城郭探訪

yamaziro

行市山砦 近江国(余呉)

2015年11月29日 | 陣城

 

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町小谷(旧伊香郡余呉町小谷) map:http://yahoo.jp/EHj390

区 分 :山城(砦)

築城者:東野行一

砦 期:織豊期(天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦時の佐久間盛政の陣)

陣 主:佐久間盛政

遺 構 :堀切,曲輪

標 高:645m 比高差:200m(別所山砦より)

城 域:南北約44.16m×東西約17.3m

目標値:行市山頂

訪城日:2015.11.28

お城の概要

行市山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦時に柴田勝家軍の佐久間盛政が陣を構えた所で、勝家の本陣である玄蕃尾城からは直線距離にして約5km。
行市山に砦を構えたのは京極・浅井時代に、東野行一(行市)とされており、京極・浅井氏がここに砦を構えた理由は、現地に立ってみると頷ける。

 行市山からは余呉町,木之本町を走る北国街道が手に取るように判るが、660mの高所で、東野行一が砦を構えた当時は監視目的ではないか!

 遺構は別所山砦からの尾根筋に堀切が2本と山頂の曲輪跡が残っている。土塁なども残っているようではあるが、クマ笹が生い茂り確認出来ない。

行市山砦は、行市山山頂(標高659.7m)から南へ派生した尾根の先端付近に築かれている。

この日は、雲の中(霧の中)、砦のクマ笹で全体確認できず、登山道からの堀・土塁の確認のみ!!

 単郭の小さな砦で、周囲を土塁が巡り南に虎口を開く。虎口は内側を遮断する土塁の外側に堀を設け、その外側にさらに土塁を回しているが、現状薮化しており全く地形が把握できない。北尾根は堀切によって遮断している。

 

堀から土塁へ

1970年の踏査・測量(長谷川銀蔵・博美氏)の写真(提供:長谷川博美氏)

 

行市山頂で「賤ヶ岳合戦 七本屋弁当 

行市山頂(三角点)横に【佐久間玄蕃盛政の砦】の標柱・・・砦は南西15m下

比高差:200mも雨・霧の中軍道を登ったが、「賤ヶ岳弁当」を雨の降る中食べただけ!

雨・霧で、景色は見えない!砦の全体の確認もクマ笹で掴めない!

 

小雨で霧(幸い風がないので)・・・行市山砦・別所山砦にを戻

道案内

  • 余呉町新堂にある毛受兄弟墓より整備された登山道がある。登山道入口から中谷山砦、橡谷山砦、別所山砦を散策しながら登って約2時間30分。
  • 林道池原小谷線で標高約402mまで車で上がれる。
  • ここから登山道で別所山砦(標高約448m)を経て約45分で行市山山頂に着く。
  • その間の木之本町,余呉町の眺望は素晴らしい。

林道を402mまで、研修会車で

歴 史

東野氏の祖とも伝えられる東野行一(行市)が砦を築いていたとも伝えられ、行市山の名はこの行市から云われるが詳らかではない。

天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家方の砦として築かれた。 城将は佐久間盛政であった。

天正11年(1583)、余呉湖周辺に布陣した柴田勝家軍と羽柴秀吉軍は2月初旬から4月までの2ヶ月間に及ぶ対陣が続いた。
 4月にはいり、木之本地蔵(浄信寺)に本陣を置いていた秀吉は岐阜城の織田信孝を攻撃。この隙を狙って行市山の佐久間盛政は4月20日に大岩山砦を急襲、大岩山砦に布陣していた秀吉配下の中川清秀は自刃。
 「柴田軍動く」との知らせを聞いた秀吉は、意表を突く早さで大垣から引き返し、大岩山砦の佐久間盛政に反撃を開始。

 この佐久間盛政の大岩山砦の攻撃に端を発して戦局は動き、前田利家の離反もあって柴田軍は敗走、北庄城に逃れた勝家も4月24日に北庄城の落城と共に自刃して、賤ヶ岳の戦いは秀吉軍の勝利に終わった。

 佐久間盛政は賎ヶ岳合戦のとき加賀国尾山城主であった。秀吉が賤ヶ岳の陣を抜けだして美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいったとき、盛政は秀吉方の大岩山砦と岩崎山砦を急襲して攻め落とし、中川清秀を討ち取った。さらに賎ヶ岳砦を攻め取ろうとしたが、丹羽長秀の援軍もあって攻め落とせず、急を聞きつけて秀吉の大軍が美濃から戻ると逆に攻め立てられた。そのうち勝家方であった前田利家・利長父子が戦線を離脱して越前へ引き上げると均衡が破れ、勝家方は総崩れとなり、佐久間盛政は加賀へ引き上げる途中に捕縛され斬首となった。


