳しく調べもせずに、
水道事業の民間委託は『民営化』の成功モデルになる
などという無責任なヨイショ記事を書いています。
http://diamond.jp/articles/-/155402?page=4

消費増税に反対していたこの人が、すっかり御用学者ぶりを発揮しているわけです。
彼は、反対論者の提出する「弊害」例はボリビアなど、最貧国に近い極端な例ばかりで日本とは比較にならないと論じていますが、
そんなことはありません。
南米では、ボリビアだけでなく、アルゼンチン、ペルー、ウルグアイなど、民間企業が失敗したところは極めて広範囲にわたっています。
https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/section2/2007/05/post-246.html

先ほどのパリの例でも明らかなように、これらの民間企業は、先進国の都市部で失敗が続き撤退したからこそ、グローバル資本を利用して、
弱小国や日本のような免疫のない国を狙い撃ちしているのです。
また上述の再公営化を決めた180の自治体の中には、
ドイツのベルリンやマレーシアのクアラルンプールなどの首都も含まれています。

さらに、長峰超暉氏によれば、米アトランタでは、スエズ社の子会社によって水道事業が運営されていましたが、配水管が損傷したり泥水が地上に噴出したりして上水道の配水が阻害されてしまい、しかも復旧対応が大幅に遅れたことがあるそうです。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/07/post-7936_3.php

結局、2003年以降、アトランタ市でも水道事業が再公営化されています。

だいたい高橋氏の先の記事は、非論理的で実証性もなく、突っ込みどころ満載なのですが、その詳しい批判は、次の機会に譲りましょう。

それにしても世界最高レベルの濾過能力のある浄水場を持ち、飲料水として飲んでもほとんど害のない日本のきれいな水道水の運営を、
どうしてわざわざ外資を含む民間事業者に委ねる必要があるのでしょうか。


答えは簡単です。
初めに書いたように、いま多くの自治体は財政難で、しかも中央政府から十分な財政援助が得られないからです。

この20年間に政府の公共事業費は、約半分、ピーク時(平成10年)の五分の二まで下げられてきました。


またここ数年、地方の税収が増加していることを理由に、財務省は、
地方交付税を抑制する方向に
大きく舵を切っています。

https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_yosanzaisei20161027j-05-w350

税収が増加していると言っても、それは都道府県によって相当な格差があります。
首都圏など人口増加の大きい大都市部が上に引っ張っているのでしょう。
一律に地方交付税を削減する理由にはならないはずです。

しかも多くの府県では財政難が以前からずっと続いているわけですから、
その事実を見ずに、そっちが増えているからその分こっちを減らすというのは、あまりに乱暴な論理です。

もし政府が適切な積極財政策を取り、総需要が伸びてデフレから脱却できてさえいれば、歳入も増えるわけですから、
地方交付税を減らす必要などないはずです。
そうすれば、地方も潤います。
昨年報じられたように、橋を架け替えられないので撤去してしまった自治体が出るなどという情けない事態は避けられたはずです。
危険に満ちた水道民営化などもまったく必要なくなります。

「自由化」という麗しい言葉にだまされて、またまた麻生氏に代表されるような、愚策に踏み込もうとしている政治家たちは、
いい加減に、犯人が財務省の緊縮真理教であることに気づき、これを退治することに全力を注ぐべきです。

最後に付け加えますが、
発展途上国に水道の民営化を勧めてきたのは、IMFであり、
そのIMFには、
多くの財務官僚や財務省OBが深く関与しています。
緊縮真理教とグローバルな民営化(規制緩和)路線とは、見事に結託しているのです。



誤解された思想家たち・日本編シリーズ(14)――横井小楠(一八〇九~一八六九)

2018年01月10日 12時47分45秒 | 思想



 横井小楠の名は、幕末期に活躍した他の志士たちほど知られていませんが、その堅実で視野の広い考え方は、近代日本の基本方向を定めていく上でなくてはならないほど重要な位置を占めています。
 この優秀な人物が、これまでさほど人の口の端に上らなかったのは、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通などのように、政治の表面で目立った行動をとっていなかったからだと思われます。
 それだけ実践家というよりは思想家であり、その大半のエネルギーを福井藩主・松平春嶽のブレーンとして費やしたということなのでしょう。彼の名が忘れられている事実は残念なことであり、今後、彼の仕事がもっともっと評価されるべきであると思います。

