城郭探訪

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長寿寺陣所  近江国(石部)

2015年12月11日 | 陣所

 六角討伐、浦上則宗が東寺の長寿寺陣所

三重塔跡…三重塔があったが、織田信長によって安土城に移され、今も安土山中の総見寺跡に残る塔。

お城のデータ

所在地:滋賀県湖南市(旧甲賀群石部町)東寺619   map:http://yahoo.jp/S-q_OC

現 状:寺院

築城期:奈良期

築城者:寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建し、聖武天皇の皇女誕生に七堂伽藍を建立し長寿寺と名づけたという。

改 築:鎌倉期には源頼朝が、室町期には足利将軍家が祈願所として諸堂を造改修した。

城 主:天台宗

遺 構:土塁、曲郭、畝状竪堀

駐車場:長寿寺参拝者用駐車場 

訪城日:2015.11.19

石造多宝塔

お城の概要

伊勢路として利用された古代の東海道は、近江・伊賀・伊勢・大和を結ぶ重要な交通路であった。このため、たびたび戦乱の中に登場することになる。また、軍事上の拠点として多くの城館も築かれた。 現在知られる甲賀郡の中世城館の位置をみると、野洲川と伊勢路を見おろす丘陵上に多くの城館が築かれている。特に杣川上流部に集中してみられ、(『滋賀県中世城郭分布調査1』)、奈良との結びつきが強かったものと思われる。

 石部平野の北の入り口にあたる甲賀郡と野洲郡の境界付近は野洲川が通る狭隘部をなしている。このためそこを通過する伊勢路を容易に封鎖することができるので、軍事上重要な位置にあった。

歴 史

 応仁の乱の際、六角勢掃討の先鋒を務めた浦上則宗が東寺の長寿寺に在陣しているが、これも伊勢路や金勝寺に至る道、ひいては甲賀郡、栗太郡東部を容易に扼することのできる重要地点であったからである。

  浦上則宗の軍勢が甲賀郡に侵入するが六角高頼はやはり正面切った抵抗をせずに姿をくらました。義尚は27日には手狭な安養寺から少し北東にある上鈎の真宝館に移動した。12月2日夜、六角に加担する甲賀衆が義尚の陣所に夜襲をかけた。 いわゆる「甲賀忍者」が有名になるのはこの時からである

「鈎の陣」に参加した甲賀武士は53家、特に活躍したのが21家あったというこの前後に幕府方大名の陣地で火事が続発し、それらも甲賀忍者の仕業であるという。具体的には閏11月に伊勢貞誠の陣で、12月に織田広近の陣で、翌年5月浦上則宗の陣で出火している

 長享元年(1487)9月、尾張守護・斯波義寛に従って織田寛広と共に足利義尚の六角高頼討伐(鈎の陣)に出陣し、翌年3月に帰国。延徳3年(1491)の足利義稙による第二次六角攻めにも従軍した。この軍陣で、11月の大津八町町道場の戦いで浦上則宗と協力して六角政綱を討ち取り、翌年3月29日の愛知川の合戦でも安富元家・浦上則宗と共に若槻城(五箇荘・簗瀬城)を救援する活躍を見せている。

信長の近江平定

 観音寺城から伊賀に遁逃していた江南の大名六角義賢が、伊賀武士と甲賀武士の糾合をもってその再興を準備し、信長に対立する江北の浅井長政とも結んで、豪族や小領主をして所々に一揆をおこさせて北進してきたため、信長の武将佐久間信盛(野洲永原城)・柴田勝家(長光寺城)などが、義賢と野洲川を挟んで対峙することとなった。それが野洲河原の戦いでは、「三雲三郎左衛門父子、高野瀬、水原なんど伝宗徒の侍、並伊賀、甲賀究竟兵780余」が討ちとられる(『信長記』)など、六角方は大敗し、家門を誇った六角氏もその権勢を失ったのである。その野洲河原の戦いに続いて起きるのが、同年六月の姉川の合戦(東浅井郡浅井町)である。朝倉・浅井の連合軍と姉川を挟んでのこの戦いは、信長麾下の徳川家康の活躍によって、連合軍が大敗に終わり、近江国を支配してきた六角・浅井の両大名は、この野洲川・姉川の合戦で再起する力すら失ってしまったのであった。

長寿寺に三重塔があったが、信長によって安土城に移され、今も安土山中の総見寺跡に残る塔。

山門

 三重塔があったが、信長によって安土城に移され、今も安土山中の総見寺跡に残る塔。

宝物殿に

本堂(国宝)

弁天堂

石造多宝塔

参考資料:湖国と文化(近江の古戦場)、石部南小学校HP、Wikipedia

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