 賤ヶ岳の戦いで、なぜ佐久間盛政が秀吉軍・桑山重晴等が布陣する賤ヶ岳砦を迂回して、大岩山砦を攻撃したのか、その経緯が太閤記の1節「山路将監進中入欲遂宿意企之事」に書かれている。 ただ、太閤記というのは秀吉が天下を取ってから書かれたもので、あくまでも「勝利者・秀吉」からみた賤ヶ岳の戦いである。


---------------- 山路将監進中入欲遂宿意企之事
「同十九日之早朝に、将監佐久間玄蕃允に云やうは、羽柴筑前守一昨日濃州至って発向せしむる由候。
 其意趣は三七殿今度勝家を救はんと思召、秀吉に対し敵之色を立させられ、氏家稲葉が分領放火し給ふに依て信孝を退治せんとの儀なりとかや、然ば信孝御心ざしの程を救ひ給はでは、叶わざる叶はざる事にておはさんか。
 いかゞ思ひ給ふぞやと云ければ、尤助成申度事は飛立計なりと云ども、大山を隔て、大敵其間にあれば、了簡及不事共なり。
何とぞ救ひ奉らん行(てだて)もあらば承度こそ候へと云し時、山路さゝやきけるは、上方より北国勢をおさへ置し取出共の普請は、何も丈夫におはしまし候。余語之海の外なる、中川瀬兵衛尉が有し要害は、多くの取出之城共を隔て、敵あひの遠さを頼みとし、普請請以下かた計にこしらへ候しなり。
 是をうたんなどとは、上方勢思ひもよらざる所に候。然ば不意討に同じ。不意討に利のなき事は稀なる事に候。秀吉卿濃州出勢は折を得たる幸候。いざさせ給へと、ありあり重ねてすめければ、玄蕃いとど進みたき折ふしなれば、即同心し、さらば取出之城々おさへの勢を、勝家へ間奉り定めんとて、同日午刻匠作之陣所へ玄蕃久右衛門兄弟同参して、其旨相議あり。運のつきなん験しかや。

 勝家もいかゞあらんと思惟に及不、行の事共を聞届、宜しがらんと同じ給へり。西の方二ケ所の城のおさへには、前田又左衛門尉利家子息孫四郎利長、志津嶽の押へには原彦次郎、安井左近大夫、堀久太郎取手をば勝家おさへおくべき之条、心安く働き候へ。帰陣には海道を直に退候へ。必宿陣すべからず。今日中に引取候べしとて、廿日之早朝に蝦乞有しが、是ぞ最期の暇乞とは成にける。先陣は不破彦三、徳山五兵衛尉、佐久間久右衛門尉、大将は玄蕃允都合其勢一万余騎余語之入海をつたひ山路たどりたどり急しかば、・・・・・
----------------ココマデ

山路将監:天神山砦に布陣していた山路正国、佐久間玄蕃允:佐久間盛政

 

賤ヶ岳合戦

 ようやく春がきた1583年2月末(新暦4月)勝家軍は越前をでる。

 府中(現武生市)城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣、勝家も3月9日に北庄をでた。利長ら先発隊は、勝家が近江からのメーン道路として整備した、今庄から現在の北国街道(国道365号線)を通り近江に出る栃木峠から椿坂へ下る道を通ったと見られる。しかしこの年はまだ雪が多く、かき分けながらの道中に苦労したことから、後発隊は木の芽峠から敦賀を通って県境の柳ケ瀬に出る道を通りほぼ同時に着いたと言われる。

 先発隊はいったん木之本まで進出し、周辺や北国街道沿い、さらには関ヶ原まで進出してに火を放った。その後羽柴勢が前進基地の砦を置いた天神山を囲むため戻り、結局余呉湖の北側、北国街道の西側の山々に陣を敷いた。

 柴田の近江侵入を聞き秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせる。佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出。弟秀長が木之本に近い田上山に羽柴秀長、さらに柳ケ瀬に近い中ノ郷を見下ろす左祢山に掘秀政を置き、北国街道の東側を押さえた。木之本北側の賤ヶ岳、余呉湖に中川清秀、高山右近らの兵を置き、余呉湖の北の天神山に木村隼人正の陣を置いた。

 

 ~前田利家の背反~

 佐久間盛政の深追いによって佐久間(鬼の玄蕃)隊が賤ヶ岳に破れ、本陣(行市山)へ戻るところ、もしくは、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

 それは、佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
また、塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

 この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

 この前田隊の退却は、佐久間隊からは後陣の崩れに見え、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城郭フォーラム資料、前田利家と賤ヶ岳の戦い、近江の城郭

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


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