城郭探訪

yamaziro

吉御子(よしみこ)神社遺構 近江国(石部)

2016年03月19日 | 平山城

お城のデータ

所在地:滋賀県湖南市(旧甲賀郡石部)石部西一丁目  map:http://yahoo.jp/HliH-l

目 標:吉御子神社

区 分:山城

現 状:山林

標高:167m  比高差:37m

遺 構:土塁・土壇・堀

築城期:室町期

築城者:青木氏の詰め城か?

目標地:吉御子神社、石部茶屋、(旧東街道沿い)JR石部駅

駐車場:吉御子神社駐車場

訪城日:2016.1.31

お城の概要

吉御子神社遺構は、吉御子神社の背後の山上にある青木氏の詰め城と推測する。青木氏館から僅か300mの位置し、比高差:37mながら西背後は自然河川で要害。

石部三郷を支配していた青木四家の共有し、東海道の東側の物見や詰め城に活用していた。

お城の歴史

 吉御子神社は奈良時代後期、崇徳天皇の頃に開山された古社。茂った木々に囲まれた本殿は、1865年京都上賀茂神社から移築された江戸時代の建築物で、大正10年に国の重要文化財に指定されています。社宝の吉彦命坐像は藤原時代に作られたもので、厄除け、安産、交通安全の守護神とされています。

 真明寺は、当地の有力武士青木氏を外護者として、慶長二年(1597)に建立された。山号を青木山という。

 当寺の住職俊応が貞享二年(1685)に記した『古過去帳』には「一、真明寺者青木岩崎殿子息青木検校殿之持院也、干時慶長二丁酉年、開基沙門嶺誉蓮幸大徳、一、境内者青木岩崎殿之城跡也、東西二十六間、南北三十二間、歩数合二反七畝二十二歩」と出ている。『甲賀郡志』によれば、『西福寺記録』に慶長二丁酉年建立、大旦那青木検校、青木山真明寺」と出ているという。

 青木岩崎は石部三郷を支配していた青木四家のひとつである。永禄三年(1560)九月一日付の算用状には「青木岩崎左衛門尉」の名が見えている。青木検校の検校とは、彼の場合盲人の官職を指す称ではなく、寺務を監督する職掌としてのそれであり、蓮幸を開基として創設した持庵を旦那として管理していたので青木検校といわれたのであろう。ではその名をなんといったのであろうか

石部三郷 

五重三家の一家である青木氏が支配した石部三郷とは、石部・西寺・東寺の三郷をさす。この三郷については、石部三郷名主中と檜物下荘名主百姓中との用水相論があり、その解決のために、先述した甲賀郡中惣の調停がうかがえるのである。なお用水相論の詳細については、第三節に譲るが、ここでは郡中惣と石部三郷のかかわりについて、述べておきたい。

 郡中惣による裁定は、惣の性格を知る上でも重要な事柄である。なかでも石部三郷の仲裁裁定は、当地域の支配者である青木氏の手にようるものではなく、先述の柏木三家と呼ばれる山中・伴・美濃部の三氏によってなされている。一連の経緯は、『山中文書』に詳述されているが、要約すると次のようなことがうかがえる。

  郡中惣の山中・伴・美濃部三氏が檜物下荘名主百姓に宛てた文書などによると、永禄の初めごろから用水相論がなされていたが、同八年(1565)には、終結を迎えたようで、和解の成立が知られる。具体的には、裁定の結果として、条件や裁定が示されており、それが相当厳しいことから、一連の相論がいかに激しいものであったかを物語っている。例えば制裁の一方法に放火があげられており、名主は二階門もしくは、内門百姓は本人から年齢順に家三十軒と決定されている。家屋放火の制裁は当事者にとって、大きな財産を失うことに等しく、極めて厳しいものであったと思われる。さらにこの相論中に、岩根衆が討死したことが知られており、なおさら和解に向けて、石部三郷と檜物下荘の両者があゆみ寄らねばならなかったことがうかがえる。また、山中・伴・美濃部三氏の仲裁を認めたうえで、「八郷高野惣」も、この裁定に参与しているのである(『甲賀郡志』所収、山本文書永禄八年七月二日)。八郷高野惣の連名には、「身寄中・柑子袋衆・夏見衆・岩根衆」の名前がみられ、先に述べた岩根衆の討死の一件と合わせて、かなりの数の郡中惣の仲裁が必要であったことが知られるのである。

