城郭探訪

yamaziro

須川城 近江国(山東)

2015年04月03日 | 平城

 城跡碑

須川城 

観音堂の南側に土塁

遠藤直経の墓 城主だった遠藤氏のお墓もあり、

お城のデータ

所在地:米原市須川(旧山東町須川) map:http://yahoo.jp/HwOuT9

区 分:平城

遺 構:土塁、城跡碑、遠藤氏の宝塔墓・説明板

現 状:観音堂

築城期:織豊期(元亀元年(1570)頃)

築城者:遠藤主膳・

城 主:遠藤主膳・遠藤喜右衛門直経

目標地:須川集会所・観音堂

駐車場:公民館横に路上駐車

訪城日:2015.4.2

須川集会所 県道551号沿いの石碑(遠藤直経のゆかりの地)

お城の概要

浅井長政の重臣遠藤直経の居城。

須川集会所の横に「観音堂」があり、ここが城跡。

観音堂に向かって左手に説明板があり、池の前に石碑があ。

城主だった遠藤氏のお墓もあり、池は堀跡。

小谷城下の遠藤屋敷址(小谷城・清水谷)

  早くから織田信長の底知れぬ才能を見抜き、永禄11年(1568年)、まだ浅井家と織田家が同盟関係にあった時、近江佐和山城を訪れた信長の接待役を命じられていた直経は信長暗殺計画を長政に進言した。しかし、長政は信義に反するとしてそれを受け入れず直経も主君の命に背くわけにはいかず、結局暗殺計画は未遂に終わる。

遠藤直経の戦場墓碑:元亀元年、遠藤直経は姉川の合戦で岩手城主竹中重治の弟重矩に討たれた。

 歴 史

 江州佐々木南北諸士帳に、坂田郡須川住 浅井随兵 遠藤主膳・遠藤加右衛門とある。

 遠藤氏は、近江小谷城主浅井氏の重臣で須川一帯を領し、小谷にも居館を構えていた。 戦国時代の元亀元年、城主遠藤直経は姉川の合戦で岩手城主竹中重治の弟重矩に討たれた。信長の心胆を寒からしめた豪勇・遠藤喜右衛門直経の居城。

観音堂を含め小字村の内、現集落の大部分を包括する地域であったとされるが、現在は堀池と若干の古い石垣を残す。

 遠藤氏は、鎌倉武士の出身といわれ、鎌倉時代に近江に所領を得て下向したとされている。代々須川山一帯を治め、須川城を居城とした。同じ浅井家家臣の赤尾氏などと同様、浅井氏が京極氏の被官であった頃以来の譜代の家臣である。 小谷城下の清水谷に居館を持つ事を許されており、直経自身は子に居城を任せて館に在番していた。直経は浅井長政の傅役的存在で、長政が幼い頃から相談役を務めてきた。そのため長政からの信頼が厚く、長政が六角氏攻めを決意するに当たり相談をしたのが遠藤直経と浅井玄蕃だった。

朝倉氏と織田氏との関係が悪化すると朝倉との旧縁を重んじるべきか、織田との婚姻関係を重んじるべきかの決断を迫られていた際、直経は織田側につくべきであると強硬に主張した。これには朝倉家当主の朝倉義景の優柔不断な対応に直経が愛想を尽かしていたことに加え、浅井側の重臣として信長と接するうちに信長の内政外交の手腕を高く評価するようになったという事情があった。

また、御鍬山から東一帯の尾根上および南須川山山頂には、遠藤氏構築と思われる須川砦跡が遺されている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia

       今日も訪問、ありがとうございました。


最新の画像もっと見る