 小楠の思想は簡単に言えば、一種の「共和国」主義でした。
 彼の説く共和国主義は、幕府及び列藩が結束して連合し、その中から大総督を立てて国家統一を成し遂げて行くという考えです。
 その場合、もちろん天子を否定するわけではなく、その至高の精神的権威の下で、合議規則に基づき、現実の政体によって政治運営がなされるべきであるという構想になります。
 これはいまの言葉で言えば、立憲君主制を志向するということになります。じっさい小楠は、将軍継嗣問題が起きた時に、公武合体派として一橋派に属し、和を重んじつつ、「万機公論に決すべし」の実現のために奔走しています。
 いまここに、慶応三年(一八六七年)四月、大政奉還がなされる半年前に、アメリカ留学している甥の佐平太と大平あてに送った書簡があります。幕末ぎりぎりの地点での彼の考え方を端的に示す部分がありますので、引用してみましょう。
 なお文中、「ただ集めて議論をするだけ」とあるのは、薩摩、越前二藩が、有名大名を集めて相談し諸藩の名士を召し寄せるという提案を出したことを指しています。

 《私の考えは、ただ集めて議論をするだけでは紛々とするだけで有害無益、それよりも、海軍局を建て将軍家が大総督、薩摩・越前など有名の大名が参与、さらに旗本の士や諸藩の名士を召し寄せ、上・中・下院として方針を討論するというもの。海軍のことから出発して、富国の方策に及び、外国応接から世界に乘りだし貿易という具合に全問題を包括していくわけで、これこそ日本の大政府というべきものとなるでしょう。

 しかしこれよりも数年前、条約勅許問題で江戸上層部が揺れ動いていたときには、条約締結を正当化しようとする一橋慶喜とは必ずしも意見が一致していたわけではありません。むしろ松平春嶽とともに「破約必戦論」を説いて、一見攘夷思想を唱えているかのような趣がありました。しかしよく読むと、長州激派などが主張していた攘夷論とはまったく異なる、極めて戦略的な見地からの議論であることがわかります。
 小楠は、条約をいったんご破算にして全国の諸侯を集めてもう一度会議を起こし、その結果万一破約という結論が出たならば、列強との軋轢は避けられないだろうから、一致結束して外国と闘おうと主張したのです。彼自身はもちろん開国派でしたが、民主主義的な手続きを踏むべきことを優先させたのです。彼はこのように、国内が内部分裂してしまうことを何よりも嫌いました。

 小楠は、来たるべき時代のグランドデザインを明確に描いていました。そのグランドデザインとはどのようなものだったのか、具体的に見ていきましょう。
 まず『学校問答書』(嘉永五年・一八五二年)ですが、これは、学問は世をうまく治める、つまり政治のためにあるという考えをはっきりと打ち出したものです。「学政一致」という言葉が出てきますが、その由来は、彼が儒教(聖人の教え)を教養の本体としていたところにあります。
 しかし小楠の主張はきわめてラディカル(根源的)で、現在の儒学者たちのように、政治と切り離されたところで、章句の解釈に耽っているような学校ならない方がましだと言い切ります。中国でも日本でも、名君が出ると必ず学校を興すが、そこから才能ある人物が育った例はない、と。
 彼は、現在の学問の状態を、学者は政治経済のことがわからず、政治家はわが身の修養をやめてしまった「学政不一致」の状態として嘆きます。
 小楠は、「学政一致」を真に果たすには、道理をよくわきまえた明君が、自ら一家一門のうちで講学を起こし、主君どうしで互いに戒め合う気風を確立させ、それにもとづいて政治が行われるようにすることが先決だと説いています。
 ここでは、卑賤老少を問わず集まり、お互いに批判しあって自由な議論をすることが大切であるとされます。またこの学校の講学と朝廷政事堂の講学との間に内容上の区別があってはならないとも説き、学校は朝廷の出張所のようなものだと言い切っています。ここに、小楠が、早くから藩を超越した中央集権的な国家統一のヴィジョンを抱いていたことがわかります。