  ともあれ、以上みてきた用水相論は、当事者同士で解決できなかった難題に、郡中惣が仲裁した点において、いかに惣の自治が確立していたかを物語っている。また一方で、彼ら各惣が石部三郷・檜物下荘の在地に発言力を有する足がかりを作ったことも考えられる。なお石部三郷に限っては、当地を支配していた青木氏との関係については、残念ながら今ひとつよくわからないが、同氏にかかわる問題点については、次節に譲りたい。

伊勢路と城館 

伊勢路として利用された古代の東海道は、近江・伊賀・伊勢・大和を結ぶ重要な交通路であった。このため、たびたび戦乱の中に登場することになる。また、軍事上の拠点として多くの城館も築かれた。

 現在知られる甲賀郡の中世城館の位置をみると、野洲川と伊勢路を見おろす丘陵上に多くの城館が築かれている。特に杣川上流部に集中してみられ、(『滋賀県中世城郭分布調査1』)、奈良との結びつきが強かったものと思われる。

 石部平野の北の入り口にあたる甲賀郡と野洲郡の境界付近は野洲川が通る狭隘部をなしている。このためそこを通過する伊勢路を容易に封鎖することができるので、軍事上重要な位置にあった。応仁の乱の際、六角勢掃討の先鋒を務めた浦上則宗が東寺の長寿寺に在陣しているが、これも伊勢路や金勝寺に至る道、ひいては甲賀郡、栗太郡東部を容易に扼することのできる重要地点であったからである。

 また、石部の中世城館である、石部城、青木城および服部氏館すべては、中位段丘面に立地し、伊勢路を見おろす位置をしめている。

 これら中世城館の形態を推察させるものとして、永禄元年(1558)以降に石部三郷と檜物下庄が水論に及んだ際の「今度石部三郷と井水之儀付異見申條々」(『山中文書』)がある。この文書には二階門(外門)・内門などをもった砦や在家への放火に関する文言がみられる。当時この地方には二階門・内門などに囲まれた城館が点在していたとことが知られる。石部三城は、このような形態のものであったと思われる。


 吉川代官と家康の本陣

 戦乱の続いた中世であったが、ようやく豊臣秀吉の天下統一によって国内も安定してきた。石部宿の成立については、「吉御子神社由緒書」に元亀二年(1571)に町として成立したことが述べられているが、詳細は不明である。

 豊臣政権化では、天正十一年(1583)に石部は浅野長政領となった。天正十八年には徳川氏の支配となり、吉川半兵衛が代官として石部に屋敷を構えた。翌十九年に徳川家康は吉川邸の改造を命じ本陣とした。このことは、石部が重要な宿駅としての機能と甲賀郡の徳川支配の中心的役割の両者の性格をもっていたことを示していよう。

 徳川家康はたびたび石部に宿泊している。文禄元年(1592)二月十五日、同年七月二十三日、慶長五年(1600)六月十八日などが記録に残る。しかし、先の本陣は徳川氏専用のものであり、後世における参勤交代にみられる本陣とは性格を異にしていた。

 また、豊臣秀吉は、文禄三年正月、京より清州までの間に駅制を施行した。さらに慶長二年(1597)五月には、長野善光寺の仏がんを京都大仏に遷す時、石部・坂田・栗太の四郡に領地をもつ土豪であった。また、この時の役夫・伝馬は、近江では土山・石部・草津に課せられている。

 慶長六年(1601)家康は大久保長安、彦坂元正らに東海道を巡視させ、伝馬制度を定めた。この時、各宿に「伝馬定」が出され、ここに本格的な完成するに至った。この年石部では、一里塚の設置・同路の拡張・徳川氏専用の宿泊施設である「石部御殿」などが設けられたようである。徳川氏の甲賀郡における領地支配の拠点として、代官吉川半兵衛が屋敷を構えた石部は、徳川氏の庇護を受け、徐々に宿駅の機能をととのえ、1500年代後半には近世の石部宿の骨格をもつに至った。

遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、中世の石部

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