浄土真宗親鸞会 伏木桜の集い

富山で親鸞聖人の教えを学ぶ仲間たちのブログです

近いのは、遠いんです。

2010-02-26 19:11:51 | Weblog


■昨日は、伏木の法友も集って、高岡会館(富山県高岡市)での研修会に
 行ってきました。


 たくさんの内容を教えていただきましたが、中でも、今日、紹介するのは、
 蓮如上人の、



「 遠きは近き道理、近きは遠き道理なり。

 灯台もと暗しとて仏法を不断聴聞申す身は、
 御用をあいみて、「いつものこと」と思い、
 法儀におろそかなり。

 遠く候人は、仏法を聞きたく、大切に求むる心
 あるなり。

 仏法は大切に求むるより聞くものなり




 冒頭のお言葉に、 「オヤッ??」 と思われるかもしれません。


「遠いということは近いということであり、 近いことは遠いということ」。


 ハテ?
 これは、どういう意味なのか。。。



 最初の、

「遠きは近き道理」とは、
「仏法を重く、真剣に聞く人は救われるのが速いということ」。


「近きは遠き道理」とは、
「またあの話か」とノンキに聞法していては救われるのが遅れるぞと
 警鐘されているお言葉です。


 次の「仏法を不断に聴聞する」とは、いつも聴聞をしている、絶え間なく
 聴聞している人をいわれます。
  そういう人は、「御用を厚く蒙りて」、如来聖人の御恩を厚くこうむって、
 聴聞を「いつものこと」とか、「またあの話か」と、法義におろそかになり、
 仏法を軽くみてしまうということだ、と。


 一方、


「遠く候人は、仏法を聞きたく、大切に求むる心あるなり」 とは、
  遠方から聴聞に来る人は、往復にかける時間や、移動に体力を使いますし、
 宿泊もしなければなりません。
 困難を乗り越え、苦労して参詣しているので、近くにいる人と同じ心で聞こうと
 思っても聞けません。
 仏法を聞きたく、大切に求むる心あるなりで、仏法を聞きたく、大切に
 求めようとするということだとも、お聞きしました。


 遠くても困難を乗り越え参詣し、真剣な心で求めている人もあれば、
 近くてご縁が多くても、「他にやることがないから」と、軽い心で聞き流して
 いる人もあります。



 この条がおさめられている、
 浄土真宗親鸞会発行の、
 『蓮如上人 御一代記聞書百箇条』には、



心がけ一つが大切



のタイトルがつけられています。


 いずれにせよ、


「いつでもチャンスがある」
「また、別の日に」


という思いでは、どんなこともおぼつかないですね。



 高森顕徹先生著『光に向かって100の花束』には、
 次のような話が紹介されています。


(引用、ここから)
==================================================

 矢場に立った一人の男、二本の矢をたばさんで的に向かっている。
「おまえは、まだ初心じゃ。一本にしなさい」
 そばで見ていた白髪の指南は、にべもなくこう言った。
 弓を射るとき、諸矢(二本の矢)を持つのが通例である。
 初心だから二本持つな、一本にしろとはどういうことか。
 為損ずることの多い初心者だから、一本では無理だろう、二本持てと
いうならわかるが、どうも腑におちない。
「はい、かしこまりました」
 素直な男は、言われるままに一本を投げすてた。
〝この一矢よりないのだ〟
 一本の矢に全精神を集中する。かくて彼は、みごとに的を貫いたのだ。
 初心者に、にあわぬできばえと、満場の喝采をえたが、
〝一本にせよ〟の老指南の意味は、どうにもわからない。
 思案のすえ彼は、老先生を訪ねて教えをこうた。
 笑みをたたえて老先生、こう答えたという。
「子細はない。ただ後の矢をたのみにするから、初めの矢に
専心できないのだ。どうしても油断ができる。勝つも負けるも、

ただこの一矢の覚悟がなくては、
何十本の矢も、みなあだになるのじゃ


〝これがダメなら次がある〟の思いが専心を妨げるのである。
熱中できるはずがない。


 熱中といえばフランスの大学者ビュデ。
 家事万端を妻にまかせて一意専心、勉学に没頭した。
「隣家が火事です。はやく、お逃げにならねば……」と、
書生が飛びこんだときも、
「すべて妻にまかせてあるから、家内に相談してくれ」と、
目もくれなかったという。
 ばかのような話であるが、一つのことに魂を、そこまで打ちこみたい
ものである。