 小楠は単純な開国論者ではありませんでした。
 ペリー来航と同じ年に長崎に来たロシア使節・プチャーチンとの応接に際して書かれた『夷虜応接大意』(嘉永六年・一八五三年)では、「有道の国とは交際し、無道の国とは交際しない」という原則を立てています。それに加えて、有道の国とはわが国に対してだけ言うのではなく、他国に対しても信義を守り暴行侵略のような悪行をしない国のことであるという但し書きをつけています。このあたりに彼の公平なものの見方がうかがわれます。
 もっとも、西洋諸国を有道の国と心から認めているわけではけっしてありません。後年の『沼山対話』(元治元年・一八六四年)では、西洋人も仁政を行っていると一応認めていますが、彼らも根本のところは利害の観念から出ているので、暴虐にふるまわないのも結局は自分たちのためだからだと、よく真相を見抜いています。交易を断れば必ず戦争を仕掛けてくるだろう、と。
 和親条約が結ばれてしまった安政元年(一八五四年)の吉田悌蔵宛書簡では、和戦どちらかに決めようという議論にはもはや意味がなく、臨機応変に対処すべきだと提言しています。

 《もし戦うつもりがあるのなら最初にアメリカと条約を結ぶ前に決めておくべきでしょう。アメリカと和を結んだ時点で大計を誤ってしまっているのですから、いまになって拒絶の戦争のと言い出すのは時勢を知らない者だと申さねばなりません。ここは、どの夷国に対する応接にも人を選び、道理に従って率直に話し合い、先方が少しでも無理なことを言いたてればすぐに論破し、またむこうの言い分が正しければ採用するなど、信義にもとづいて交渉するほかはありません。

 このように、小楠の精神は、道理(戦略的理性)を何よりも優先すべきだという考えに貫かれていました。つまり、相手を見くびらず、相手におもねず、いよいよとなれば戦争も辞さないだけの意志と武備を固めておいて、あくまで対等の立場で応接すべきだというのですね。これは外交の基本精神といってよいでしょう。近年の外務省に聞かせてやりたいものです。

 しかしその小楠も、日米通商条約締結後は悠長ではいられなくなります。文久二年(一八六二年)、長州を中心とした京都における激しい攘夷気運の盛り上がりを受けて幕府、列藩の議論が動揺すると、春嶽から急遽江戸に呼び寄せられて具体的な知恵の提供を迫られるのです。ここで彼はまず、以下のような基本方針を提示します(『論策 七条』)。

 《一、将軍が上洛し、歴代将軍の朝廷に対する無礼をお詫びせよ。
  一、諸大名の参勤交代を中止し、藩政の報告を行なわせるにとどめよ。
  一、諸大名の奥方を帰国させよ。
  一、外様・譜代を問わず有能な人物を選んで幕政の要路につけよ。
  一、意見の交流を自由にし、世論に従って公共の政治を行なえ。
  一、海軍を興し兵力を強くせよ。
  一、民間商人による自由貿易を中止して政府直轄の貿易を行なえ。


 二番目と三番目は、かねてからの持論で、武家の長年にわたる奢侈の風習による財政難、苛斂誅求による農民層の困窮、将軍家や諸大名への大商人のつけ込み、武士の士気の低下などに対する批判から出てきたものです。
 これはじつに良い提案で、一時聞き入れられるのですが、そのうちずるずると元に戻ってしまいます。
 また最後の提案は、当時の商業資本の不可逆的な流れからして、無理があるでしょう。ただここには、今で言えば経済的自由主義の無秩序な広がり、すなわちグローバリズムから藩(国)を守るという意思が明確に打ち出されています。
 一番は公武合体実現のために不可欠な方針ですし、四番~六番には、日本が近代化に向かうために必要な政体の改革案が正確に設計されています。
 特に、四番と五番は、後に由利公正を通して五カ条の御誓文に生かされていることは、見やすい道理でしょう。いずれにしても、当時、これからの国家についてのグランドデザインをこれだけ示すことができた頭脳は他にいなかったと思われます。

 翌文久三年(一八六三年)二月、前年起きた生麦事件に対してイギリスが突きつけてきた厳しい要求には、直ちに『献白 外交問題につき幕府へ』を書いています。この文書では、かつての鎖国政策はもう維持できないとはっきり述べています。その上で今回のイギリスの申し立てには道理があるとし、それを拒否すれば日本への国際非難が集中し、有道の国という美名が一気に失われ、しかも人心も一致せず武備も整わない現状で戦争に踏み込んだりすれば、百戦百敗で惨憺たる状況になると、尊攘激派がけしかける好戦的な空気を強く戒めています。これは小楠の本音だったでしょう。

