城郭探訪

yamaziro

探訪 山崎山城跡(公園)  2013.3.5

2013年03月05日 | 平城

城跡付近案内図城跡付近案内図

・交通:県道2号線・山崎地区
・駐車:山崎城公園駐車場
 

現地案内板

【現地の状況】
 山崎山城は佐々木六角氏の家臣山崎氏の居城で、下街道(現在の県道2号線、通称朝鮮人街道)を見下ろす丘陵地にある。

 この辺り一帯は曽根沼が広がり、通行も不自由であったとされるが、織田信長が安土城の築城後に下街道の整備をすすめた。
 山崎山の背後は琵琶湖と荒神山、周囲は宇曽川と沼地に囲まれ、当時は下街道の監視の役割を担っていたと考えられる。

撮影:2013年3月

 

 この山崎山城は彦根市の教育委員会によって平成4年(1992)から5年(1993)にかけて発掘調査、素焼きの小皿などを多数発掘された。
 その後、2000年頃から公園化が進められ2003年に史跡公園となりましたが、整備と称した工事で山崎山城は、見るも無惨な姿に。

 

 この整備にかかった費用が、61,855,000円だったと聞いています。多額の公費をつぎ込んで、こんな整備をする必要があったのでしょうか。

 

現地説明板

現地説明板現地説明板主郭の切岸西南・・・観音寺城・箕作城・和田山城ブロガーの影が!山頂の石垣の一部

現地案内板より

 

彦根市HP 山崎城     http://www.city.hikone.shiga.jp/edu/bunkazai/document/kaisetu_pdf/22_yamazakiyama_joseki.pdf

転載・・・・山崎山城の整備について・・

整備前の山崎山城    (撮影:1999年4月)

【城郭の歴史】
 山崎氏11代当主憲家は、はじめ相模国山崎(小田原市の西、石垣山と湯本との中問)に居城していた。

 そののち頼朝の命を受け、近江国犬上郡山崎に近江の守護職佐々木氏の被官地頭として移ったとされている。

山頂の石垣山頂の石垣の一部

【城郭の概要】

所在地:彦根市里根町,清崎町
別 名 : -
築 城 : -
初城主:
山崎憲家
区 分 :平山城 
遺 構 :石垣,土塁
面 積 : -
     比高 約50m

市指定重要文化財

山崎氏の紋

(檜扇に四つ目結)

曲輪曲輪

曲輪と石垣曲輪と石垣

 

 山崎山城跡のある山崎山は、彦根市南部の湖岸近くに所在する荒神山の南東側に位置する比高50m程度の小さな独立丘陵です。
 石垣や堀切等の遺構が残る山頂からは、眼下に織田信長が岐阜から安土を経て京へ登る道として整備した「下街道」(巡礼街道)を見下ろすことができ、周囲を宇曽川が蛇行しながら緩やかに琵琶湖に注いでいます。また、遙か北方には彦根山や佐和山を、南方には安土山を望むことができます。

 
山崎山城跡の特徴
 山崎山城跡は発掘調査の結果、尾根の中央に大きな堀切を設け、その東側半分(東西約90m、南北約20m)を城域とする小規模ながら、石垣を設けた戦国期の城であることが分かりました。
 
 石垣は、西側斜面と、掘切に面した尾根のもっとも高い位置を中心に2~3段残されていました。掘切に面した高所は石垣が方形に巡っており、入口を固める桝形であったと考えられます。石垣は、いずれも自然石を粗割にした石材を横位に置き、目地が通るように積み上げ、隙間には間詰石が裏面には栗石が詰められていました。この石垣は、郭の高低差や栗石の残存状況から、本来は2.5m程度の高さであったと考えられます。
クリックすると拡大表示になります。
クリックすると拡大表示になります。堀切クリックすると拡大表示になります。
クリックすると拡大表示になります。桝形クリックすると拡大表示になります。
クリックすると拡大表示になります。石垣クリックすると拡大表示になります。 クリックすると拡大表示になります。HPの概要図と発掘現場位置
 
堀切[ほりぎり]
 堀切は、敵の侵入を防ぐため設けられた山の斜面に沿って縦に掘った空堀です。この竪堀は、約2mと比較的浅いものですが、尾根最高部の第一郭の石垣との高低差が約4mあり、少ない労力で防御力を高められるよう、この山の地形特性を最大に生かしていました。
上空から見た堀切上空から見た堀切
北側堀切の石垣検出状況北側堀切の石垣検出状況
 
石垣[いしがき]
 