 時空を超越して、一意専心、
目的達成に熱中すれば、
成就できぬ何事もないにちがいない。

==================================================
(引用、ここまで)


と教えてくださっています。


 また、海の近くに住んでいらっしゃったある方は、
「足を少しのばせば、いつでも行ける」と思うから、海水浴のシーズンを、
そのうちいつかで、長い間、とうとう行かずに過ぎてしまわれたとも、
お聞きしたことがあります。


「心」を重視される仏教だからこそ、富山という恵まれた環境にいることに
 感謝して、何座も尊いご縁にあわせていただいても、いつでも聞けると
思っていては、聞けない、近いところだからこそ遠き道理、ラクな聞法に
なってはならないと、より大切に仏法を求めさせていただきたいと思います。



つぶやき、、、


 浅田真央さん、銀メダル。
 どれだけのプレッシャーの中で、滑っていたのか。

 悔し涙の会見に、優雅な演技の陰には、言葉にならない努力があったに
 違いありません。
 感動と元気を、ありがとうございました



春なのに、涙が……。

2010-02-25 19:14:02 | Weblog

■今日の富山の気温は20度を超え、ぽかぽか春の陽気でした。
 いつもなら春で心も浮かれてくる(?)のに、
 消息を絶って、最近、顔を見ないものがあって(涙)。。。


 それは、愛用していた



「ジェットストリーム」のペン。



 ここひと月ほど、まったく、姿が見えず、 
 だから、不便で仕方がありません。


 これまで使っていたペンに比べて、インクがかすれず、ちょうどよい濃さで出て、
 すべるように軽ろかな書き心地が気にいっていました。


  しかも、黒・赤・青の三色になっていたので、板書をする時に、
 ちょうどよかったんです。


 それなのに、突然、姿を消して。 
 なぜだろう??と、思い出してみると、、、

 
 仕事柄、かなり酷使していたし、何度も落としたり(しかも水たまりに)、
 娘にブンブン振り回されていたり、
 挙句の果ては、頭をかじられてもいました。
 さぞかし痛かったと思います。


 かつて、大事に使ってもらえないおもちゃなどが、
 家出をするというアニメ(?)だったかを見たことがありましたが、
 あのペンも今ごろは、どこか遠くに行ってしまったのでしょうか??



 物を大事にしなければ、物から嫌われ、不自由しなければならないと
 教えられますが、その通りだと知らされました。



 高森顕徹先生著『光に向かって100の花束』には、次のように教えて
 くださいます。

(引用、ここから)
==================================================

 明治前期の大実業家・岩崎弥太郎氏は、剛直果断の性格で、明治時代の
代表的富豪であった。
 ところがどうしたことか、常に藁草履をはいたまま、大臣の官邸などに
出かけた。不審に思った人がたずねると、「母の言いつけだ」と答えた。
 岩崎弥太郎氏の母は、わが子が天下の富豪になってからも、常に藁草履を
作ってはいていた。
 そして弥太郎氏にも、「おまえも、これをはきなさい」と言って、「富んでも、
昔の貧しさを忘れて、おごってはなりませんよ」と教訓したという。

 ある人が、アメリカの大実業家のところへ、救済事業の寄付をたのみにいった。
 実業家は、そのとき、「ほんのわずかばかり使えばすむものを、なぜこんなに
たくさん使ったのだ」と、使用人を叱っている。
 なにをそんなに、叱られるほど使ったのかと、よくよく聞けば糊であった。
 たかが糊ぐらいのことで、あんなにケチケチしているのだから、寄付などは
思いもよらぬことと思いながらも、せっかくきたのだからと用件を話すと、即座に、
五百ドルの大金を、快く寄付してくれた。
 ことの意外に、びっくりしてたずねると、「私は平生、少しの糊でも無駄にせぬ
ように心がけている。だから寄付もできるのです」と、答えたという。

 物を粗末にする者は、物から
嫌われるから、不自由しなければ
ならないのだ。
 すべては人生の目的を果たすための
ものなのだから、わずかの物でも
粗末にしてはならない。

==================================================
(引用、ここまで)


 すべては、人生の目的を果たすためのもの。1本のペンも粗末にしないよう、
 寂しい思いをしながら、今も、家捜し中です。
 ひょっとして、外かもしれませんが……。


 渡辺崋山が、『商家の銘』として、「繁盛にしたがって、ますます倹約せよ」と
 挙げているのも、「なるほど」とも知らされました。



目的なく生きるのは、円形トラックをまわりつづけるのと一緒??

