お城のデータ
所在地:甲賀市水口町水口字中邸(本丸部分) (旧甲賀郡水口町水口字中邸(本丸部分)) map:http://yahoo.jp/hjPmgf
別 名:碧水、御茶屋御殿
現 状:水口高校グランド・水口城資料館
遺 構:本丸跡(グランド)、水堀、土塁、乾櫓石垣、移築門
区 分:平城
築城期:江戸期 寛永9年(1632)
築城者:徳川幕府
城 主:初城主:坪内玄蕃(城代)・水口藩:加籐明友
城 域:360m×360m
目標地:水口城、水口城資料館
駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場
県指定史跡
訪城日:2014.8.3
お城の概要
水口城は明治維新後廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸跡地のみ保存され、水口高校のグランドとして使用されている。
グランドの周囲には今なお土塁が残り、その外周には水堀が巡り、北西角には乾櫓の櫓台が良好な状態で残っている。
堀の水は湧水を利用しているといわれ、水深は15mもある薬研堀であるという。なお、水口城が碧水城とよばれる所以は涌水だけを使用していたためとされ、現在でも湧水の取り口や排水口は不明である。
御成門付近の石垣と乾櫓の石垣は、中村一氏が築城した岡山城(水口古城)から運んだ石で積まれているとされる。
大手門口の出丸部には、平成3年(1991)に模擬櫓(水口城資料館)が建てられている。
なお、水口町蓮華寺の本堂に水口城の玄関が、大岡山(水口岡山城のある古城山)の麓の大岡寺に茶室が移築されている。
歴 史
水口は京から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並が形成されていたとされる。
天正13年(1585)羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せた。
関ケ原合戦後、この地を幕府直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定し、家康自身もしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊している。
江戸幕府3代将軍徳川家光が寛永11年(1634)に上洛の際の宿館として小堀遠州に築かせた水口城があります。その後、天和2年(1682)別名「碧水城」といわれた城です。
寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせたのが水口城である。
近江には同じ目的で建てられたものが、柏原御殿、伊庭御殿、および永原御殿がある。
水口城の築城は幕府の直轄で行われ、その作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(小堀遠州)があてられた。
延べ10万人の大工が動員され、本丸は京都二条城を小型にしたものと云われている。 しかし、その後家光は上洛することなく、幕府の管理下で城番が置かれた。なお、水口城は居館式城郭で本丸と二の丸曲輪だけで構成されていた。
天和2年(1682)石見国から加藤明友が入封して水口藩2万5千石の居城となり、水口藩が成立、以後明治維新まで続いた。
水口藩加藤家文書
水口藩は小藩とはいえ、甲賀地域に城を構える唯一の大名であり、甲賀の歴史に大きな足跡を残していますが、家臣団の構成や藩政機構、明治維新期の動向など、藩政の実態は史料の不足から不明な点が多く残されていました。
しかし、近年水口町内に大量の古文書が残されていることが分かり、その寄贈を受けたのを契機として、平成18(2006)年から4年をかけて詳細な調査を実施した結果、近世初期~大正期の総点数1万3983点にも及ぶ古文書群であることが判明しました。
「水口藩加藤家文書」と名付けられたこの古文書群には、実に多様な史料が含まれています。近世のものとしては、加藤嘉明へあてた豊臣秀吉・秀頼の朱印状をはじめ、徳川家康・秀忠以降家茂まで歴代江戸幕府将軍からの「御内書」(献上への礼状)約640通、水口藩の成立などを示す「老中奉書」約400通、幕府役人や他大名などからの書状約200通、加藤家が勤めた大坂加番などの軍役関係史料約180点、江戸藩邸でまとめられた藩日記、水口藩領の村絵図などがあります。
また近代以降のものとしては、王政復古の頃の水口藩知事任命書や、廃藩置県にともなう明治政府からの一連の通達類など、近代水口藩から華族加藤家への移行期に関するもの、また加藤家のみならず、華族全体の動向を知ることもできる書状・廻達文・記録などがあり、これらは、近世のものと合わせて、全国的にも貴重な古文書群であることが判明し、その成果は平成22年3月に甲賀市教育委員会が刊行した『水口藩加藤家文書調査報告書』にまとめられました。
駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場
参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城
本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!