石垣
石垣は、いずれも自然石を粗割にした石材を横に置き、目地が通るように積み上げて隙間には間詰石が、裏面には栗石が詰められていました。石垣は、いずれも自然石を粗割にした石材を横に置き、目地が通るように積み上げて隙間には間詰石が、裏面には栗石が詰められていました。
 
■ 枡形[ますがた]
 
枡形 尾根の最高部に位置し、方形に巡る石垣が2~3段残されています。
 この遺構は、枡のような四角い形状から、入口を守る「枡形」ではないかと考えられており、築城時には櫓が建っていた可能性もあります。
 
 
山崎源太左衛門賢家[やまざきげんたざえもんかたいえ]の動行
 
永禄 6年(1563):観音寺騒動を機に六角氏と離反し浅井氏に付く。
永禄11年(1568):観音寺城落城後、織田信長に従い姉川の合戦の先陣を務める。
天正10年(1582):甲州攻め後、安土城への帰途に山崎山城にて信長に一献進上。信長より摂津国三田、丹波国氷山で23,900石賜る。本能寺の変後、秀吉配下に入る。
 
■ 築城者と築城時期
 山崎山城に関する史料は極めて少ないため、築城者は誰なのかは正確には分かりませんが、近江守護の佐々木六角氏配下の在地領主で、永禄11年(1568)から始まった織田信長の近江侵攻に伴い信長に従った山崎氏が、信長の命により築いたと考えられます。
 
 この城は、平成6年度に本市教育委員会が行いました発掘調査により、小規模ながらも石垣を設けた城であったことが分かりました。この石垣は、安土城の石垣に類似していることから、築城時期は安土城が築かれた天正年間(1573~1592)の初期頃と推定されます。

 なお、山崎氏は、豊臣秀吉の時代には摂津の三田(現在の兵庫県三田市)に移封されており、この時期に廃城となったものと考えられ、山崎山城が城として機能していたのは、短期間であったと推測されます。
 
彦根市教育委員会文化財課
〒522-0001
滋賀県彦根市尾末町1番38号  TEL 0749-26-5833
 
 

 

山崎氏

檜扇に四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)

 山崎氏は宇多源氏の流れで、佐々木神主系の分流という。系図によれば佐々木源四郎大夫行家の子六郎憲家が佐々木を改めて山崎を称したことになっている。憲家は武芸に長じて「弓矢を取りてその名を落とさず」といわれ、源頼朝に仕えて近江国犬上郡山崎の地頭職に補せられ山崎を称した。とはいうものの、近江国犬上郡に山崎という地名はなく、滋賀県にも該当する在所はない。
 『寛政重修諸家譜』には、「相模国山崎に住し、のち近江国に赴き、犬上郡山崎の城に住し代々佐々木氏に属した」とあり、相模国山崎は鎌倉郡内山内荘山崎郷に該当するようだ。おそらく、源平合戦において源氏に属して関東に没落を余儀なくされた佐々木一族の一人として、源頼朝の旗揚げに参陣、その功によって相模国山崎に所領を得たのではなかろうか。さらに、佐々木氏発祥の地である近江国犬上郡に地頭職を得て移住、そのまま山崎を地名とし居城も山崎城と称したものと思われる。
 憲家は建永元年(1206)に死去、九代氏定まで続いたのち「数代中絶」とあって、戦国時代、右衛門尉重家があらわれる。中絶の間の山崎氏の動向は知れないが、一族は佐々木六角氏と佐々木京極氏とに分かれ、それぞれ家名を保ったようだ。犬上郡山崎城に拠った山崎氏の嫡流は佐々木六角氏に属し、『竹生島奉加帳』にも名がみえている。大永五年(1525)、六角定頼が北近江の京極氏に代わって台頭著しい浅井亮政を討つために出兵。山崎氏も六角軍の一員として出陣、右翼の八条と後詰の箕浦にその名がみえている。