2010-02-23 20:16:28 | Weblog


■昨日は、富山の各地で、「春一番」が吹き、いよいよ春の到来を感じさせる陽気になってきました。夜は、伏木の法友が同朋の里に集まり、先日のテレビ座談会の復習です。
 今回は、『なぜ生きる』(高森顕徹先生監修)について、詳しく教えていただきました。


 その34ページに、次のようなところがあります。

(引用、ここから)
============================================================

 生きることは大変です。受験戦争を勝ち抜き、就職難をくぐり抜け、リストラにおびえて働き、老いや病魔とも闘わねばなりません。人間関係のストレスに悩まされ、事故や災害、会社の倒産など、不測の事態も襲ってきます。
 これらの苦難を乗り越えて、なぜ生きねばならぬのか。もっとも大事な「生きる目的」が示されぬまま、ただ苦しみに負けず「生きよ」「がんばれ」「死ぬな」の連呼は、ゴールなき円形トラックをまわりつづけるランナーに、鞭打つようなものでしょう。

============================================================
(引用、ここまで)


 ここで、もっとも大事な「生きる目的」が示されないまま生きるのは、

「ゴールなき円形トラックをまわりつづけるランナー」

のようなものだと、教えてくださっています。


 一般に、多くの人にとって、それぞれ、どんな「目標」があって、生きているのでしょう?

 ある人にとってはお金や財産を築くことでしょうし、地位や名誉があればと、休み返上で朝から晩まで必死に仕事をしておられる方もあるでしょう。
 また、いつまでも健康な身体を維持したいと、運動に汗を流し、食事や睡眠などに気をつけている人もあるかもしれませんね。
 皆、これらがあれば、幸せだと求めているものの一つでしょう。


 では、これら全てを手中におさめた歴史上の人物は?
 日本でいえば、豊臣秀吉があげられるでしょう。
 水のみ百姓から出世を重ね、最後は関白に上り詰め、信長なき後、大阪城から天下を睥睨しました。
 日本史上、最も成功した人物の一人に数えられる秀吉について、『白道燃ゆ』(高森顕徹先生著)には、次のように教えてくださっています。

 

(引用、ここから)
============================================================

 功成り、名遂げた太閤秀吉も、大坂城内に黄金の茶室を造り、天下の名器、珍宝を集め、美女をはべらせて、威勢を張ってはいたが、聚楽第の湯殿や便所にまで隠し堀を引いて舟を浮かべ、何時おそわれても、脱出できるようにしていたという。
 少年時代の秀吉は、裸で何処にでも、ねころんで平気であったが、権力を握り天下を取ると、得意の絶頂でありながら、内心は戦々恐々としていたのである。
「おごらざる者も、また久しからず、露とおち、露と消えにし我が身かな、難波のことも、夢のまた夢」
 彼の辞世は、人間の生きる目的は、他にあるということの明証である。

============================================================
(引用、ここまで)


 秀吉ほどの大成功をおさめれば、きっと満足して最期を迎えられるだろうと思いますが、秀吉の臨終の言葉に、安心や満足はなく、むしろ、空しさがにじむ一句になっています。
 だれでも、これで最期となれば、本音が出るともいわれます。
 とすれば、豊臣秀吉ほどの成功をおさめてもなお、心からの安心、満足はなかったということでしょう。
 お金や名誉、地位などは、「人生のゴール」ではなかったことの証明ではないでしょうか。


 親鸞聖人は、『正信偈』に、

「還来生死輪転家
 決以疑情為所止」

とおっしゃっています。

「還来」とは「行ったり来たり」際限もないことですから、車輪が転がるように(輪転)、安心満足というゴールのない円周を、限りなく廻って苦しんでいることを教えられ、現代の人にも分かりやすいように、この内容が教えられているのが、「ゴールなき円形トラックを走りつづけるランナー」だともお聞きしました。


「なぜ生きる?」

 もっとも大事な人生の目的がハッキリ明示され、苦しみ迷いの世界から出て、未来永劫の幸福に生かされることが仏教を聞く目的だと教えられています。

 

