城郭探訪

yamaziro

箕浦城(新庄城)   近江国(近江)

2012年05月26日 | 平城

お城のデータ

別 称:新庄城

所在地:米原市(旧:坂田郡近江町)箕浦    map:http://yahoo.jp/m5IzqU

現 状:田畑地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:今井氏

遺 構:郭・城跡説明石碑

目標地:箕浦集落の北側・功福寺裏手 
駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2012.5.26

箕浦城址

お城の概要

 大字新庄小字殿城を中心に畑地・水田・集落まで広がる里城。集落内に幾重にも水路がある。

 箕浦集落の北側を進む道で箕浦集落に入った左手の田んぼの中に城址碑(説明碑)があります城跡碑と土壇状に畑地が残るが、郭跡なのか? 箕浦字殿にわずかな土盛りを残すばかりの箕浦城は、往時、北は通船川あたりまで、南は天野川から水路をひき防御の堀を設けいていたという。しかし、いまその面影はまったく失われている。

 今井氏が本拠としていた箕浦には、箕浦市場があり、秀吉が長浜に市を開くまでは物流・交通の要衝として栄えていた。それを裏付けるかのように、市場近くに八幡神社には、上洛途上の源頼朝が休んだという腰掛石が遺されている。

 北側には顔戸山砦(一ノ城)も遠望できます。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 箕浦 住 佐々木隋兵 箕浦四朗左衛門(元山本判官二男箕浦義氏元祖元弘建文之乱江北寺田今村多賀箕浦名高家也)・箕浦 六角下屋敷・箕浦城主 佐々木浅井隋兵 堀掃部介氏時・ 同 堀掃部介八六・ 同 堀掃部介新介」の名を記す。

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 箕浦村 昔中西与介ト云武士ト誓願寺ト云ル寺ト両人シテ合セ領スル。此仲西氏ハ後裔何レノ所ニヤラン、絶テ其姓氏タル人ヲ不聞、家宅ノ跡ハ今以てて在ス、誓願寺ハ元和ノ浪速乱後、故有テ此村里ヲ去テ河内国ヘ走リ、其地ニ止ルト云、此辺往古坂田郡ノ万物交易ノ市場ナリト云、」と記す。

京極氏(のちに浅井氏)に従った今井氏の居館跡です。

\\\\\\\\\\\\\\\\\信長公記 四巻\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

藤吉郎奮戦  箕浦合戦の事

  5月6日、浅井勢が動いた。この日浅井長政は軍勢を率いて姉川まで進出し、木下藤吉郎固める横山城へ向かって陣を立て備えた。そして先手足軽大将の浅井七郎に命じ、兵五千をもって箕浦(近江町箕浦)の堀秀村居城近くまで寄せさせ、在所在所に放火してまわらせた。
 この様を見た木下藤吉郎は、横山城に十分な兵を残した上でみずから百騎余りを引き連れて密かに城を出た。そして敵方に見つからぬよう山裏を密行して箕浦へ入り、堀秀村・樋口直房と合流した。しかしそれでも総勢はわずかに五、六百に過ぎず、その人数で敵勢五千(原文には五千ばかりの一揆と記されている。おそらくは誇張)と対峙しなければならなかった。

  木下勢は寡兵の足軽をもって敵勢に立ち向かい、下長沢(近江町)で一戦に及んだ。この戦で樋口直房配下の侍多羅尾相模守が討死したが、そのことを知った多羅尾家来の土川平左衛門という者は主人の後を追おうと敵中に突入し、見事討死を遂げた。比類なき働きであった。
 このように苦戦した木下勢であったが、敵が一揆の集まりだったこともあり、なんとか突き崩して数十人を討ち取ることに成功した。さらに木下勢は下坂(長浜市下坂浜町)のさいかち浜でも戦い、ここでも勝って敵を八幡下坂(長浜市神前町八幡神社)まで追い崩した。味方の敗軍のさまを見た浅井長政は、得るところなく小谷へ軍勢を返した。

