沈丁花
2009-03-19 | 日常
ところどころで、桜の開花便りが聞こえてきました。
うちの庭の沈丁花も開花となり、なんとも私の好きな匂いに思わず酔いしれる今日この頃です。
先日、夫は、急性期から3ヶ月間入院していた(その後リハビリ病院に4ヶ月間入院)病院で、わずかに残っている脳動脈瘤の状態を診るため1泊2日でカテーテル検査を受けてきました。
仮に動脈瘤が担当医師が必要以上に大きくなっている、と判断したら、破裂の危険がある場合、なにかしら治療をする、ことになります。
結果は、前回(1年前)とほぼ変化はなく、一安心ということです。
これからも、一年に一度は、カテーテル検査またはMRI検査をしながら経過観察、ということです。
あの時の看護師さんも勤務していらして、夫は「ICU」にいた期間も長く重病人だったので、皆さん覚えていてくださって、
「○○さん、元気になられたねー!」
とたくさんの看護師さんから声を掛けていただきました。
しかし、夫は、この病院にいた3ヶ月間の記憶がまったくありません。
クモ膜下出血は、病院に運ばれてすぐ(状態が良ければ)、開頭手術、又はコイル塞栓術を行うらしいのですが、夫の場合は動脈瘤破裂による出血が多量であり、呼吸も停止しており、とても手術などできるような状態ではなかったようです。
出血が多量なのは、夫は心筋梗塞の持病があり、血流を良くする薬を飲んでいたから。
なので、初診時、直ちに気管切開をし、人工呼吸器を付け、血流を良くする薬の効力が切れるのを待ち(効力が切れるのに5日はかかるときいています)、少しでも状態が落ちつくまで寝かせておくしかなかったのです。
クモ膜下出血の中でもステージⅠ~Ⅴのうち、Ⅴ、と最も悪く、毎日が予断を許さない状況でした。
あの日、私が病院に駆けつけた時は・・
望みはありません、子供さんを呼んであげてください、
と担当医に言われました。
その後、夫の生命力(やがて呼吸も吹き返し、心臓もよく動いていた)で、運よく、少しだけ峠を越えることができました。
夫の生命力はすごいものでした。
様々な治療をするたび、良い方向へ傾いていきました。
倒れてから20日間寝かせておき、状態が安定するのを待って、脳動脈瘤コイル塞栓術を行い、脳の出血を止める治療をすることができました。
しかし、一命は取り留めたものの、深昏睡状態は続いており、いつ意識が戻るかもわからない、出血も多く脳の障害も大きいので、助かっても植物状態、もしくはかなりの障害が残る、と言われていました。
そんな夫が、ひとつずつ体に付いていた管が取れ、
確かに麻痺は重いが・・
自宅に戻った今では、3度の食事をなんでも美味しそうに食べ(きざみ食でもなくとろみもつけず皆と同じものを)、今、WBCを楽しみに観ている。
お医者様からみれば、神様の思し召し、2度目に与えられた命、そんな言葉をいただきました。
私は、夫危篤の夜、
病院の待合室の布団に包まって横になりながら、
もし夫が亡くなったら・・
喪主は、私だなあ、とか、
喪主の挨拶は何を言ったらいいだろう、とか、
喪服(着物)はどこにあったかなあ、とか、
子供はいつまで学校を休ませればいいか、とか、
私も未亡人になるんだなあ、とか、
周りにいる未亡人の顔を思い浮かべ私も仲間になるんだ、と思いました。
そして、生命保険はいくら入るんだろう(お金のことをいうとさもしいと言われてしまいそうですが)、とか、
(実際、夫が亡くなってしまったら、お金がなくてはやってゆけないから)
悲しみにくれていましたが、
夫の生き死にに面しているのに不謹慎なことを考えていました。
土壇場まで追い詰められると、人間って・・こんなものだと・・思いました。
夫がもし・・と思うと、悲しい(夫がかわいそう)、という気持ちより、
これから私はどうしたらいいんだ!勝手にいかれたら困るじゃないか!!