山崎氏の出頭

 代々、佐々木六角氏の被官であった山崎氏に大きな転機をもたらしたのが、永禄六年(1563)、六角義治が重臣後藤父子を討った「観音寺騒動」であった。事件は主家を凌ぐ勢いをみせる後藤賢豊とその子壱岐守を排除しようとしたもので、まったくの暴挙であった。これに怒った六角家臣団の多くは、六角氏を見限ってそれぞれ自分の居城へと立て籠もった。後藤氏と姻戚関係にあった山崎片家も山崎城に帰って籠城した。この一件で六角氏は勢力を大きく後退させ、永禄十一年、織田信長の上洛軍を迎えうつのである。六角氏のライバル江北の浅井氏は信長と同盟関係にあり、山崎片家も信長に属して六角氏攻めに加わった。
 以後、片家は信長に従い、天正三年(1575)、長篠の合戦に出陣、つづいて越前国一向一揆攻めに参加、翌年には大坂一向一揆攻めに大活躍を示した。天正五年、羽柴秀吉が中国攻めに出陣すると片家も与力として播磨に在陣、翌年、荒木村重が摂津有岡城に籠って信長に叛旗を翻すと討伐軍に加わって奮戦した。さらに九年には伊賀征伐に出陣、戦功をあらわした。八方に敵をかかえて苦闘する信長軍の一員として、片家は各地を転戦したのである。
 天正十年六月、明智光秀の謀反によって織田信長が京本能寺で横死した。そのとき、片家は安土城の二の丸を守備、嫡男の家盛が居城山崎城を守っていた。ちなみに、安土城本丸を守っていたのは蒲生氏郷の父賢秀であった。片家は一時的に明智光秀に属したが、ほどなく秀吉にくら替えし、山崎の合戦後、犬上郡山崎の地を安堵された。しかし、山崎城は兵火に罹り、系図など多くの伝来文書を失った。同年末、摂津国有馬郡三田二万三千石へ転封となり、豊臣大名の一員に列なった。
 山崎の合戦で明智光秀を討った秀吉は、つづいて柴田勝家を破り、信長の後継者として天下人への道を歩き出した。片家は秀吉に属して小牧・長久手の戦いに出陣、続く九州征伐、小田原の役と秀吉の天下統一戦争に従軍、着実に豊臣政権における地歩を固めていった。
 片家の嫡男家盛も父とともに信長・秀吉に仕え、片家の死後、家督を許され三田城主となり従五位下左馬允に叙せられた。文禄元年(1592)の秀吉の朝鮮出兵に際しては、対馬の守護を任され海峡往来の兵站を受け持った。さらに、肥前名護屋城西ノ丸の警護も命じられるた。翌々年、京都に戻って伏見城の築城に携わるなど、秀吉からの信頼もあつかった。その子定勝(弟で養子か?)も秀吉馬廻りとなり、文禄の役には父に従って名護屋城に駐留、伏見城の築城も父と同様に工事を分担するなど活躍、伊勢国八知竹原一万石の大名に取り立てられた。

近世に生き残る

 秀吉の没後、豊臣政権は徳川家康と石田三成との対立が表面化、ついに慶長五年(1600)、関ヶ原の役が起こった。ときに三田にいた家盛父子は下野小山に陣する徳川家康に石田三成の「謀反」を連絡したが、三成からの催促を拒みきれず西軍方として行動した。そして、家盛は丹後田辺城攻め、子定勝は伊勢安濃津城攻めに加わったのである。戦いは西軍敗北に終わり、本来なら改易処分となるべきところであったが、池田輝政との姻戚関係をもって許され、家盛は三田二万三千石を安堵された。さらに、七千石の加増を受けて因幡国若狭に移封された。一方、改易となった定勝は豊臣秀頼に仕え、大坂城の役の前に死去したようだ。
 家盛のあと家督を継いだ家治は、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣に徳川方として出陣、活躍した。元和三年(1617)、大坂の陣の功によって、因幡国若桜から備中国成羽三万五千石に加増転封され、新田開発などに尽力している。以後、福島正則が改易されたのちの備後三原城の守備、大坂城築城工事における石垣工事を担当するなど幕府からあつい信頼をかちえた。そして、その手腕をかわれて寛永十六年(1639)には肥後天草四万石への加増転封を受け、島原の乱で荒廃した天草地方の復興に功績をあげた。それらの功によって、同十八年には讃岐国丸亀五万三千石に加増転封された。家治は丸亀城の築城に着手すると城下町の経営・整備を行ない、今日の丸亀の基礎を築いたのである。
 家治の死後、嫡男俊家が家督を継ぎ丸亀藩主となった。俊家が三十代の若桜で死去すると、わずか三歳の嫡男治頼が家督を継ぎ、叔父豊治が後見人となった。ところが、治頼は八歳で病死、嗣子もなかったため山崎氏は無嗣断絶、改易処分となった。かくして、山崎氏は大名としての地位を失ったが、豊治が備中国川上郡成羽五千石を与えられ、山崎氏の血脈を後世に伝えたのであった。

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


最新の画像もっと見る