お城のデータ
所在地:長浜市月ヶ瀬町(東浅井郡虎姫町月ヶ瀬) map:http://yahoo.jp/Dz9oUi
区 分:平城
標 高:91m 比高差:0m
築城期:戦国期(応永年間(1394~1428)にはすでにあった)
城築城者:月ヶ瀬氏
城 主:月ヶ瀬播磨守・月ヶ瀬若狭守忠清
目標地:月ヶ瀬集落 安楽寺
駐車場:無し(路上駐車)
訪城日:2015.11.12
滋賀県中世城郭分布調査 7 頁294【月ヶ瀬城地形図】
お城の概要
月ヶ瀬城の位置は定かではないが、虎姫駅の北方に小字「城ノ内」があり、この辺りに築かれていたと推測されている。
月ヶ瀬神社で滋賀県教育委員会発行の「淡海の城」にはここが城跡としています。
しかし町内の案内図によると北陸本線のすぐ脇の田園地帯になっています。遺構は残っていないが田圃の字名が城館に関連している、月ヶ瀬神社が月瀬氏と縁があるということで月ヶ瀬集落一帯を月ヶ瀬城。
国道8号線のトンネルした道標「左亢三大師」
歴 史
築城年代は定かではない。浅井氏の家臣月ヶ瀬氏の居城で月ヶ瀬播磨守・月ヶ瀬若狭守忠清の名が知られる。
小谷城間近の虎御前山に砦を築いた信長だったが虎御前山のすぐ西に月瀬丹後守頼次(月ヶ瀬若狭守忠清の名もある)の月ヶ瀬城があり、一つ間違うと挟撃される恐れがあった。
八相山砦―東浅井郡虎姫町中野
虎御前山砦と同じ丘陵の南側を中野山とも呼び多賀貞能と蜂屋頼隆が守りについた。これで虎御前山の西にある月ヶ瀬城に対する備えが出来た。信長は次に宮部城との兵員や物資の移動がスムーズに行えるよう軍用道路の普請を命じた。道幅が3間半(約6.3メートル)距離が50町(約5.5キロ)の道で敵からの攻撃を避けるために1丈(約3メートル)の築地が設けられた。
ただ山本山城阿閉貞征が織田に寝返った事で月ヶ瀬城内で進退について議論があった。月ヶ瀬城は応永年間(1394~1428)にはすでにあった城でこの地の豪族月瀬氏の本拠であった。
浅井久政の妻女の妹が月瀬播磨守に嫁いでいたことから浅井家とは深いつながりがあった。阿閉が降参した後、頼次は長政に援軍を依頼したがもはや浅井家にはそのようなゆとりはなかった。「奮戦してのち小谷城へ合流せよ」それが命令だった。阿閉軍、織田軍に包囲された城は瞬く間に落城、命令通り頼次は城兵と小谷城へ向かった。
-----------信長公記 巻六 元亀四年 11決壊 阿閉謀叛の事
8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城(現長浜市虎姫町月ヶ瀬)へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山(現長浜市浅井町・湖北町間)に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山(現余呉町~木之本町)方面に布陣しなければならなかった。
また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。----------
『信長公記』の「刀根山合戦 刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事」の条
・・・・この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。・・・云々
月ヶ瀬神社
安楽寺
虎御前山
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、史跡ウォーカー、信長公記、淡海の城、大嶽城落城
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!