 ところで同年三月に上洛した将軍・家茂は、攘夷の日を五月十日と約束させられてしまいます。もちろん幕府にはそんな約束を守る気はさらさらありません。小楠は福井にあって、京都の下級公家の多くが長州の尊攘激派に影響され、暴論を吐いているのを見るにしのびず、「挙藩上京、大会同」という構想を打ち出します。五月、本来の出身地である熊本の社中に宛てて次のように書いています。

 《私は福井で大議論を発し、夷人どもが大阪湾にやってくる前に春嶽公に一藩の全兵力を率いてご上京いただき、朝廷、幕府に必死の献言を将軍様、関白殿下をはじめ朝廷、幕府の首脳が列席したところで、夷人どもの主張をよく聞き、論判の上で道理に従って鎖とも開とも決めようというのです。

 この構想は福井藩内で大いに盛り上がり、すわ決死の覚悟で上洛という雰囲気にまで高まったのですが、これは残念ながら挫折します。小楠の落胆は大きかったでしょう。
 ここで小楠がひそかに考えていたのは、外国人の「論理の力」を借りて開港拒否・攘夷の時代錯誤的な決定をひっくり返そうということです。最後の「論判の上で……鎖とも開とも決めよう」というところにそれが現われています。
 事態は、慶応元年(一八六五年)にパークスがイギリス公使に着任し、武力を背景とした各国公使らの強請によって、たちまち条約勅許がなされてしまいます。「論理の力」によってではなく、「武威の力」によって。
 ここには太平の世で眠り続けてきた日本人の情けなさが象徴されており、いまの日本の状態にそのまま重ね合わせることができます。

 時計の針を少し戻しますが、小楠は、主著ともいうべき『国是三論』(万延元年・一八六〇年)を著します。
 まず開国して外国貿易を行なうことの功罪から説き起こし、それでもそうせざるを得ない事情を力説します。
 開国の必要性については、このままでは世界文明に遅れをとり、武力攻撃と植民地化の危険を免れないということであまり問題はないでしょう。大事なのは、小楠がここで挙げている貿易の弊害についてです。
 小楠はその弊害を次のように説明します。これまで自足していた日本経済が貿易によって均衡を破られ、有用なものが流出し無用なものばかり入ってくる。また、国内の消費に不足が生じて、物価が騰貴する。また、貿易の利益はごく少数者に独占されてしまう。さらに、たとえ輸出によって金銀が増えても、それが国内の有用物を補うことにはならない。
 要するに、産業基盤が脆弱な国情または部門をそのままにして自由貿易をはじめれば、その国または部門は打撃を受け一般庶民が困窮するということです。これは実際に起こったことでした。
 いまでも「自由」貿易という美名に惑わされてこれを押し進めるべきだと唱える経済学者や政治家が多いですが、二国間に相対的な強弱の関係があるとき、無原則な「自由」貿易協定は、弱いほうの国に壊滅的な打撃を与えることは理の当然です。アメリカ離脱前のTPP参加などは、その典型だったのに、これに気づいて反対論を張った論客はごく少数でした。