 伏木の法友と、同朋の里(射水市)で復習をして、本当に勉強になります。
 仏法上の友だちは、皆、懐かしい人たちなのです。
 これからも、よろしくお願いします。


 つぶやき、、、

 今朝、仕事である会議室に行ってドアを開けると、今、もっともお会いしたい方がいらっしゃいました。
 本来なら、行くはずがなかった場所です。それが、ちょっと事情があって、行くことになり、

「念ずれば転ず、転ずれば通ず」

が知らされるご縁でした。


一流選手。だから、練習も一番。

2010-02-21 21:50:49 | Weblog


■ここ数日、腹痛に悩まされていました(涙)。。。
 「病」は、「やまいだれ」の中に「丙」と書きます。
 それは、病気になれば、甲乙つけがたいところからきていると聞いたことが
 あります。

 頭痛で苦しむ人は、これ以上、つらいことはないと思います。
 かといって、腰痛や腹痛、その他、いろいろの病気を患っている人は、
 自分がかかっている病ほど、大変なことはないとしか感じられないからだそうです。

 今回の腹痛に、甲乙つけがたいの意味が、身につまされました。
 
 皆さんも、身体には、くれぐれも気をつけてくださいね。


■バンクーバーオリンピックにも、いよいよダントツ人気の選手が登場です!!
 それは、、、


「浅田真央さん」


■『福井新聞』(100206)によると、


「応援したい選手の1位はフィギュアスケートの浅田真央さん、
日本のメダルは1~4個と予想―。マーケティング会社「インテージ」
(東京)が1月中旬に行ったバンクーバー冬季五輪に関するインター
ネット調査でこんな結果が出た。
 15~69歳の男女千人が回答。応援したい人(複数回答)は浅田選手が
63%で圧倒的」


 その浅田選手は、才能に甘んじることもなく、辛い
トレーニングに取り組んでいるそうです。
 『アエラ』(100222号)「現代の肖像」(文=歌代幸子さん)には、

(引用、ここから)
==================================================

「『あすからはもう一日も休まず頑張ってやりますので』と
懇願されて、えっと驚いた。すごく熱心な子どもさんだった
ので、これ以上やられたらこっちがまいっちゃうなと思う
くらいで」(山田)
 毎日、1時間レッスンを受けて、4~5時間ほど自主練習
する。上級クラスになるとリンクを貸し切り、早朝や深夜に
およぶ。その送り迎えや試合に付き添うのも母親たちだ。
 高校時代の1年半、アメリカで練習していた姉妹のため、
母は現地と行き来して日々の生活を支えた。帰国後は中京大
附属中京高校のスポーツクラスに在籍し、豊田キャンパスに
あるリンクで練習に専念する。その間、教員がリンクを訪れ、
授業を行う。

==================================================
(引用、ここまで)


 高校の教員が、リンクで授業って、
 練習第一の生活だと、分かります。

 トップ選手は、生まれつきの才能も大きいのかなと思って
いましたが、やはり、練習あってこそだと知らされます。


『光に向かって100の花束』(高森顕徹先生著)には、
次のような話が紹介されています。

  
(引用、ここから)
==================================================

 ある人が、有名な音楽家タルベルグに、ピアノの演奏の
依頼にいった。
 近日にせまった新曲発表を、ぜひ、成功させたかったから
である。
 ところが、タルベルグの返事は意外であった。
「申し訳ないが、練習する日がたりません」
「あなたほどの大家、四、五日もあれば、これくらいの歌曲は、
わけないでしょう」
「いや、私は公開の席に出るには、一日五十回、一ヵ月千五百
回以上の、練習をしなければ出演いたしません」
 さすが達人の言というべきか。
 大家でも、かかる信念に生きているのだ。

 飲み、食い、眠り放題で、頭角を現そうとすることは、
木に縁って魚を求めるに等しい、と言わねばならぬ。

==================================================
(引用、ここまで)

 

 すべては、努力の結晶ですね。
 浅田真央さんが、オリンピックの舞台に立つのは、23日。
 努力が実を結ぶことを念じて、レッツ、応援!


 つぶやき、、、

 腹痛もようやく、ひと段落したようなので、今から、
エンジン再燃、始動したいと思います。
 とりあえずは、メールの返信を急いで、積もった仕事を
進展させないと(汗)。。。

 


100分の8秒が、「勝負」の分かれ目!?

