城郭探訪

yamaziro

土田館  近江国(多賀)

2015年10月17日 | 平城

土田公民館横

 

専光寺

 

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町土田 map:http://yahoo.jp/gl05x3

現 状:集落・田畑

遺 構:曲輪

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:土田縫殿助

城 主:土田縫殿助

目標地:土田公民館・正福寺

駐車場:正福寺無料駐車城

訪城日:2015.9.27

 お城の概要

 土田館は、芹川南岸の土田集落の北方の一画にあったとされる。

 周辺は田園が広がるが、北側から集落を眺めると宅地は見事に微高地なのが判る。

集落北側の微高地は円形に張り出し、北端竹薮内には低土塁のような痕跡が残る。また集落内の路地は「くい違い」「どんつき」の城館特有の通路が雰囲気を留めている。

また、200m北は芹川、集落内は堀川(現在は用水路)、集落全体が微高地の【土塁と曲郭】城館、中央付近の食い違い路、往時が名残りが読みがえる。

堀川のはしの

集落中央付近の食い違い道路

 

集落の北部・・・北土田集落の中に【土塁と曲郭】残存

 歴 史

  「大洞弁天当国古城主名札」に、土田縫殿助の名がみえる

土田氏は近江国の出身で、

 宇多源氏の流れを汲む名門・佐々木六角氏の旗本を務め、土田氏(近江佐々木氏庶流建部氏)は代々「近江守」を称していた。

  4代目の近江守秀定の頃、文明年間(1469年~1486年)に近江国蒲生郡より東美濃木曽川河畔の土田村に移り住んだ。渡り田の大井戸渡しを支配して土田村や下畑や川原田を拓き、開墾領主として当地の土豪へと生長した。

  近江佐々木義詮の末裔が、この地来て明智氏に属して土田に築城し土田と名乗ったのが始まりである。弘治2年(1556年)3代城主土田源太夫の時に明智城が斎藤義龍の命を受けた関城主長井道利に攻められ落城時討死し土田氏の直系は絶えてしまった。

  2代城主泰久の2男勘助は母方の尾張丹羽郡小折城主生駒家広に嫡子がなかったので養子となっていたが、親重と改名し土田・小折城を領した。生駒親重は初め犬山城主織田信清に属していたが信長と信清が手切となり犬山城は落城し親重は土田城で謹慎し後信長に仕えた。4

  親重の嫡男親正は信長・秀吉に仕え、戦功を重ね天正13年赤穂6万石の大名となり15年には17万石を拝領し四国丸亀目城主となり土田城は廃城となった

 美濃・土田城は、標高181mの城山にある規模270m×100mの城。この城はあの織田信長の母、土田御前の出生地である。

中世の武士団、東山道近江

 三河伴氏の富永兼網を女婿とし、その子吉弘が頼弘の後 ... 馬杉-中井の諸氏となっており、さらに、頼男の子孫は、代々もと伴氏の庶流ないしは伴部の裔であって、善男との関係は後世の付会に過ぎないであろう。 ... 遺胤が、三河伴氏となったという伝承については前述したつた生駒親正の父親重は、右の土田氏から出て、生駒氏を継いだのである。 ... 光基の弟澄覚のの子光助は建部大夫に復し、承久の乱で京方に属したため誅殺された

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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