城郭探訪

yamaziro

宇賀野・長野家 近江国(近江)

2015年10月18日 | 平城

お城のデータ

住所:米原市(旧:坂田郡近江町)宇賀野 map:http://yahoo.jp/QznBDo

区 分:平城

現 状:宅地

遺 構:碑・(説明板)

築城期:室町期

築城者:長野家

目標地:宇賀野会館

駐車場:宇賀野会館

訪問日:2015.10.3

お城の概要

宇賀野氏館は北陸本線沿いの宇賀野会館一帯にあったとされます。会館の西側の路地を北に進むと長野家がありました。(数年前に取り壊されようです)

さらに長野家から北西へ600mほどのところに山内一豊の母である法秀院の墓がある。

  

取り壊された長野家

お城の歴史

長野家は在原業平の後裔とされ、御所や公卿に関連する職務を行っており、武家が干渉することもないとの配慮からであるという。

長野家は、永禄二年(1559年)に岩倉織田家が織田信長に攻められ落城し、岩倉織田家の家老であった山内盛豊も討死したため、幼い山内一豊と母は流浪し、知人の紹介で永禄三年(1560年)に宇賀野長野家に匿われました。法秀院は、この後、死ぬまで宇賀野に住したと伝えられます。

 天正13年(1585年)閏8月21日、秀吉は、山内一豊に湖北において2万石を与え、長浜の城主とした。秀吉、柴田勝豊についで3代目の長浜城主である。この後、5年間領国政治を行う。
 この長浜城主時代に、一豊と見性院の夫婦に悲劇が襲う。天正13年11月29日、長浜を大地震が襲い、二人の子供である与祢姫が、御殿の棟木が落下した下敷きとなり、乳母とともに息絶えてしまった。この年6歳であった。
 一方、地震から数年後、見性院は城下で男子の捨て子を拾い、養育した。後に、山内家の菩提寺である妙心寺大通院の湘南和尚となる

坂田駅前

宇賀野と法秀院

 戦乱が果てしなく続く尾張の岩倉城は、織田信長に攻められ永禄2年(1559年)に落城、岩倉城の家老であった一豊の父盛豊は城と運命を共にし、一豊と母や弟妹は夜陰の中、城から脱出、家臣や縁故親戚にもかくまわれていたが、信長の詮索が厳しく、逃避、流浪の上、知人の紹介で永禄3年(1560年)宇賀野の長野家に落ち着かれた。
 一豊の母は、夫盛豊が戦死したのち出家し法秀院と称したが、資料が乏しく実名等は定かでない。
 法秀尼は長野家の屋敷の一隅でひたすら息子の武運を念じ、慎み深く質素な生活を送りながら、近在の子女に針の業(裁縫)や行儀作法を教えていました。

 一説によると、この習子の中に、後に一豊の妻となった千代がいました。利発な彼女を見初めた法秀尼は、息子の嫁に推されたと伝えられています。悲運を背負い苦労の中にも地域の人達の温情に守られ、二十数年の歳月が経ち、念願であった息子一豊が長浜城主に栄達の朗報が届き、早々法秀尼へ迎えの使者が来ましたが、謙虚な人で老体が息子の活躍の邪魔になってはと、また長年住み慣れ恩義を受けた宇賀野を去り難く、再三の迎えにも応じず、その翌年天正14年(1586年)7月17日、病にてこの世を去りました。

戦乱の中の遍歴

 一豊は、天文14年(1545年)7月、丹馬守盛豊の三男として尾張国で生まれました。このとき、信長12歳、秀吉10歳、家康3歳という関係になります。一豊は、幼名を「辰之助」と言い、長じて「伊右衛門」と名乗りました。
 多くの戦国武将がたどったように、尾張国岩倉・苅安賀・美濃国松倉・牧村と遍歴し、永禄3年(1560年)には、近江国勢多城主の山岡景隆の近習に仕えたといわれています。
 一豊母子が、近江国宇賀野の長野家に身を寄せていたのは、山岡景隆に仕えていたとされ、一豊は少年期から青年期にかけて、宇賀野に居住したことになります。また、一豊の母は、この地で死亡したとされ、宇賀野墓戸に墓所があり、長野家に「法秀院縁月妙因大姉」と記された軸が残されています。現在の長野家には、一豊に縁のある品として、鏡、くつわ、桝などと共に、貴重な文献資料(「長野家文書」)が残されています。
「長野家文書」には、土佐の山内家が、一豊の母「法秀院」の墓を発見するに至る経緯が記されおり、山内一豊の研究上、極めて貴重な資料とされています。(現在、長浜歴史博物館に保管されています。)
一豊は、やがて「内助の功」の誉れ高い「千代」をめとりますが、少年期を母と共に、この地で過ごし終えたことは、大きな転機となったと思えます。なお、千代が名馬を買わせ一豊を出世させた逸話は有名ですが、金十両を持たせたのはこの母とも言われています。

 参考資料:現地説明板・ウィキペディア

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

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