2010-02-19 20:34:46 | Weblog


 バンクーバーの地から、次々に、オリンピックの結果が聞こえてきますね。

 中でも、惜しい、女子1000メートルで5位の小平奈緒選手。
 3位の選手との差は、


「100分の8秒」


だったといいます。

 4年間の努力の結晶が凝縮した時間が、わずか1分ちょっとの試合であり、
しかも、100分の1秒差で、「勝負」が決まります。


「優勝の英雄」と「一選手」は、まさに紙一重であり、シビアな勝負の世界の
一端がうかがえます。


 高森顕徹先生は、『なぜ生きる』に、このように教えられています。

(引用、ここから)
============================================================
噫、弘誓の強縁は、多生にももう、あいがたく、真実の浄信は、億劫にも
獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、かえりてまた、曠劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ(『教行信証』)

「ああ……なんたる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、求めつづけて
きた歓喜の生命を得ることができた。これはまったく、弥陀の強いお力によってで
あった。深く感謝せずにおれない。もし今生も、無明の闇の晴れぬままで終わって
いたら、未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。なんとか早くこの真実、
みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。こんな広大無辺な世界のあることを」

(中略)

 人生の目的成就した歓喜の生命を、「真実の浄信」と言われている。
 それはもう、百年や二百年求めて得られる、ちっぽけな幸せではなかった、と
知らされるから、「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことをえた」と
言われているのである。多生億劫の間求めても、得られぬものが得られたのだから、
「ああ!」と驚嘆されたのも当然であろう。

(中略)

 人生の目的どころではない、多生永劫の目的を果たさせていただいたという、
美しい感激に満ちた告白であることが知らされる。

============================================================
(引用、ここまで)


 仏教で説かれる時間のスパンは非常に長く、「劫」とは、四億三千二百万年です。その何億倍としたのが、上に出ている億劫です。

 その長い長い生命の歴史からいえば、今の人間界は何と短く、はかないもの
でしょう……。
 大河に浮かんだ泡が、ポッとできて、パチンとはじける間もないこの一生が、
本当の幸せに生かされるチャンスだと教えるのが、仏教です。
 ずーっと求めてきたことに、生きている一念に、今、遇えるから、
 仏法を聞かせていただける「今」が、まさに勝負といわれます。


 今日は、腹痛なので(涙)。。。
 いつも以上に頭がまわりませんでした。

 


長島選手の銀メダル! 忍耐は、すべての扉をひらく。

2010-02-17 19:27:51 | Weblog

 

 バンクーバー・オリンピックで、日本がメダルを獲得しましたね。

 中でも、「銀」に輝いた長島選手は、前回トリノ冬季五輪の屈辱を
バネとして、4年間、オリンピックでのメダルにこだわり続け、雑草の
ような立場から這い上がってきた末の勝利だったようです。

 詳しくは、こちら。(『読売新聞』100216


 きっと、試合の日に焦点を定めて、練習に明け暮れ、したいことも
犠牲にし、臨んだ努力の結晶でしょう。
 結果が出なくてもあきらめずに、忍耐し、黙々と練習を続けて
きたところを、見習いたいですね。


『光に向かって100の花束』(高森顕徹先生著)には、このように
教えてくださっています。

(引用、ここから)
============================================================


京都の大橋宗桂は、生来、将棋に堪能だった。
 江戸に下って、将軍家の御前で、本因坊算砂を撃ち破り、当代一の栄冠を
勝ちとったときのことである。
 一手また一手、指し進むうちに、次々とくりだす算砂の妙手に、宗桂の敗色は、
だれの目にも歴然と思われた。
〝いつ宗桂が駒を投げるか〟
 家康も、かたずをのんで見守っている。
 宗桂はしかし、そのまま、じっと考えに沈んでしまった。
 一刻、二刻たっても、まだ彼は、黙然と腕組みをして動かない。
 退屈になって家康は、一時席を立ち、入浴などして帰ってみても、いぜんとして
宗桂は不動だった。
「あとは明日、指しついだらよかろう」
 たまりかねた家康は、こう命じて、立ちあがろうとする。
「おそれながら、いましばらく」
 盤面を注視したまま宗桂は、泰然と引きとめた。
 やがてそしてスラスラと、三十手ほど指し進めた絶妙手に、さすがの
本因坊算砂も、無念の涙をのまざるをえなかったのである。
「天下のことも同じこと。何事も早く、見切りをつけてはならぬということだ。
工夫とねばりの大切さ。よいことを教えてくれたぞ」
 感嘆した家康は、こう宗桂を称賛し、五十石五人扶持を与え、幕府の将棋所を
つかさどらせている。
「もう一息が乗りきれず、立派な仕事をメチャメチャにする者が、いかに多いことか」
 アメリカの鉄道王、ハリマン氏も嘆いている。