 このあと小楠は、まず民の生活の安定こそが先決であると説きます。民を富ませるために必要な財源をどうするのかとの問いに対しては、生産に励ませればよいと端的に答えています。余剰生産物ができればそれは外国に売りさばけばよい、と。ただし、産物の管理は藩(国と同じ)が行なう。
 これについて、小楠は、当時にしてみればたいへん新鮮なマクロ経済理論を説いています。
まず一万両相当の銀札(藩発行というお墨付きがある紙幣。「一分銀」などと印刷してあればただの紙でよい)を作り領民に無利子で貸し付け、養蚕に当らせる。できた生糸を藩政府が集め、西洋の商人に売れば一万一千両の金貨を得る。紙幣が正金に変わってしかも一千両の純益が得られる。この純益を困窮している民の救済に当て、さらに利益が上がればそれを藩の事業に充てる。正金の増加に応じてさらに紙幣を発行して生産の回転資金とする。
 この発想は、初期資本主義国家そのものの原理を解き明かしています。まず価値の源泉を人民の労働に見出しているところが的確です。
 またこの理論は、手元に準備金がなくても藩(国家)に対する信認があれば、紙幣の流通が可能(つまり生産が可能)だという考え方になっていますが、これは今日の国家の通貨発行や銀行の貸し出しにおける信用創造と同じです。
 さらに、驚くべきなのは、市場での通貨膨張(インフレーション)の気配があればそれを銀局(日銀!)が吸収し、それをもって藩財政の資金にあてればよいと言っている部分です。これは、現在なら、日銀が国債の売りオペをやって得た資金を、必要な範囲で政府に回すというのと同じです。
 小楠はまた、鎖国時代と比較して、現在では産物さえあればこれを外国に売り出すことで正金が入ってくるので、紙幣を正金に代えるのに不自由はない、したがって紙幣の発行額をそんなに気にする必要はないとも説いています。
 つまり、経済の原点は藩内(国内)の生産性向上如何にかかっているわけで、存分に紙幣を市場に流すことで、かえって殖産興業が望めると説いているわけです。彼は、それまでのような倹約主義一本槍の儒教道徳的経済論者ではなく、資本主義の精神を心得た成長論者だったのです。



 小楠は、大政奉還(慶応三年十月、一八六七年十一月)と王政復古の大号令(慶応三年十二月、一八六八年一月)とのちょうどはさまで、『大政奉還後の政局について』という献白書を松平春嶽に提出しています。重要なものを箇条書きにしてみましょう。

 ①将軍家は滞京を続け大久保忠寛(一翁)など正義の士を登用し、良心を培養する。
 ②朝廷も反省し、天下一統の人心を一新する。
 ③議事院を建て、上院は公卿と大名により、下院は広く天下の人材を登用する。
 ④四藩(*)の面々が内閣を構成する。
 ⑤勘定局を建て、さしあたり五百万両ほどの紙幣を発行する。
 ⑥参勤交代は中止、藩主の妻を帰国させる。
 ⑦海軍局を建て、十万石以上の大名から高に応じて兵士を出させる。
 ⑧これまでの貿易は日本の大損となっているので、露、英、仏、米、蘭の五国および中国の天津、定海、広東の三港に日本商館を建てる。
 ⑨内地に商社を結成し、町人・百姓でも希望者は加入させる。
 ⑩各国へ公使を派遣し、国体の改正を布告する。
 *四藩とは、福井、薩摩、土佐、尾張(または宇和島)

 これを見ていると、近代へ向かう足音が高らかに聞こえてこないでしょうか。
 特に⑤は、先に述べた信用創造の原理にもとづいていて、原資の有無を問うていないところが斬新です。
 また⑦は、徴兵制の先駆けとなるアイデアで、これも近代国家建設のために欠かせないものです。
 さらに⑧と⑨は、列強との間に対等かつ積極的に経済関係を打ち立てようとする意欲満々の策と言えます。

 智恵者・小楠は明治元年(一八六八年)四月、新政府に召喚され、参与を命じられます。多忙を極めて体を壊し、じゅうぶんに国家のために働くことが叶いませんでしたが、それでも九月からは病を押して出勤しました。
 翌明治二年一月、仕事から京都の寓居近くまで帰って来た時、尊攘激派の生き残り浪士たちに暗殺されます。享年五十九歳。まだ戊辰戦争が終わっていないころでした。


『西郷どん』への不可能な注文

2018年01月04日 00時58分49秒 | 思想



明けましておめでとうございます。

新年早々、少々ひねくれた話題を。

7日からNHK大河ドラマ『西郷どん』が始まります。
大河ドラマなどほとんど見たことはありませんが、多くの国民が視聴するメディアで西郷を取り上げるなら、ぜひ外してほしく
ないポイントがいくつかあります。

まず、彼は十一歳の時喧嘩に巻き込まれて右腕の神経を切り、刀を握れなくなりました。
軍人なので、さぞかし武勇に長けていたと思われがちですが、彼はいわゆる「武士」ではなく、味方を有利に導く方法を頭で考
えた軍略家なのです。

