城郭探訪

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音羽野城 近江国(甲賀・土山)

2014年02月15日 | 丘陵城

県道9号線青瀬橋の南詰、妙楽寺の反対側に上水道施設があり、そこに案内板と石碑が建っている。

文明年間(1470~1486年)に頓宮四方介利盛が音羽野村を領した後に築城し頓宮城より移り住みました。それ以来、当城に住み代々継ぎましたが、元亀元年(1570年)、頓宮因幡守守孝の時に、近江の守護職佐々木六角氏没落した際に織田信長に従いましたが、天正十三年(1585年)豊臣秀吉によって改易されました。

音羽野城の位置は、現青瀬橋の南東の小高い丘上にあって、現状は松、杉等の混植林となっている。本丸跡と考えられる地点には庭石などの残され、内堀・外堀も原形をとどめています。  <現地案内板より 土山町教育委員会

甲賀市誌7巻甲賀の城より 

お城のデータ
所在地:甲賀市土山町瀬ノ音 旧:甲賀郡土山町  map:http://yahoo.jp/30Q6Qy                          目標地:野洲川 青瀬橋の南詰                                                 区 分
:丘陵城                                                               標高:290m 比高差:30m

現 状:山林
遺 構:郭・土塁・堀・庭園・石碑・説明板

築城期:長享年間(1487年~1489年)

築城者:頓宮四方之介利盛
駐車場:妙楽禅寺そば
訪問日:2014.2.12

 お城の概要

 

音羽野城は野洲川に面した丘陵の北西端に築かれている。 台地の上は広い平坦地が拡がっているが、音羽野城はこの台地の北西隅部のみ活用して方形居館を築いている。

 

縄張りは単郭の方形居館で東西60m、南北70m程の規模である。周囲は土塁と空堀が巡らされているが、北側のみ空堀はなく切岸になっている。この北側は地形に応じてやや弓形となり北東隅は北に張り出している。

 

虎口と見られる土塁の開口部は東中央、南中央と南西隅にある。 東の虎口は土橋が架かり、周囲には石が散在しているが、石積の跡のような感じではない。 南側は東からL字に折れた空堀が内側、西からL字に折れた空堀が外側に巡り、中央虎口から西側が二重空堀になっているのが特徴である。中央虎口も土橋状になっているが、この付近は複雑な地形になっており、後世の改変の影響も考えられる。

 

歴 史  

南北朝の動乱
頓宮という地名が出てくるのは、文治6(1190)4月の伊勢内宮役夫工作料未納について書き上げた注文の中に「頓宮」の名が見えるのが地名としての初見とされている。
「頓宮文書」には,建武3(1336)正月2日の近江国頓宮知綱着到状があり、それには頓宮肥後弥三郎知綱と記されているおり、上記肥後守である盛氏と同じ国司、肥後の名乗りのため裔と考える。この着到状は足利尊氏に呼応し挙兵したことである。南朝側に味方した頓宮弥九郎とは一族の者とされている。また応永21(1414)113日の大野光保譲状により甲賀郡大野郷が譲与されているため、その際に近江へ移住したのでは考えられる。
近江の地で頓宮氏が台頭し、南北朝時代では南朝側に前記の頓宮肥後弥九郎が五辻宮守良親王に味方して兵を挙げ甲賀郡をまとめたが、足利尊氏の命を受けた甲賀の小佐治右衛門三郎・山中橘六・美濃部兵衛三郎などが佐々木秀綱に従って攻め、頓宮肥後弥九郎は岩倉城(信楽町)へ拠るが守れず、和束(京都府)へ逃れた。再び、和束・信楽の兵を集めて、頓宮氏は近江の鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・小佐治合同軍に囲まれ、鮎河城を支えられずに庚申山(水口町)に拠るが、ここも支えきれず和束へ退いた。再々度、頓宮弥九郎は鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・山中五郎・柏木源蔵は鮎河城を襲い、火を放って城を焼き滅亡させられた。

 頓宮四方介利盛によって築かれたと云われる。 文明年間(1469年~1487年)に音羽野村を領した頓宮治三郎正盛の子利盛が、長享年間(1487年~1489年)に頓宮城より移り居城したと伝える。

頓宮氏は、甲賀武士甲賀五十三家の一つに属しており、同じく甲賀武士として中世長享の役等で活躍した土山氏、黒川氏、大河原氏は、頓宮氏の一族である。
 長享年間(1487年~1489年)頓宮治三郎正盛の子、頓宮四方之介利盛により音羽野城へ移住している。

佐々木六角氏が織田信長に攻められて没落すると、頓宮因幡守守孝は信長に降ったが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって改易となった。

 

http://yahoo.jp/leoPYt

林道~祠~uターンして

城址は北に野洲川が流れる丘の先端にあります。祠の裏手へさらに登っていくと堀のようなところを歩きます。

5分の歩かないうちに左手側が城址です。基本は単郭方形ですが大きな主郭(東西50mほどありそう)です。

主郭南側は前面に堀が走り南西側と南東側の平虎口があります。堀の外側も平坦地が続き郭跡のような感じです。主郭には土塁が巡りこれも分厚く高さも2mほどあります。主郭の一番奥(城址碑とところから直登した場合はこの辺に出ますが)北西側に庭石のような石がゴロゴロしており庭園跡とわかります

駐車(農道)http://yahoo.jp/e_PNXM

参考資料;淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城・現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。


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