お城のデータ
別 名:民部古城
所在地:大津市松本一丁目・石場・本宮一丁目 maphttp://yahoo.jp/67RX-V
現 状:宅地
遺 構:なし
区 分:丘陵城
築城期:室町時代
築城者:松本民部少輔重範
目標地:滋賀県農業教育情報センター、大津土木事務所
駐車場:滋賀県農業教育情報センター
訪城日:2014.7.24
「大津のかんきょう宝箱」より
お城の概要
松本民部少輔重範という武将の城(砦)と伝えられています。
位置は、本宮二丁目の浅井山(松本山)北方との伝えが地元に残されています。
字城ノ内と呼ばれた平野神社門前の谷戸。
平野神社の東麓門前に、古くは字城ノ内と呼ばれる畑地があったとされています。周辺は、南からのびる舌状の丘に挟まれた谷戸となっていて、領主の館に適した地形となっています。また、神社の南東、市民病院の北、現在国道やJRの線路となっているあたりの丘の上を字古城といったそうです。
おそらく、谷戸の居館と山上の砦から成る城館だったものと推測されます。『中世城館調査報告書集成』では、平野神社の鎮座する丘も城域と捉え、周辺に「腰郭の面影」がみられるとしています。丘の頂上はじめ全体が宅地化・社地化されていて、藪のなかに削平地様のものが見られはするのですが、遺構かどうかは判然としません。ただ、ここに防御施設が何もなかったとも考えにくいと思われます。
歴 史
松本民部少輔の城と伝わる。民部少輔について、『近江輿地志略』には「三井寺の僧と戦ひて死す」とする土地の伝承を載せている。
一方、『武芸少伝』『射家系譜』では、民部を佐々木氏の一族で吉田上野介道宝の季子としたうえで、越前にて戦死すとしている。
『志略』では前者の伝承を「誤り伝うべし」として疑問視しているが、民部少輔について詳細は今のところ不明である。
『多聞院日記』天正10年6月3日条には、「日向守(明智)ハ先ツ坂本ヘ入、大津・松本・セタニ陣取云々」・・・大津陣所・松本城・瀬田陣所
松本民部少輔重範の居城。別名を『民部古城』とも呼ぶ。
松本重範は六角氏家臣・吉田通宝の子と伝わり、三井寺との争いで戦死したとされる。
南から琵琶湖岸に向かって続く丘に挟まれた谷戸に建つ丘城で、中山道を見下ろす場所に位置する。
城域は平野神社の東麓(旧地名:字城ノ内)から滋賀県合同庁舎付近まで広がり、国道一号線沿いの浅井山の丘(旧地名:字古城)も城域の一部とされる。
大津松本城にいた松本民部少輔は近江源氏吉田上野介通宝の子、松本城以前の吉田の祖先は竜王町川守に住み上野太郎左衛門重賢、その子出雲守重政は日置流の弓術に長じ佐々木の家来であったが、佐々木義賢はかえって重政を師として、伝授を受けた。
西光寺裏門
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、『近江今昔』
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