次に、彼は二度も島流しにあっており、鹿児島に帰った時には、すでに満36歳になっていました。
第一次長征で大活躍するまでわずか半年、薩長同盟まで二年、戊辰戦争で主役を演じるまで四年です。
幕末での彼の活動は意外に短いのです。

鳥羽伏見の戦いのきっかけを作ったのは、西郷の謀略です。
徳川慶喜の大政奉還によって倒幕の口実を失った西郷は、江戸および関東の治安を攪乱するために、同藩の益満休之助に秘策を授けています。
益満は相楽総三という有能な壮士と共に、江戸の薩摩藩邸に浪士や無頼漢を雇い入れて乱暴・狼藉をはたらかせます。
徒党を組んで富豪の家に押し入ったり、強盗・略奪・放火などを盛んに行なって、町人の間にパニックを起こさせたのです。
これは関東各地に飛び火します。
幕府打倒を名目にして無頼漢や貧農が続々と集まり協力します。

幕府は遂にたまりかね、薩摩藩邸焼き討ちの挙に出ます。
大阪で江戸からの飛報を受けた慶喜以下幕府の陣営は西郷の挑発に激怒し、それが高じて鳥羽伏見の戦いへと至るのです。
岩倉具視三条実美はすでにこの時期には、慶喜の辞官・納地の受諾回答を得ていて、上奏を待つばかりでしたから、武力討伐には反対でした。
結局戊辰戦争は、西郷の謀略に発し、その挑発にうかうかと乗った慶喜以下大阪の幕府軍、および元から薩摩藩に敵対意識を募らせていた会津・桑名両藩の血気によって引き金を引かれたと言えます。

筆者はここで、西郷を道徳的に非難しようというのではありません。
今の平時における道徳感覚からすれば、とてもほめられた話ではありませんが、事は当時の戦争です。
まずは戦いに勝つために手段に躊躇しないという、軍略家としての決断力と合理性に着目することが大事だと言いたいのです。

反面、西郷という人は、権力の座に恋々とするようなタイプではありませんでした。
明治二年、五稜郭開城後、中央政府に残留を求められますが、断って郷里に戻ります。
また後に新政府の要請で参議や陸軍大将を勤めますが、政府中枢部で意見が通らないと、さっさと辞職願を出したり、鹿児島に帰ってしまったりします。
帰ると、温泉に浸かってのんびり過ごすのです。

征韓論に関しても誤解があるようです。
西郷は征韓論者の雄であるとふつう考えられていますが、ことはそう単純ではありません。



明治三年、同藩の横山安武が、当時から盛んだった征韓論に反対して、「国がこんなに疲弊しているのに対外戦争など起こしている場合か」という意味の諌言書を太政官正院の門に貼り付けて自刃するという事件がありました。
鹿児島にあった西郷はこれに衝撃を受け、奢る新政府と人心との乖離を憂慮して、せめて薩摩出身の軍人・役人だけでも郷里に戻そうと計画します。
これを知って岩倉と大久保利通が、西郷の出仕を促すために鹿児島までやってきます。
しかし西郷はなかなかウンと言わず、弟・従道(つぐみち)の粘り強い説得で、政府改革に乘りだすことをしぶしぶ承諾するのです。

新政府に対する懐疑と批判は、『西郷南洲遺訓』四の次の文句によく現われています。

しかるに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじきなり。今と成りては、戊辰の義戦もひとえに私を営みたる姿に成り行き、天下に対して戦死者に対して面目無きぞとて、しきりに涙を催されける。

彼が中央政府の政策に関与したのは、弟の説得にしぶしぶ承諾してから明治六年九月の下野に至るまで、わずか二年八カ月ということになります。
この期間だけを見ても、彼が権力に恋々とするような意思など片鱗もなかったことがわかります。

征韓論は幕末からくすぶっていたのですが、朝鮮が維新政府の国書を拒絶したことが直接のきっかけです。
板垣退助が武力を背景とした修好条約締結(征韓論)を主張したのに対して、西郷は、武力を用いず、自分が平服で全権大使になる(遣韓大使論)ことを主張しました。
西郷案が通るのですが、明治天皇の意向で岩倉らの帰国を待つことになります。

明治六年九月、岩倉らが帰国すると、岩倉、大久保、木戸孝允は内治優先を唱え、西郷と対立します。
その結果、西郷は辞職し、続いて板垣、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平ら政府要人、さらに征韓論・遣韓大使派の軍人・政治家・官僚ら六百名が次々と辞職します(明治六年の政変)。

