城郭探訪

yamaziro

大溝陣屋 近江国(高島)

2012年03月14日 | 陣屋

Ōmizo_Jinya大溝陣屋

お城のデータ

所在地:県高島市(旧高嶋郡)高島町勝野 map:http://yahoo.jp/WS0p4n

現 状:宅地

区 分:陣屋

築城期:江戸期

築城者:分部光信

遺 構:惣門・家臣屋敷・菩提寺・墓所

目標地:JR高島駅

駐車場:JR高島駅駐車場

訪城日:2012.3.10

お城の概要

大溝陣屋は近江高島駅の北側一帯に築かれていた。 陣屋の遺構は余り残されていないが、陣屋の惣門が現存しており、武家屋敷(笠井家)が一軒残されている。高島駅の東側に分部氏を祀った分部神社。高島小学校の南側にある圓光禅寺が分部氏の菩提寺である。、陣屋・武家屋敷を構築し、背戸川を境として石垣・土塁を巡らせてこの地に総門を設けた。宝暦5年(1755)秋、大修理して今に至る。
 棟瓦には分部氏の定紋(丸の内に三引)が残り、両袖に部屋のあるこの長屋門は大溝城関係建造物でただ1つ現存する貴重な遺構である。<現地案内板より>

陣屋の扉は失われているものの、「総門」と呼ばれる長屋門が現存している。武家屋敷地への出入り口の正門であったと考えられている。宝暦5年(1755)の大改修を経て、近年まで民家として使われていた。現在は高島市が買い上げ、高島市の有形文化財にも指定されている

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大溝陣屋 長屋門

大溝陣屋は近江国高島郡(現在の高島市勝野)にあった大溝藩の藩庁。

お城の歴史

元亀3年(1572)織田信長が高島郡を進攻すると、天正7年(1579)津田信澄が高島郡を領し、明智光秀の縄張りで大溝城が築かれた。天正10年(1582)本能寺の変で信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、大坂で殺害されてしまった。信澄の後には、丹羽長秀・加藤光奏・生駒親正・京極高次と目まぐるしく城主が替わったが、京極高次が近江八幡へ転封となった後は無城主となっていた。

江戸期の元和5年(1619年)分部光信によって築かれた。分部氏は藤原南家工藤氏の後裔で、伊勢国安濃郡長野の地頭職であった長野氏の庶流である。初代は光久で安濃郡分部村に住んで分部氏を称したことに始まる。 伊勢国上野城一万石の領主であった分部光嘉は、関ヶ原合戦では富田信高に協力して伊勢国安濃津城に籠城し、東軍の攻撃に奮戦した。戦後、その功によって伊勢国上野より二万石に加増され入封した。

元和の一国一城令の対象となり、三の丸を残して大溝城を破壊してしまった。

分部氏は三の丸に陣屋を構え、11代(分部光信・嘉治・嘉高・信政・光忠・光命・光庸・光賓・光邦・光寧・光貞)続き明治維新を迎えた。

大溝藩分部家墓所は園光寺境内墓所(ジャパン・ジオグラフィックは日本を深く学ぶ非営利教育研究機関より)

400年近く分部家累代の墓が守られている。

江戸時代を通じて一藩の歴代藩主の墓がたどれるとともに、近世墓制を考える上でも重要であり、貴重である。 

参考資料:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』園光寺境内墓所(ジャパン・ジオグラフィックは日本を深く学ぶ非営利教育研究機関より)

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