kiske3の絵日記

一コマ漫画、トホホな人の習性、

映画批評、恐怖夜話、あらゆる

告知をユルく描いて書いてます。

阪神淡路大震災、尼崎にて。

2011年02月05日 | ボスヒコの「恐怖夜話スペシャル」
16年前のその日、友人が開いてくれた私の誕生日パーティだった。誕生日は違う日なのだが、私は当時から何かしら幹事や主催をしていたので、労いとして友人達が企画してくれたのである。いつものようにバカで盛大な一次会が終わり、普段ならそれで解散している所、菩須彦の実家の離れで二次会をしようと言うことになり、わざわざ大阪の梅田から兵庫の尼崎まで移動した。二次会とは名だけで、私の部屋でうだうだとスノボのビデオを観たり、もうすぐライブがあるドリームシアターの話などしていた。何人か帰った後の残党がうたた寝しだした明け方、当時、神戸に住んでいた友人たっふるが思い立ったように帰ると言って出て行った。テレビの前にカノリンヌとタイキチが酒を呑みながら寝転んで雪山の映像を観ていた。私もベッドの上で寝転んで、彼らの背後からテレビを観ていた。










そして、5時46分。









・・……ドーーーーーーーーーーーーーーーン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!









今まで聞いた事が無いくらいの音が地の底から聞こえた。ベッドの上で自分が縦方向に大きく跳ねたのには気づいたが、その時点ではこれが何を意味しているのかは理解出来なかった。衝撃的事件はスローモーションに見え、感じる。一発だけの大きな縦揺れの後、ズガガガガガと激しい横揺れが続いた。私が跳んでいる最中に見えたもの。まずは「パンッ!!」と言う乾いた音と共に土壁があちこちで割れていき、部屋中に砂煙をまき散らし、本棚からは本や置物が一斉に飛び出し、当時ではブラウン管テレビでは大きいサイズのバズーカというテレビがカノリンヌらの方向へ倒れて来た。そして、全ての灯りが消え、漆黒の闇につつまれた。その時はまだ驚きの方が強く、恐怖心は無かった。しかし、











恐怖の感覚はやっと次の瞬間にやってきた。










・・……ザアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァアアァァ!!!!!!!!……・・・・










「ガラガラ!!」「ガッシャ-ン!!」なども含まれている恐怖の音。擬音が当てはまらないほどの音は、屋根と言う屋根から全ての瓦が雪崩の如く滑り落ちて割れる音だった。全く光りが無い中、街全体の瓦やブロック塀が落ち、しばらく恐怖のこだまとなって人間や動物を恐れさせた。

携帯電話が現在よりも普及していなかった阪神大震災では、携帯電話は固定電話より若干繋がりやすかったが、それも期待出来ないくらいの状況だった、揺れが落ち着き、静まり返った空気の中、私はすぐに犬小屋を庭の真ん中に移し、懐中電灯を持って、母屋に向かった。当時の私の実家は、元々農家だったので古くて大きな建物だった。大黒柱が太くて頑丈であった。しかし、その黒くて大きな影はゆがんでいた。全壊レベルだった。犬も吠えれずにいる暗闇の空、周囲から泣き声や叫び声がかすかに聞こえてきた。家がゆがんだ為、母屋のドアはなかなか開かなかったが、なんとかこじ開けて両親の寝室に土足でかけこむと、母が大きなタンスの下敷きになっていた。母は腰を骨折していて失神していた。父と共に彼女を助けて、比較的安全な離れの私の部屋に担ぎ込んだ。こんな日に私を祝ったが為に被災者となったカノリンヌらも早速、片付けをしてくれていた。片付けをしながら、私は庭の真ん中で恐怖で震えている愛犬と冬の朝を迎えた。








これが、私のリアルな震災体験です。これでもだいぶ端折っています。ドリームシアターの大阪公演は当然中止。彼らも大阪のホテルで震災にあっています。怖いのは、明け方に神戸に帰ったたっふるの車が高速道路から降りた後、その高速道路が横倒れした大惨事となりました。虫の知らせだったようですが、危ない知らせです。私の誕生日パーティもなぜ、その日になったのか、そして、普段ならやらない二次会をする為に大阪から尼崎に移動した事。偶然とはいえ、不思議でなりません。しかし、あの時になぜか皆、もやもやした興奮状態であったのを憶えています。地震前に出す電磁波が身体の中の水分を刺激したのかもしれません。

次の日から1週間くらい全ての交通が麻痺、尼崎周辺でも死傷者が続出。私の実家の近所の二階立てアパートは地割れの中に落ちて、丸ごと無くなっていました。仕事仲間や友人の友人や家族が犠牲になっていました。当時の私はテレビの報道機関のCGの仕事もやっていたので、勤務地の大阪の梅田までチャリで往復していました。被災者だからこそ、秒単位の情報が必要なのが分かるので、気持ちとして休む事など出来ませんでした。雨が降る前に実家や離れの修復。近所の手伝い、日勤、泊まり勤務。御陰でPTSDになる暇もありませんでした。ある程度、家の事や弟や妹の事が落ち着いた震災一ヶ月後、私は当時住んでいた部屋で、突如、金縛りと過呼吸に襲われました。気づかないふりをしていた溜まりに溜まった疲労が気を緩めた瞬間に決壊したのでしょう。その夜、初めて救急車に乗りました。


今後の地震は阪神淡路大震災と同等か上のもの。私が生きている間に一つや二つ、ドでかいのが起こるかもしれません。皆で助け合って生き残るのみです。今週辺り、尼崎に帰って黙祷して来ます。













「菩須彦ライブペインティング日記」
http://bosshiko.blog83.fc2.com/

★ライブペインター菩須彦のコミュ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1969184


ヨロシクね。                      ボスヒコ
 ここを押してください!ランキングにご協力ください!
 

最新の画像もっと見る