 一塊の石炭も、永年地中に辛抱したればこそ、
ついにダイヤモンドと輝くのだ。
いわんや人生究極の、本懐成就をもくろむ者に、
二、三十年の辛抱がなんだろう。
 何事にしろ、真の栄光を獲得するには、
永年の工夫と、執念と忍耐が、必須条件なのである。

============================================================
(引用、ここまで)


 ご著書を拝読し、次々、飛び込んでくるオリンピックのニュースを
聞きながら、先月のテレビ座談会でのご教導も、思い返しました。


「寝ても覚めても、人間に生まれてきた目的に向かって、
努力しなければならない。
 余裕のある人は、いないのだから」

とお聞きしたことが、今なお、心に残っています。

 その時には、オリンピックでの優勝に向かってでさえ、
例えば、競輪の選手なら、4年間、雨の日も風の日も、
自転車に乗って通勤する人もあるくらい、四六時中、
頭について離れないのはオリンピックのことだ、と。


 当然、日常生活そのものが、オリンピック中心になります。


 まして、人間に生まれたきた目的を果たすために、
生活するままが、光に向かって進ませていただく日々に
なるよう、一層、聞法精進したいと思います。


 まずは、忍耐力をつけて(汗)、、、
 ブログの更新かな!?

 


整体で感じた、「思いやり」。。。

2010-02-16 21:03:46 | Weblog


 昨日は、思い切って、整体に行ってきました。
 腰痛がひどくて、人知れず、前傾姿勢で苦しんでいましたが、家内の
知人が整体師をしているので、おそるおそる尋ねてみました。

 というのも、本格的な整体にかかるのは初めてで、どんな治療か
分からなかったので。

 いざ、施術を受けると、

 

「イタタターッ!」
「ゴキ、ポキポキ」

 

と、指圧やら、腰を叩かれるやら、柔道の技?みたいな姿勢で、
腰を伸ばされるやら……。

 倍以上に感じた1時間でした。

 まだ腰は少し痛みますが、大分、ラクになりました!


 で、その時に、施術してくださったKさんは、
最初、「腰だけするちゃ」と言われていたのですが、途中で、


「やっぱり、少しでもラクになってほしいから、
全部、するちゃね」


と、痛みに関わる全身の部位のこりとかあまりよくないところを
診てくださって、感謝、感謝です。


 治療の時に、心掛けておられるのも、この点だそうです。

「尋ねてくる患者さんの苦しみを、少しでも軽減したい」。。。

それには、痛む部位だけではなく、関連する箇所もほぐして、
総合的な快方へ。


 仕事とはいえ、相手の苦痛を取り除き、楽になってもらうために、
全力を傾注しておられる背中に、プロのあるべき姿を見せていただきました。


 やっぱり、繁昌の元(ガラス張りのステキな建物でした)は、
「思いやりの心」
なのかな、と知らされるご縁でもありました。

 高岡のKさん、ありがとうございました!


 それで今日は、タイトルずばりそのものの、

『思いやりのこころ』(木村耕一編著)

を読んでいました。

 その中に、二宮金次郎さんの話が載っていました。
 各地の小学校で、しばしば見かける薪を背負いながら、読書して歩く姿の
銅像がありますね。
 その二宮さんが、ある場所の荒れた村の開墾を、殿様から指示され、
家屋敷を処分し、家族を連れて、その村に移り住み、農民たちと一緒に、
復興に向け、精励していた時のことです。

(引用、ここから)
============================================================

   ある時、金次郎は、丸い風呂に入りながら村人に教えた。
  「自分の利益ばかり考えている者は、風呂のお湯を、しきりと
  手前へかき寄せているのと同じだ。一時は自分の方へお湯が
  寄ってくるが、すぐに脇をすり抜けて向こう側へ流れていって
  しまう。結局、自分も恵まれることがない。
  これと反対に、常に相手のためを思い、自分の持っているものを
  与えようとする人は、お湯を向こう側へ押しやるのと同じだ。
  そのお湯は向こうへ行くように見えるが、実際には、ぐるっと
  回って自分の方へ返ってくる。相手も喜び、自分も恵まれること
  になるのだ」
   金次郎が一貫して村人に訴え続けたのは、利他の精神だった。
  「自分さえよければいい」という我利我利の心を捨てて、
  一致協力したからこそ、一つの目標に向かう団結が生まれ、
  不可能と思われていた事業を成し遂げることができたのであった。

