城郭探訪

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佐治城 近江国(甲賀)

2014年06月19日 | 平山城

県道127号線、小佐治公民館の路地を北に入る。右手に常楽寺を見て十字路も北進すると標識が見える。

 
 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町小佐治城殿  map: http://yahoo.jp/yD4sLk

現 状:森林・竹林・牧場

遺 構:曲輪・土塁・水堀・空堀・説明板

区 分:山城

築城者:平業国

築城期:南北朝期(泰平5年(1062))

城 主:佐治氏

標 高:250m   比高差:0m

目標地:常楽院・第二鹿深の家

    市指定史跡

訪城日:2014.6.17

 中腹の常楽寺

 常楽院

 応仁2年(1486)佐治美作守為定が蒲生郡黒橋の合戦で討死したので、その追善のために建立された。
 永正年間に天台宗から浄土宗に改宗した。
 佐治氏の墓地が寺裏の高台にある。

桝形池(水堀)に『佐治城跡』の説明板 

 

お城の概要

城は愛宕山の山頂にあり、道路沿いに「桝形池」と呼ばれる堀跡が残り、山頂には祠が奉られている。

 日本城郭体系では本丸付近は畑として開墾され、余り遺構が残っていないような記述がなされている。

確かに本丸付近は「桝形池」および愛宕山付近に堀跡が残されている程度で、その西側は牧場となっている。

西側には土塁や堀切があり、二の丸、三の丸に相当するような遺構が明確に残る。

一番西側の堀切には土橋が架かっている。

愛宕山の南側は、竹林で削平地・土塁が残る、城の遺構。

 佐治城とますがた池

 天正13年美作守佐治為祐は佐治城に篭って抗戦し、落城する。為祐は自害し、奥方は枡形池に身を投じた(伝承)。
 夏の干天が続くと住民はたいまつをかざし降雨を願ってこの池の周りをめぐり、夜を徹して踊ったという。このようにしてすいりょう節の歌や踊りが生まれたそうである。近くに八大龍王碑がある。
 

歴 史

康平5年(1063年)平業国によって築かれたと云われる。 康平5年(1063年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗った。南北朝には某氏・国氏が武功を上げ、長亨の乱(1487年)では河内守が活躍しました。

建武4年・延元2年(1337年)足利尊氏の命によって、小佐治右衛門三郎は守親親王を攻めるために出兵して感状を受けた。

永禄11年(1568年)六角氏が滅亡後、佐治為次は織田信長より安堵され、元亀2年(1571年)に一万四千石を領した。

  天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受ける。更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡した。 <現地案内板より>

 佐治氏は甲賀郡・佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。

佐治與九郎と江(崇源院)との婚姻について

<大野佐治とお江の方
 「お江」は2代将軍秀忠の正室であり、家光の実母である。徳川時代、最高の位に到達した女性といえる。しかし、その人生は正に波乱万丈であった。生まれは小谷城主浅井長政と信長の妹お市の方の3女で、落城ののち柴田勝家に嫁した母に連れられ北の庄に移るが、ご存知のように秀吉に攻められてここも落城し、母と養父を失うこととなる。

秀吉に引き取られたお江の最初の夫は母の妹(お犬の方)の子で、従兄弟の「佐治與九郎」であった。與九郎は18歳、お江は16歳であった。大野城でしばらくは幸せな日々を過ごしていたと思われるが、天正12年(1584)秀吉によって離縁させられてしまう。

その理由は、小牧長久手の戦いで、家康・信雄の陣営に加わって秀吉の怒りをかったからという説が有力である。
その後秀吉の姉の子羽柴秀勝に嫁ぐが、秀勝は朝鮮出兵で戦死することになる。

そして3番目の夫が秀忠であった。この大野佐治氏は佐治本家の為継が、文明年間(1470頃)に伊佐野に住んでいた3男の佐治上野介為綱を知多郡の一色氏の要請に応じて派遣したことに始まる。しかし、為綱についてはさしたる記録がなく、その弟の駿河守宗貞が大野佐治の始祖となり、為定、為興(信方)、与九郎一成と続く。伊勢湾の海上交通を握る水軍の実力が信長に評価されたと思われる。
 與九郎はその後叔父の信包(母の兄)を頼って伊勢へ逃れ、後に信長の娘である於振を正室に迎えたと伝えられている。寛政11年(1634)京都にて死去。享年66歳

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B2%BB%E4%B8%80%E6%88%90

甲賀は近江国甲賀郡の地をいい、伊賀と並んで忍者のことが思われる。

戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。

 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。

業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。以後、佐治氏は佐治郷にあって激動の中世を生きたのである。

主郭の土塁(桝池上部) 

主郭跡の大半は牧場の放牧場となって、堀跡といわれる桝池には説明板が。桝池の奥に高台に愛宕社の祠があり、この下に堀跡ある。

 

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 

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