城郭探訪

yamaziro

馬杉本城 近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月06日 | 丘陵城

西側虎口縄張り概要図(甲賀の城より)尾根を遮断する大堀切

お城のデータ

所在地:滋賀県甲賀市甲南町上馬杉小字城出    maphttp://yahoo.jp/-HahQK 

区 分:丘城

遺  構 : 土塁、堀切、虎口

築城期:室町期

築城者:馬杉丹後守

廃 城:織豊期(元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる)

城 主:馬杉丹後守

標 高:240m   比高差:30m

目標地:油日神社・誓蓮寺・上馬杉草ノ根ハウス

駐車場:上馬杉草ノ根ハウス

訪城日:2015.5.5

馬杉本城(遠景)西の通路は誓蓮寺から城山を見たとき案内が設置されている。上馬杉草ノ根ハウスから東南(馬杉城の東)

東側にも山の墓地・城跡の入る道がある。

お城の概要

  馬杉本城は北へ張り出した尾根の先端頂部に築かれている。 主郭は北東側を除き土塁が巡り、南背後の尾根には三重堀切を設けて遮断している。 土塁の西側中央に虎口、北にも通路がある。北の通路は土塁の間を屈折して降りており、腰曲輪を経て西の麓に通じる。

 上馬杉のうち、南の丘陵から上馬杉集落の中央へ張り出した独立丘状の尾根先端部に築かれている。
北東面を除き土塁に囲繞された主郭は、東西約25m、南北約30mあり、馬杉地区内の城跡としては最大規模とされる。

 虎口は、北面と西面に開口しているが、北虎口の東側土塁は近年に削り取られ消失している。通路は、西側斜面を下り、北腰郭を経て西麓に通じている。西虎口は西側の小さな帯郭の段列に通じ、さらに西下にある西腰郭を見下ろす位置にある。南面の土塁は、巾が広く見張り台の役割を果たしたと見られている。

 尾根続きの南背後は鞍部となるが、その手前に小さな二重の堀切、さらに手前に巨大な堀切を設けて厳重に遮断している。また、巨大堀切の堀底西端には小さな土塁を設け武者隠しとし、北西下方の帯郭を睨んでいる。
馬杉氏の本城だけあって堅固な防御を誇る遺構が残されている。

主曲輪は南北30m東西40mで、丘陵の先端を三重の堀切で区切り、東・南・西の三方を土塁で防御していた。 虎口は、西に開きその下方には副郭が、更に小さい谷を挟んで別な曲輪が、という風に「さすが本城」との感じを持った。

東から登城

城背後大土塁

大堀切で遮断

東側の曲郭

歴 史

馬杉本城・・・・は、『甲賀郡志』に「六角氏白旗隊馬杉丹後守の築く所にして、元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる。」と記されている。また、馬杉氏の本拠と伝承されている。

馬杉(椙)氏は近江国甲賀郡の土豪で、馬杉丹後守は六角氏に仕え、元亀年間に衰亡しました(「甲賀郡志」下巻第17編第35節)。

馬椙秀昌は馬杉氏の一族と考えられます。

 伊賀・甲賀衆は託された本来迎図を何処へ持っていったのでしょうか。それは不明ですが伊賀
・伊勢国で皇室と深い関係をもつ寺院に持ち込まれた可能性が大です。

何故ならば本来迎図は比叡山安楽谷の勅封蔵に保管されていた旨の本図裏書の記述があります。また甲賀衆の山中氏は鈴鹿盗賊追捕使に補任され、伊勢神宮柏木御厨(近江)の保司職を得た。

 時代をさかのぼれば建武年間山中氏惣領実秀は伊勢に移住(「山中文書」二のル「水口町志」下巻史料編)しており、山中氏は伊勢にも所領などの勢力基盤をもっていたことを示しています。

東側から遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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