新道から土塁
長盛寺山門
お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島群高島町字城出)永田883-1(字城出) map:http://yahoo.jp/BV86_3
区 分:平城
現状:竹藪・宅地
築城期:室町期
築城者:永田胤信
城 主:永田刑部少輔賢家・永田左近大輔李家
遺 構:土塁、堀・廓
目標地:長盛寺
駐車城:長盛寺の隣の集落防災広場
訪城日:2015.12.23
長盛寺横の堀痕
お城の概要
集落の北面に「てらかやぶ」とよばれる一郡の竹藪がある。ここが永田城跡とされており、宅地と田地に続いている。一帯には城出という地名が残っている。
なお、高島郡高島町永田は高島市永田になっています。
上永田集落内の長盛寺周辺を字城出、その北側を「てらかやぶ」と呼ばれる一角あり竹藪に土塁が残っている。永田城はその一帯にあったものと考えられています。集落北側に新道が建設され、新道からも竹藪に土塁も確認てきる。長盛寺の南隣には水路が流れており、堀の跡と推測されます。
永田は、東を南北に北国往還(西近江路)が走り、西に進めば朽木谷へと至る交通の要衝にあります。
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「高島郡 永田城主 佐々木高島末 永田刑部少輔賢家・同 永田左近大輔李家」の名を記す。
『日本城郭体系 11』によりますと、創築者は「永田胤信」、
城の歴史は「村落の北面に「てらかやぶ」とよばれる一郡の竹藪がある。ここが永田城跡とされており、宅地と田地に続いている。一帯には城出という地名が残っている。永田城は高島郷の地頭であった佐々木高島高信の次男胤信が移り住んだのに始まる。代々永田氏は高島七頭の一員として、ここを居城としていた。
『淡海温故録』によると、永田氏は、もとは高島氏の庶流であり、応仁・文明年間(1467~0487)の頃、東近江に勢力をもち六角家近習の旗頭を勤めたとされている。代々時の屋形(大名)に忠節であり、軍功もあったが、佐馬助秀宗の代に、浅井・朝倉軍の先鋒として坂本合戦に出陣し、織田信長軍に討たれて家は滅ぼされた。(後略)」とあります。
元亀元年(1570)、織田氏と浅井・朝倉両氏との間で起こった坂本合戦で、当時の永田城主永田左馬助秀宗は、浅井・朝倉連合軍の先鋒として出撃して討ち死にし、永田氏は滅んだとされる。その後の永田城については不明である。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、日本城郭大系、淡海温故録、高島七頭とその城郭
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