城郭探訪

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西 与一左衛門と海津浜の石垣

2014年06月29日 | 武将

    

 

 マキノの町の湖岸海津浜の石垣は、元禄14年(1701)に西浜の属する高島郡甲府領の代官となった西与一左衛門が、元禄16年(1703)に幕府領の海津東浜の代官 金丸又左衛門重政と協議し、幕府の許可を得て、湖岸波除石垣を西浜に495.5m、東浜に668m築いたもの。

「元禄14年に・・・西与一左衛門が風波のたび宅地に被害の甚だしいのをあわれんで石垣を築いた。・・・・この石積みのおかげで水害がなくなった。村人たちがその業績をたたえ、院内に碑を建立し、毎年3月15日には、西与一左衛門の法会が営まれている。」

築造前の状況を『大崎寺文書 』(天和2年(1682年))では、次のように語っています。
 「・・最前より御訴訟申し上げ候とおり、浜がわに私どもの住み居り屋敷13 軒は、波除け石垣崩れ少しの風波にも家へ水が入り、難儀に仕り儀にご座候ゆえ、ご慈悲に願いの通り、入用銀6貫19匁5分をお貸し下され成され候ハバ、有難く存じます・・ ・・」(読下し文)とあります。

 村人達は、度重なる大波によって石垣が崩れ、被害に苦しみ借財を重ねていました。このような中、元禄14年、西浜村に甲府藩領代官・西与一左衛門が就任しました。 村人達の苦しみに同情した彼は、就任早々に石垣築造の偉業を成し遂げ、しかも、費用を村民の負担による「自普請」でなく、お上が負担する「御普請」であったといいます。

 西与一左衛門は、思いやりと実行力のある人物で、西浜・蓮光寺入口の案内板には、次のように書かれています。 「元禄14年に・・・西与一左衛門
が風波のたび宅地に被害の甚だしいのをあわれんで石垣を築いた。・・・・この石積みのおかげで水害がなくなった。村人たちがその業績をたたえ、院内に碑を建立し、毎年3月15日には、西与一左衛門の法会が営まれている。」

元禄14年(1701)現在の高島市マキノ町西浜の代官として着任した武士。年貢を減らすこと に尽力し、農民や漁民に慕われた。

  海津の石垣が築造されたのは、江戸期の元禄16年(1703年)です

海津西浜は水害から守られた。この石垣は嵐のたびに何度も改修され今日に至っている。

海津の古い伝統的な町並みは石垣より少し内側に、石垣と平行に通る街道の両側に展開する。その中に地酒の醸造元や、400年以上の伝統をもつ醤油醸造の家などがある。

海津西浜の街道の中程に海津天神社への参道がある。その参道より南側の街道の両側では切り妻造りで、街道に妻側を向けた妻入りの民家が多いのに、その北側では棟を街道と並行にした平入りの商家が多い。敷地の関係でそうなったと思われるが面白い現象である。妻入り、平入りに関係なく中二階の民家が多い。中二階は真壁造りでなかには出格子をはめた民家もあり、屋根は桟瓦葺である。

 

参考資料:高島市広報誌「歴史散歩」、海津の石垣

 

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