============================================================
(引用、ここまで)


 自分さえ助かればいいのではない、
 やはり、他人も同じように、幸せになってもらいたいですよね。


 ひたすら、自利利他の菩薩道を、進ませていただきたいと思います。


(まずは、「思いやりの心がない」と叱られている家内の
手伝いをしようかなと、、、(汗))


子を持って、知らされる親心

2010-02-12 19:38:46 | Weblog


 ここ数日、子供が熱を出して、元気がなく、心配なのです(涙)。。。
 家内が仕事を休んで、世話をしているのですが、なかなか下がらず、
夜なんか、「ゼェゼェ」と激しい呼吸をしたり、ひたいに手をあてると、
低温やけどするほど熱くて。
 思わず見ておれなくて、アイスノンを用意したり、泣き止まない時なんか、
最近、腰を痛めていて咳をするのも響くぐらいなんですが(汗)、やっぱり、
抱っこするんですね。

「あっ、今、抱っこしてるし」

と、自分ながら、驚いています。

 やっぱり、親って、子供のことが心配になる遺伝子が組み込まれている
のかなって、思いました。

 数日前の、『毎日新聞』(100209)の記事にも、このようなことが
紹介されていました。

 下に、要約しましたが、、、
 あまりに簡単にまとめすぎているので、原文を読まれることをお勧め
します。


 高校受験のため、あるお母さんと娘さんが、埼玉県から石川県まで、
夜行電車で向かっていました。
 ところが、大雪で電車が途中の長岡駅(新潟県)でストップしてしまって、
あわや、翌日のお子さんの受験に間に合わなくなりそうになってしまうのです。
 娘さんは、涙が止まらなくなります。
 しかし、お母さんは、「絶対、あきらめない」と娘さんを励まして、
降り立った長岡駅から吹雪の中、二人で歩き出し、その間、お母さんは、
通過する車にヒッチハイクの合図を送るんですね。

 2時間半後、ガソリンスタンドに止まっている大型トラックの
運転手に声をかけたところ、、、

話がまとまって、長岡から石川の会場まで、送ってくれて、
試験開始10分前に到着したという出来事が出ていました。


 この記事を読んで、見事、合格を決めた娘さんもすばらしいですが、
特に、このお母さんのわが子を思う気持ちに、感動しました。
 ひたすら、わが子のことを思っておられるのが、分かるからです。

 そういえば、「断腸の思い」という言葉があります。
 これは、親心から出たといわれます。
『親のこころ』(1万年堂出版)に、次のように書かれていました。

(引用、ここから)
============================================================

 今から千七百年ほど前の、中国でのこと。
 船で長江を上り、蜀(中国南西部)へ攻め込もうとする軍隊があった。
 川の両岸には切り立った山々が連なっている。
 そこで、兵士の一人が小猿を捕まえた。鳴き声に気づいた母猿が、
一目散に駆けたが、小猿はすでに船の中であった。
 母猿はあきらめない。岸をつたって、どこまでも追っていく。
悲しげに叫ぶ母猿の声は、山々にこだました。まるで、子を案じ
号泣する母の姿、そのものである。百里余りも追いかけ、母猿は、
ついに船へ跳び込んだが、そのまま息が絶えてしまった。
 兵士たちが母猿の腹を裂いてみると、腸が、ズタズタにちぎれていたという。
どれほど子供がかわいかったことか……。
 軍を指揮していた武将・桓温は、この話を聞いて怒り、その男を
罷免したという。
「はらわたがちぎれるほどの悲しい思い」を「断腸の思い」というように
なったのは、ここからといわれる。

 動物の親でさえ、かくのごとし。
 両親に「断腸の思い」を抱かせたこと、幾たびか。

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(引用、ここまで)

 親という字は、「木」に「立」って「見」るほど、子供のことを
案じてくださるとも聞いたことがあります。

 いざ、親となって、

 病気になれば心配だし、同じような年ごろの子を見ると、
わが子が浮かび、少し高くても、いい学校に入れて
やりたいとの思いが、出てくるんだなぁ、と。

 仏法を聞かせていただくまでは、親が子を育て、面倒をみるのは
当然の義務と思っていたところもあったんですが(汗)、、、

「なぜ生きる」の人生の目的がハッキリ説かれていて、両親から
大変な御恩を受けて成長してきた、だから、今の自分があるし、
こうして大事なことを聞かせていただけていると知らされて、
以来、両親には、少しでも御恩返ししたいと思います。