これは、維新政府の結束力の欠如を示すとともに、西郷の実行力に信頼を寄せる人々がいかに多かったかをも表しています。

西郷と言えば、だれしも西南戦争と結びつけますが、これにも一部に誤解があるようです。
西南戦争は、西郷が領導したのではありません



帰郷した西郷の前には、中央政府に不満を持つ血気盛んな若者が溢れていました。
これを統制する必要から有志者が西郷にはかり、私学校を創設します。
この私学校はもちろん軍事教練と結びついていましたから、結束が強まって世論を牛耳るようになり、それが戦争気運へと発展していくのです。
西郷は、若い不満分子の暴発を必死にコントロールしようとしますが、遂に抑えきれなくなり、悩みに悩んだ挙句、首領の位置に立たざるを得なくなるのです。
いかに維新政府に批判があったとしても、せっかく自分も参画した維新政府の理念を自らぶち壊すような反乱に率先して加担することを潔しとしなかったからでしょう。

こうして西郷の動きを見てくると、二つのことが言えそうです。

一つは、彼がもともと質実剛健を尊ぶ武人気質で、戦いを好むタイプではある一方、大軍人らしい寛大で鷹揚な精神の持ち主だったことです。
自らの役割に忠実で、いったん引き受けた以上は猛然と取り組みますが、それが達成されると「わがこと終われり」として、さっさと私生活を楽しむ境位に落ち着こうとします。
苦労人独特の腹の据わった態度なのです。

もう一つは、彼の心のよりどころが、あくまで郷里の薩摩にあったということです。
西南戦争は、この当時士族の反乱として中央権力を脅かした最大の戦争ですが、西郷がその首領として仕方なく押し立てられたのも、彼の中に郷土愛が深く根付いていたからこそでしょう。

西郷の心情が還帰していく共同性とは、自分が生まれてきた時からなじんできた土地と人々の生活と言葉、それらと温かい血を通わせることのできる範囲に限られていました。
それは、言葉で表すなら「社稷」(しゃしょく)と呼ぶのが最もふさわしいでしょう。

これに対して、西郷と同郷人で刎頸の友として共に倒幕のために力を尽くした大久保は「近代国家」という超越的な観念のために殉じた人でした。
明治六年以後、彼はほとんど独裁者として、その目的のために強引に邁進していきます。
大久保の目指していたのは、あくまで西洋並みの近代国家であり、その実現のためには冷酷なまでの徹底性が要請されました。
大久保はそれにふさわしい人でした。
自ら故郷を捨てて中央政権にとどまり、刎頸の友を敵とすることも厭わなかったのです。
それは必要な方向性ではありましたが、そのために払われた犠牲が数え切れないものであったことも事実です。

土地に結びついた温もりと懐かしさが保存された「社稷」と、私生活から超越し、法や制度を整備して冷厳に人民を治める「近代ナショナリズム」。
後者が前者を下位におとしめていく過程こそ、日本近代国家の形成を意味するのですが、西郷と大久保が袂を分かつ点もそこにあったと言えるでしょう。

近代ナショナリズムは、大久保以後も、この矛盾を暗部に抑え込みながら進むのですが、これからNHKで始まる『西郷どん』で、こうした近代史のねじれをうまく表現できるのかどうか。
筆者は、はなはだ疑わしいと思っています。
ただありきたりの「維新史の悲劇のヒーロー」として描かれるだけなのではないか、と。

西洋近代の帝国主義の歴史をグローバリズムの一形態と見るなら、避けられなかった日本の開国・近代化の歴史も、グローバリズムの受容と抵抗の歴史と見ることができます。
そのとき、西郷が守ろうとしたものが何であったのかを正確に読み取ることは、現在の私たちになにほどかの教訓をもたらしてくれるのではないでしょうか。

福沢諭吉は、西郷戦死の直後に筆を執って西郷を擁護した『丁丑公論』(ていちゅう
こうろん)を書きます。
その緒言で、彼は次のように宣言しています。

今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたるものにて、余輩の考えとは少しく趣を異にするところあれども、結局、その精神に至りては間然すべきものなし。》