という心理の方が勝っていたと思います。
人は誰でもいつか天に召される。
過去の歴史は人の生き死にの積み重ね。
死をもって人に大事なことを伝え、人は成長していく。
分不相応ながら、そんなことを考えさせられました。
うちの庭の沈丁花も開花となり、なんとも私の好きな匂いに思わず酔いしれる今日この頃です。
先日、夫は、急性期から3ヶ月間入院していた(その後リハビリ病院に4ヶ月間入院)病院で、わずかに残っている脳動脈瘤の状態を診るため1泊2日でカテーテル検査を受けてきました。
仮に動脈瘤が担当医師が必要以上に大きくなっている、と判断したら、破裂の危険がある場合、なにかしら治療をする、ことになります。
結果は、前回(1年前)とほぼ変化はなく、一安心ということです。
これからも、一年に一度は、カテーテル検査またはMRI検査をしながら経過観察、ということです。
あの時の看護師さんも勤務していらして、夫は「ICU」にいた期間も長く重病人だったので、皆さん覚えていてくださって、
「○○さん、元気になられたねー!」
とたくさんの看護師さんから声を掛けていただきました。
しかし、夫は、この病院にいた3ヶ月間の記憶がまったくありません。
クモ膜下出血は、病院に運ばれてすぐ(状態が良ければ)、開頭手術、又はコイル塞栓術を行うらしいのですが、夫の場合は動脈瘤破裂による出血が多量であり、呼吸も停止しており、とても手術などできるような状態ではなかったようです。
出血が多量なのは、夫は心筋梗塞の持病があり、血流を良くする薬を飲んでいたから。
なので、初診時、直ちに気管切開をし、人工呼吸器を付け、血流を良くする薬の効力が切れるのを待ち(効力が切れるのに5日はかかるときいています)、少しでも状態が落ちつくまで寝かせておくしかなかったのです。
クモ膜下出血の中でもステージⅠ~Ⅴのうち、Ⅴ、と最も悪く、毎日が予断を許さない状況でした。
あの日、私が病院に駆けつけた時は・・
望みはありません、子供さんを呼んであげてください、
と担当医に言われました。
その後、夫の生命力(やがて呼吸も吹き返し、心臓もよく動いていた)で、運よく、少しだけ峠を越えることができました。
夫の生命力はすごいものでした。
様々な治療をするたび、良い方向へ傾いていきました。
倒れてから20日間寝かせておき、状態が安定するのを待って、脳動脈瘤コイル塞栓術を行い、脳の出血を止める治療をすることができました。
しかし、一命は取り留めたものの、深昏睡状態は続いており、いつ意識が戻るかもわからない、出血も多く脳の障害も大きいので、助かっても植物状態、もしくはかなりの障害が残る、と言われていました。
そんな夫が、ひとつずつ体に付いていた管が取れ、
確かに麻痺は重いが・・
自宅に戻った今では、3度の食事をなんでも美味しそうに食べ(きざみ食でもなくとろみもつけず皆と同じものを)、今、WBCを楽しみに観ている。
お医者様からみれば、神様の思し召し、2度目に与えられた命、そんな言葉をいただきました。
私は、夫危篤の夜、
病院の待合室の布団に包まって横になりながら、
もし夫が亡くなったら・・
喪主は、私だなあ、とか、
喪主の挨拶は何を言ったらいいだろう、とか、
喪服(着物)はどこにあったかなあ、とか、
子供はいつまで学校を休ませればいいか、とか、
私も未亡人になるんだなあ、とか、
周りにいる未亡人の顔を思い浮かべ私も仲間になるんだ、と思いました。
そして、生命保険はいくら入るんだろう(お金のことをいうとさもしいと言われてしまいそうですが)、とか、
(実際、夫が亡くなってしまったら、お金がなくてはやってゆけないから)
悲しみにくれていましたが、
夫の生き死にに面しているのに不謹慎なことを考えていました。
土壇場まで追い詰められると、人間って・・こんなものだと・・思いました。
夫がもし・・と思うと、悲しい(夫がかわいそう)、という気持ちより、
これから私はどうしたらいいんだ!勝手にいかれたら困るじゃないか!!
という心理の方が勝っていたと思います。
人は誰でもいつか天に召される。
過去の歴史は人の生き死にの積み重ね。
死をもって人に大事なことを伝え、人は成長していく。
分不相応ながら、そんなことを考えさせられました。