月乃和熊(ツキノワグマ)のささやき

歴史好きオヤジが細々と大震災、水害、雪害の復興花火や図書館の蔵書の支援を続けていまふ。

日本橋 按針通り

2012-12-28 18:00:00 | 歴史こぼれ話
こんにちは、月乃和熊(ツキノワグマ)です!
  3.11東日本大震災 忘れない!風化させない!!
  
  月乃和熊(ツキノワグマ)も賛同しております
---------------------------------------------------------
日本橋 按針通り

日本橋室町に按針通りがある。

かつて江戸幕府創生時に、徳川家康や秀忠の通商の顧問となった、ウイリアム・アダムスこと三浦按針(みうら あんじん)の屋敷跡があった通りだ。


屋敷跡から中央通りを望むと、三越新館がみえる。


イギリス人であったウイリアム・アダムスは、リーフデ号に航海士として乗り組み、5隻からなる船団で1598年6月にオランダのロッテルダムを出航。
大西洋を経て喜望峰を回り太平洋横断を目指すが、途中僚船が難破し慶長5年3月16日(1600)ただ一隻で九州に漂着した。

関ヶ原前夜の豊臣政権をよそに、徳川家康はウイリアムスを江戸に招き入れ通商、通訳、操船・造船、数学、天文学などの顧問として重宝する。
ウイリアムスは幕府に何度も帰国を願い出るが、聞き入れられることはなく、やがて日本橋の商人の娘と結婚し、現在の日本橋室町に屋敷を構えた。

そして、外国人ながらも250石取の旗本に取り立てられ、相模国三浦逸見に領地を拝領すると、姓を領地の「三浦」、名を水先案内人の意である「按針」として「三浦按針」と名乗るようになった。

しかし元和2年(1616)4月に家康が亡くなり、幕府が鎖国政策を進めるようになると、三浦按針の活躍の場は減り唯一貿易が許されていた平戸で、元和6年(1620)5月26日失意のうちに没したのでありました。

三浦按針ことウイリアム・アダムス享年57歳


日本橋界隈は江戸の発展と、その影を今に伝える大変興味深い街でもありました。

---------------------------------------------------------
気が向いたらポチッとな    blogram投票ボタン
---------------------------------------------------------
<乃木神社の行事>・・・乃木神社の最新情報・・・◆毎月1日と13日は月次祭齋行
---------------------------------------------------------
【飲んで食べて東日本を応援】
食べて飲んで福島県を応援しよう!

たすけあおう食べて飲んで宮城県を応援!


たすけあおうNippon岩手県を応援!

”故郷愛”新潟県の食はいかが?

アフィリエイトで得られた金額は寄付します。ここから注文してね


最新の画像もっと見る

コメントを投稿