城郭探訪

yamaziro

村岡山城 越前国

2013年06月03日 | 平山城

一向宗の城と織豊期の城が混在

 

 

所在地:勝山市村岡町寺尾 map:http://yahoo.jp/y1gKep

目 標:村岡小学校・村岡神社

区 分:山城

標 高:301m  比高差:150m

現 状:山林

遺 構:郭・堀・堀切・畝状竪堀・土塁・碑・説明板

城 域:東西300m×南北100m 主郭30m×25m

築城期:織豊期

築城者:一向一揆衆

城 主:七山家一向宗・柴田義宣・柴田勝安(佐久間盛政弟)

訪城日:2013.6.3

勝山市役所から北北東の方向にある小高い山が御立山ともよばれる村岡山(標高 301m、周囲約2K)で、村岡山城跡である。

村岡小学校の裏手で横倉鉱泉前の村岡神社入口の大門から頂上への登り口がある。約20分ほどで山頂に着くことができる。

 頂上付近は主郭(本丸)跡、二の丸跡や空堀、堀切があり、 一向一揆が一時的に築いた山城。その後に入部した柴田義宣や勝安時代に居城として整備されたものであろう。特に主郭の東側は畝状空堀群で防御態勢を強化している。

主郭からは勝山市街地や九頭竜川から大野方面や越前平野も遠望できる。

歴 史

 この山と城が有名になったのは一向一揆と平泉寺との攻防による。

 天正2(1574)年2月、信長の朝倉攻めから1年後、一向宗の和田本覚寺などに率いられた越前一向一揆が蜂起し、朝倉氏の有力一族でありながら、最後に義景を裏切り、自刃に追い込んだ朝倉(土橋)景鏡が、家族と近臣を引き連れ逃げ込んだ平泉寺を攻撃した。

 初戦は平泉寺が撃退したものの、やがて両軍は村岡町滝波付近で膠着状態になったが、4月に入ると一揆勢は戦いを有利にすすめるために、村岡山に砦を築いて平泉寺勢と対抗しようとした。平泉寺勢は、村岡山に砦を築かれるのはいかにも不利と、土橋(朝倉)景鏡を大将として村岡山を攻撃した。

 しかし、一揆側は、逆に 暮見山がら三頭山を越えて手薄となった平泉寺に攻め込んだ。こ の時、平泉寺にはわずかな僧と稚児、従者しかおらず、空き屋同然だったため、 北谷の明王院をはじめ放火され、その火が講堂や坊舎に燃え移った。これを知った村岡山近くに布陣していた多くの平泉寺勢は急いで平泉寺へ退去しようとしたが、逆に追い討ちをかけられ敗退、結果全山が焼失し 平泉寺は滅亡した(ここから勝った山、かちやまとして勝山の地名が起こった)。

登り口、横倉鉱泉前

    

    

 しかし、翌年には越前の一向一揆は織田軍に平定され、越前の統治をまかされた柴田勝家は、一族の柴田義宣に勝山地方を支配させ、義宣は村岡山城を拠点とした。

 その義宣は一向一揆の残党のたてこもる谷城(勝山市北谷町谷)や野津又城(現野向町北野津又)を攻撃したが敗れ戦死し、そのあとは勝家養子柴田勝安(佐久間盛政弟)がここに城を構えた。

 しかし勝安は1580(天正8)年、袋田村に新しく勝山城(現市民会館の場所)を築城し、村岡山城を廃城とした。

                                         

村岡山城(勝山城)跡

 天正2年(1574年)、朝倉景鏡は一揆が大野を攻めてくるとの噂を聞き平泉寺に退いた。一揆は大阪から景鏡を誅殺するよう命じられていた。それで国中の一揆が大野郡に押し寄せ陣取った。2月28日一揆は5千騎で攻撃したが平泉寺が2千騎で反撃し一揆は退却した。
 4月14日、一揆は一夜で村岡山に堀や柵を作り陣をしいた。翌日、平泉寺はこのままでは城の構えが堅固となるので今日中に攻め追っ払ったほうがよいということになり、景鏡は反対したが寺内に5、6百人を残し軍勢8千余騎で攻めた。
 一揆軍は山の上からの攻撃なので有利に戦いを進めた。また、一揆は手薄になった平泉寺に火を放った。平泉寺の軍は急いで退去しようとしたが、一揆に追いかけられ皆死亡した。景鏡は一戦交えようと自軍を集めたがわずか50人ほどで最後まで戦ったが最後は自害し、袋田の室屋に首を取られた。
 (注)平泉寺に火を放ったのは、朝倉始末記では、一揆が本覚寺に応援を求めその兵7百騎が村岡には参戦せず直接平泉寺へ攻め寄せ院内に放火したとなっている。霊応山平泉寺再興縁起では本覚寺等の援軍と七山家の7百人が暮見山から三つ頭山を越えて平泉寺に攻め寄せたとなっている。

 

村岡山は一揆が勝利を得たことから勝山と名づけられた。
 天正3年に織田信長の北陸征伐が行われた。大野郡は美濃から進軍した、金森長近、原長頼により一揆は掃討され、原長頼は、信長から越前大野郡の3分の1、2万石を与えられ勝山城主となった。(朝倉始末記、信長公記)
原長頼は、始めは土橋城に居住、後に勝山城(村岡山城)に移った。(朝倉始末記)
山頂(301m)には本丸や二の丸の跡と内堀が残っているが原長頼が作ったものであろう。
市史には、勝山(村岡山)は甥の義宣の居城となったと書かれているが出典がなく極めて疑わしい言い伝えである。
天正5年には、義宣も一揆の残党のため討死、柴田勝安が天正8年、勝山城を袋田(現元町1丁目)に移し袋田を勝山と称したとされている。

                             

    

参考資料;長谷川博美レジュメ、越前の城、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。感謝! 

 

 


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