城郭探訪

yamaziro

尾上城 近江国(湖北)

2013年09月01日 | 平城

尾上城があったとされる東尾上(推定地)

お城のデータ 

所在地:長浜市湖北町尾上 (旧東浅井郡湖北町東尾上)      map:

現 状:漁港・神社・集落

遺 構:

区 分:平城

築城期:文治・建久年間(1185~99)

築城者:浅見実勝

城 主:浅見実勝

目標地:小江神社

駐車場:小江神社の参拝者用無料駐車場

訪城日:2013.9.1

  

お城の概要

 尾上城は東尾上の漁業組合付近にあったと考えられているが、遺構もなく定かではない。城の一部と思われる石垣の一部が尾上漁港近くで発見されたとも聞くが・・・・・・・。

 竹本政一,吉田勝著の「近江尾上城」によると、"城域は現在の小江神社の西北隣地から湖岸に至る地域にして、今もその地に的場と呼ぶ地区がある。西方は湖中にも至っており、今の尾上漁港の湛浦内にも及んでいた"としている。

 尾上城のあった場所は詳らかではないが、近世の有力者であった「滝本藤太夫」の屋敷付近が尾上城の跡だと云われている。小江神社の西側一帯で、かつて礎石が十二個並び、「十二石」あるいは「城ヶ石」と呼ばれていた。

両側道路に埋めたらた堀(旧尾上港)

琴平神社 尾上学校跡碑(琴平神社内)

歴 史

戦国期に一時湖北の国人の盟主となった浅見氏の居城。城跡は遺構を地表にとどめないが、近世の有力者であった「滝本藤太夫」の屋敷跡付近がその跡地といわれ、小江神社の西には「十二石」または「城ヶ石」と呼ばれる、礎石と思われる石12個が並んでいたという。この他に、現在漁業会館の建つ付近は「久六瀬」と呼ばれる浅瀬だったが、会館建設の際には地下20cm程の所に石垣が並び、土器などが出土した。

尾上城が歴史上に登場するのが、大永3年(浅井三代記では永正14年)、京極氏第5代当主京極高清の跡目相続について浅井郡野瀬村の大吉寺でおこなわれた梅本坊公事以後のことである。

 梅本坊公事に端を発した京極氏の内訌は、浅井亮政,三田村忠政,今井秀信等の推す京極家長男・高延一派と、高慶を推す上坂信光,下坂秀隆等の一派が争った。

 浅井亮政等は尾上城を拠点として、上坂信光の居城・上坂城と今浜城(現在の長浜城)を攻め落とした。

元亀4年(1573)山本山城の城主・阿閉貞征が織田信長に降ったことで小谷城は孤立し、浅井氏は滅亡の一因となった。

 その後、阿閉貞征は秀吉の与力となり、山本山城と伊香郡内の本領を安堵されたが、天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を攻めた。しかし、山崎の合戦で光秀を破った秀吉に追討され一族全て殺され、尾上城は山本山城と共に廃城となった。

 以下、竹本政一,吉田勝著の「近江 尾上城」の抜粋。
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 尾上城は琵琶湖湖上交通の監視と "浅井ノ小江" (尾上湊)での関銭取り立てと、山本山城外郭の守備のための構築されたものであると伝える。

 治承4年(1180)山本左兵衛尉義経が山本山城を築城した時、同時期に尾上城も築かれたという説。
 あるいは文治・建久年間(1185~99)江州浅井郡朝日郷の地頭職を領して、この地に入った斉藤(朝日)氏が浅見実勝なる者を代官として尾上に住まわせ、尾上城を築かせたともいう。

文治年間(1185年~1190年)に浅見実勝によって築かれたと云われる。

浅見氏は湖北の有力国人となったが、浅見俊孝のとき浅井亮政によって攻められ高島新庄へ退いたと云われる。

 小江神社(尾上神社) 尾上城があったとされる県道尾上

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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