※参照
「親の大恩十種」が、『父母恩重経』に教えられています。

 


2~4歳の加齢ごとに、約1秒短いんだって。

2010-02-09 18:58:01 | Weblog


 今朝、何気なく手帳を見ていたら、年が明けて、もう40日目。
 早いですねぇ。月日が過ぎるのは……(汗)。
 しかも、年がいくほど、時間が過ぎていくスピードが速く
感じられるようです。
 今日の『毎日新聞』の「余録」に、このような記事が
出ていました。

(引用、ここから)
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    時間の感覚は人と場合によりさまざまである。
   感じる時間の長さは年齢と反比例するという経験則
   「ジャネーの法則」の真偽を調べた実験もある
   ▲そのうち3分間の長さをあてる実験では、平均
   2~4歳の加齢ごとに約1秒ずつ短く感じるとの
   結果も出た。人間は時計や歳月で示される時間とは
   別の、心の時間をも生きているのだ(一川誠著
   「大人の時間はなぜ短いのか」集英社新書)

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(引用、ここまで)


 ホント、このとおりだなと思いますね。

 小学校から帰って、家にランドセルを放り投げ、
外で日が暮れるまで遊んでいたころに比べ、今は、
あれも、これも、と時間に追われて、過ぎてしまえば、
一日終わってしまうことが、しばしばで。

 学生の時に、
「社会人になると、時計の時針が、秒針に感じられるよ」
と聞いて、ホントですか?と疑ってましたけど、やっぱり
そうなんですよね。

 そういえば、時間の過ぎ行く速さを、年代別に、電車の
種類で教えた例えを、何度か聞いたことがあります。
 進学、受験、就職、結婚など、人生の大きなイベントが
集中する20代までは、普通列車で進んでいるようなものですが、
年を経るごとに、急行になり、特急、新幹線、
最後は、ブレーキの壊れた弾丸列車に乗ったように感じるほど、
飛ぶように月日が過ぎるといいます。

 だから、過ぎてしまえば、瞬く間なわけで、こういう時ほど、
何を優先すべきかハッキリさせて、ひたすらその目的に向かって
進んだ方がよいようです。

『こころの道』(1万年堂出版)には、『徒然草』188段を
通して、書かれているところがあります。

 説教師になろうとした男が、本来の目的を忘れ、まずは、
馬の乗り方や歌の稽古に励んでいるうちに年をとり、肝心の
仏法を学ぶことができなかったと大いに後悔したという話です。

 その後、こう続きます。

(引用、ここから)
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   「愚かなのは、この男だけではない。
   大きな目標を立てても、『まだまだ生きていられる』と
   のんびり構え、目の前のことに心を奪われている者ばかり。
   これでは、何一つ成し遂げられない。どんなに悔やんでも、
   過ぎ去った歳月は返ってこないのだ。
   しかも肉体は、勢いよく坂を下る車輪のように、急速に
   衰えていく」
   と手厳しい。

   では、どんな心がけが必要なのか。
   『徒然草』は続ける。
   「まず、生涯に果たすべきことの中で、一番大切なものは何か、
   よく考え、ハッキリさせることだ。
   それ以外のことは思い切って断念し、最優先すべき目的に
   向かって努力すべきである」
   「それは、一日、一時に縮めても同じである。やるべきことが
   山ほどある中で、何が一番重要かを的確に判断しなければならない。
   それ以外は投げ捨てて、少しでも価値の高いものから順に
   取り組むべきだ。
   どちらも捨てられないと執着していては、一つも成就しないであろう」

   目的がハッキリすれば、何を優先すべきか、自と明らかになる。
   七百年前の教訓ではあるが、慌ただしい現代にこそ、
   必要な心がけではなかろうか。

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(引用、ここまで)

 優先順位の高いものから。
 そうしないと、肝心の目的果たせないまま、
終わっちゃいますからね。

 でも、体感速度が速いって最近感じるのは、それだけ
年をとったのかな……。ガーン。。。(涙)

 ひたすら、
「なぜ生きる」の正しい方角に向かって、
進むだけですね。