お城のデータ
所在地:愛知郡愛荘町(旧・愛知川町)畑田 map:http://yahoo.jp/5MstkA
目標地:天-神社
区 分:平城
現 状:神社・宅地
遺 構:土塁・説明板
築城期:鎌倉期
築城者:佐々木氏
城 主:羽柴長兵衛
駐車場:路上駐車
訪城日::2013.5.31
お城の概要
天一神社の北側(本殿の裏手)から集落北側沿いに土塁の痕跡がいたるところに残ります。
説明板には北側に2~3mの土塁が200mほど残るとありますが、そんなに高い土塁は見当たらなかったです。
集落北側の一番東側に高めの土壇が認められます。説明板には草の根広場の東側の藪に土塁・堀・井戸が完全な形で残るとあります。
【歴史】
佐々木氏(六角氏)系の城です。
畑田城は畑田地区の若宮神社前に案内板が建てられており、若宮神社には高さ1m足らずの土塁と堀跡状のものが残っている。
神社前の案内板には、かなり大きな城郭を想定した記載があるが、確認まではできなかった。
畑田城は、鎌倉時代から戦国時代まで近江国の守護佐々木(六角)の家臣が居城し、戦乱時には、観音寺城を守る前線基地として機能していたと思われます。
城の全貌はつかめないが、集落の北側に東西2百メートル南北百メートルほど、高さ3~4メートルほどの土塁や堀が残っています。また、郭(土塁と堀で画かれる)は、横に六つ並んでいます。草の根広場の東側の薮には、土塁と堀・井戸が完全な形で残っています。これらの郭は、東側と西側の土塁のラインが一致しなく、中央の三つの郭が突出しています。この三つの郭が、原基的なもので東側や西側に翼のように広がる郭は、後に付加されたものです。
郭が付加されるのは、戦乱が激しくなる戦国時代と考えられます。このころになると、かなり広範囲に集落を囲もうと努力し、戦乱に備えています。
「大洞弁天当国古城主名札」には、畑田村屋敷主として羽柴長兵衛の名が見える。
現地案内板には、「鎌倉時代から戦国時代まで近江守護職佐々木氏の家臣が居城し、戦乱記には観音寺城を守る支城として機能していたと思われる。城の全貌はつかめないが、集落の北側に東西200m、南北100mほど高さ3~4mほどの土塁が残っている」と記されている。
さて、羽柴長兵衛とは何者か?
若宮神社周囲の土塁
天一若宮神社
『太閤史料集』『近畿・近国の戦国合戦』という本。
何だか密林にて定頼の名前で検索をかけると、物凄い勢いで、日蓮宗徒と一緒に定頼の兵が山科本願寺焼き討ちしたことを説明した一文が出てきます。
信長の先を行く男佐々木定頼←← 日本で最初に楽市楽座を始めた人であり、日本で最初の城割りをした人なんだ!1530年生まれと見ると、若い。
佐々木定頼と四十歳近く年下なんて若すぎる!畿内が大混乱してた頃に、まだ木下藤吉郎(秀吉)生まれたて、戦国時代。佐々木定頼の娘と、細川晴元が結婚した年に生まれた秀吉。
六角が支配していた頃の江東に、羽柴姓を名乗ってる人がいたんです。勿論、秀吉が羽柴姓を名乗る前。羽柴長兵衛という名前の人で、畑田城の城主。
城主をしていたほどの人なのですから、秀吉がその人のことを知らなかったとはちょっと思えない。秀吉の秀は六角義秀の秀を貰って付けたとか。羽柴長兵衛は六角家臣。
秀吉が羽柴を名乗ったのは、柴田と丹羽の機嫌を取る為、柴田の柴が、丹羽の丹の下にあるのはおかしい。とか、秀吉が羽柴を名乗った頃は、織田家中で丹羽より上位の人がまだいたとか)その辺を考えると、この羽柴長兵衛は捨て置けない。
信長の外戚(土田御前の家系)がどうやら六角の血筋らしい、土田御前そのものが高頼の娘だと史料もあります。秀吉が六角家臣の人の名字を名乗った、とするのはちょっと苦しいが← 単純に、秀吉自身が放浪時代に羽柴長兵衛と何かあったとも考えられる。
秀次切腹に連座して木村重茲が切腹させられた後、近江馬渕に逃れた重成を、六角義秀が保護して育てたとか。この時には、義秀は死没してます、全面的に信じるのも?重成が佐々木源氏の木村氏だという可能性は強い気がします。佐々木源氏の真野氏なのでしょう。
先輩諸士のサイトで土塁の一部が写真に撮られていたが、私が訪城した時には完全に破壊され跡形もなかった。城ブームの昨今でも史跡の破壊が進んでいることを痛感させられた。
2004年7月の土塁
神社後方
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11
本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!