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 享禄四年(1531)、今井氏の居館のある箕浦で浅井氏と六角定頼との合戦があり、六角氏が勝利した。この戦いは享禄元年の内保河原の戦い以後も対立し続けていた京極氏の内紛が、高清・高延を擁立する浅井氏と、高慶を推す六角氏の争いへと発展したものである。今井氏は内保河原の戦いでは六角側であったが、その後、浅井氏側に付いたため攻撃を受けたという。しかし、当初は六角氏側であり、浅井氏と戦って敗れたことで浅井氏に従ったため、進退を疑われた秀俊は神照寺へ呼び出されて切腹させられてしまった。
 かつては今井氏と浅井氏とは、ともに京極氏の重臣であったが、浅井氏は着々と勢力を拡大し戦国大名としての実質を持つようになった。一方、その波に乗り遅れた今井氏は、やがて浅井氏の家臣となることに活路を見い出すことになるのである。
 秀俊自刃後、残された尺夜刃丸(のちの定清)は六角定頼を頼り、定頼も尺夜刃丸を庇護した。以後、今井氏は六角氏に従ってしばしばの出陣命令を受けている。そして、浅井亮政が死去したあとを継いだ久政は京極氏に攻められて、ついに天文十八年(1549)ごろに京極高広に降伏し、浅井氏はふたたび京極氏に従うことになった。このころ、尺夜刃丸も成人して定清と名乗っていた。

 浅井氏の興隆と今井氏の衰退

 定清は今井の本領回復を六角氏に願って京極氏との境目に砦を望んだところ、磨針山の菖蒲岳に砦を築いてそこに拠ることとなった。しかし、その代償として三歳の幼子を求められ、人質として六角定頼に差し出した。浅井氏を臣従させた京極高広は、六角氏を討つにあたり菖蒲岳の定清を味方にするために書状を送った。しかし、これを知った六角氏の疑いを受け、人質となった幼子は定頼によって殺された。このことから、今井氏は旧主である京極氏方に復帰したのである。
 かくして、今井定清は京極方に復帰したものの、父秀俊切腹後に庇護を受けた六角氏への恩義があり、進退に苦しんで、結局、永禄三年(1560)ころまでひき籠ってしまった。しかし、同年五月、浅井久政の子賢政(のち長政)が、六角氏と決別して対戦するにあたって今井定清を招請した。定清は浅井長政に味方することに決し、六角氏との戦闘に力を尽くした。ところが、永禄四年七月の太尾城の夜襲において、敵と見誤った味方の槍で背後から刺されて戦死した。この定清の死によって、今井氏の衰退は決定的なものとなった。
 近江の諸豪が戦いを繰り返している間にも時代は大きく移り変わり、天下統一を目指す織田信長が勢力を拡大してきた。浅井氏は信長の妹を長政の室に迎えて、織田氏と同盟を結んだが、のちに朝倉氏のことで信長に反旗を翻した。この時代の激変に際して、今井氏は定清の子丸が幼少であったため、家臣嶋氏らが力を合わせて浅井氏の下で各地に戦った。
 しかし、浅井氏が「姉川の合戦」における敗戦を経て、天正元年(1573)に滅亡すると今井氏も離散の憂き目となった。丸はのちに成人して秀形と名乗り、天正十一年(1583)羽柴秀吉の滝川一益征伐に参戦したが戦死した。秀形には跡継ぎがなく、今井氏の嫡流は断絶した。
 とはいえ、今井氏は『嶋記録』などによれば、何流かの庶家があったようで、それらの家々がいまに今井氏の家名を伝えているとのことである。

箕浦城の戦い

永禄6年から浅井氏の六角氏に対する前線基地である佐和山城を守っていた磯野員昌は忠実に浅井家に仕えた。

織田軍に包囲された時、この付近の有力国人の今井氏、島氏、河口氏も城内にいて員昌と七か条の定書を交わして、一致団結してこの難局を乗り切ろうと誓い合った。

しかし8ヶ月も織田軍に包囲されては城の食料も矢玉も底を尽きかけ、ついに員昌は長政に援軍の要請をした。しかし長政単独では救援に向かえる余裕はなかった。員昌はそれでは佐和山城を捨て小谷城へ入りたいと申し出た。

しかし長政はこれを認めるどころか員昌に謀反の恐れありと人質だった員昌の母親を磔にして殺してしまった。もはや員昌の心は浅井家から離れた。隠居も考えた。

このとき信長はその剛勇を惜しみ織田家のために働いて欲しいと員昌を誘った。一旦は固辞した員昌だったがかつて家臣が誤って射殺したため親代わりに養育している国人今井高清の子供達の将来を考え、この申し出を受け入れた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布6(旧坂田郡の城)、淡海国木間攫、佐々木南北諸氏帳、信長公記、武家家伝

 

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