城郭探訪

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史跡 彦根藩主井伊家墓所(清凉寺墓所)

2014年08月16日 | 遺蹟

清凉寺について

 祥寿山清凉寺は、彦根城下の東佐和西麓に位置し近くには龍潭寺や大洞弁財天堂など、井伊家にゆかりの深い寺院が宇を連ねてます。

清凉 寺は、慶長7年(1602)、彦根藩初代井伊直政の死去によりそ墓所として創建されました。

「 祥寿」の山号、「清凉」の寺号は、ともに直政の院号と道号「祥寿院殿清凉泰安大居士」に由来しています。清凉寺は当初、井伊家旧領の上野国後閑(群馬県安中市)にあった曹洞宗長源寺の末寺でしが、寛永8年(1631)、二代藩主直孝が上野国箕輪(みのわ)から高僧愚明正察(ぐょうしさつ)を招いて開山とし、明暦2年(1656)正察退隠のとき本末関係を改め、同国雙林寺(そうりんじ)となりました。こ の頃には清凉寺観もほぼ整い、幾多修行僧が集って隆盛期を迎えることになり、以後 、井伊家歴代の菩提寺として法灯を継いでいくことになる。

墓所について

 清凉寺の井伊家墓所は、寺域の最も奥まった本堂裏手に位置していす。山麓を石垣で段状に整えて墓所とし、手前歴代藩主の7基を連ね、その南側と奥には正室や側室など14 基、子息や子女など35基、そして該当者不明の3基が大小連なっています。墓石の合計は59 基で、その墓石形状は、藩主7基をはじめ 基をはじめ17基が無縫塔形位牌形が 位37基、五輪塔形が3基、そして 、 舟形と宝篋印塔が各1基という内訳になります。 供養塔は、改易されて井伊直孝預かりとなった 元小田原藩主大久保忠隣(おくぼ供養塔は、改易されて井伊直孝預かりとなった 元小田原藩主大久保忠隣(おくぼただちか)のもです。

 これらの墓石は、幕末に描かた「清凉寺御廟所絵図」よると白漆喰瓦塀や柵で区画され、各墓石を御霊屋で保護さている状況が確認きます。経堂はに存在しせんが、埼玉県所沢市に移築され現存しています。

 護国殿は初代直政と2代直孝の霊を祀るため、11代直中が建立した物です。建物の痕跡は明瞭に残っていますが、建物そのものは、やはり昭和35年に福井県敦賀市栄新町の天満神社移築されています。

 井伊家は国許である彦根の清凉寺と江戸世田谷豪徳を護持し、歴代の当主以下正室・側室、子息女ら井伊こ多くがこの2箇所の墓に埋葬されました。 4代当主直興については、仏教への信仰心が篤く、永源寺南嶺慧詢深帰依しため側室ともに永源寺を墓所しており、例外なっいます。

このように墓所が大きく国許と江戸に二分されているのは、参勤交代の制度の下に国許と居住すう幕藩体の江戸に居住に二分されているのは、幕藩体下の大名あり様を明瞭に示しているとえます。また、国許に墓所が滋賀県彦根市の清凉寺を基本とする状況は、井伊家が江戸時代通じて一度の所替えもなかった故に生じた結果であり、譜代大名筆頭として幕府政治を支えた将軍家側近の井伊特性に起因するものでしょう。

 このように国史跡井伊家墓所は、江戸時代の幕藩体制や大名文化を知る上で欠くことの できない貴重資産あると言えのす。平成 20 年 3月 28 日には、滋賀県彦根市の日には、滋賀県彦根市の清凉寺、東近江市の永源寺、東京都世田谷区豪徳寺の井伊家墓所が併せて国史跡に指定されました。


参考資料:彦根市教育委員会 文化財部 文化財課

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