映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

皆殺しの天使(1962年)

2018-01-17 | 【み】



以下、イメージフォーラムHPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 オペラ観劇後に晩餐会が催された邸宅。20人のブルジョアが宴を楽しんでいる。夜が更け、やがて明け方になっても、誰も帰ろうとしない。次の夜が来ても、誰もが帰らない。皆、帰る方法を忘れたか、その気力も失われたかのように客間を出ることができないのだ。

 召使いも去り、食料も水も底をつく。何日間にもわたる幽閉状態が続き、人々の道徳や倫理が崩壊していく。突如現れる羊や、歩き回る熊の姿。

 事態は異常な展開を見せていく・・・。

=====ここまで。

 不条理映画は大好きだけど、これは想像の斜め上を行く展開で、ボーゼン、、、。

   
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 イメージフォーラムでのブニュエル特集にて。平日だったのに結構な人。先週いっぱいで終わりの予定が、「好評につき上映延長」なんだとか。スクリーンで見ることができる機会はそうそうないので、分かる気がする。


◆これはサバイバルの話よ、多分。

 冒頭から、同じシーンが繰り返されて、映写機のトラブルかと思ったよ、、、。まあ、もちろんトラブルなんかじゃない。上記にストーリーをコピペしたけど、見ているとストーリーと呼べるストーリーはないと言っても良い。

 本作は一般的には、“ブルジョワ批判”と言われていて、まあ確かにそうだと思うけれど、なんかもう、それ以前の問題という気もする。つまり、ブルジョワ批判というより、人間批判、みたいな。人間のおかしさをこれでもか、と描いていると思うのだよね。屋敷に閉じ込められて(というか、勝手に閉じこもって)数日過ぎて、水が無くなってきた辺りから、もう、ブルジョワもクソもない、遭難した人々のサバイバルみたいな様相を呈してくるのだから。

 挙げ句の果てには、熊やら羊やら、動物たちが屋敷内を闊歩し、人間たちを嘲笑うかのよう。羊の内の1匹は、人間たちにおびき出されて(喰うために)殺されてしまうんだけれど。

 そもそも、屋敷から、どういうわけか出られなくなる、、、、なんてのは、不可抗力、神の見えざる手による仕業。ブルジョワだって逆らえない。しかも、彼らは、必死で屋敷を出ようとはしていない。

 この、何だか分からなさ、、、が、本作のミソだけれど、閉じこもっている間に、自殺者も出るし、病気で瀕死の状態になる人もいるし、まさしく屋敷内はカオスと化していて、『ビリディアナ』の乞食たちの宴会と同じく、またしても“滅茶苦茶”なのよ、、、。ブニュエルさんは、こういう混沌とか、滅茶苦茶、グチャグチャがお好きなのね。見ている方の頭の中も、ウニ状になります。


◆皆殺しの天使

 で、このタイトルですよ。ブニュエルは、親しい作家が将来の作品のために用意していたタイトルを拝借して、本作に付けた、ってことなんだけど。

 この、意図せずに閉じ込められて、屋敷から出ない限り死を待つのみ、つまり、自分の命運を神の見えざる手に委ねるしかない状態が、まあ、まさに“皆殺しの(鍵を握る)天使”という風にも言えなくもないかな、と。

 まあ、究極的には、人間というのは自分の寿命は自分で決められない、何か見えざる力に動かされている要素が多分にある、と考えれば、世界中の人々は、皆殺しの天使に操られている、とも言えるんじゃない? とか。

 閉じ込められていた人たちは、一旦、屋敷を出ることが出来るんだけれど、その後、教会にぞろぞろと入っていき、そこでふたたび閉じ込められることが暗示されてエンドマークとなるんだけど、なんか、こうして閉じ込めが繰り返されること自体、人生のメタファーなのかもね、とか。だって、生きていれば、どうにもならなくて足掻いたりもがいたりするだけの事態に直面すること、誰にだってあるじゃない? ある意味、人生のブラックボックスに閉じ込められた感じよね。

 屋敷から一旦出る過程が、実にふざけていて笑っちゃう。ワルキューレ(じゃじゃ馬の処女という意味)と呼ばれているレティシアという女性が、いきなり「今、私たち、あの時(閉じ込めが始まったとき)と同じ位置にいるわ!」とか言って、皆がその時の会話や行動を再現してみると、難なく部屋からも屋敷からも出ることができたのです! っていうことなんだけど、、、見ていて思わず噴き出しました。そりゃないでしょ、ブニュエルさん、、、。

 屋敷から出ると、屋敷の異変に気付きながらも屋敷に突入できずにいた警察が待ち構えていたり、晩餐会が始まったときに出て行ってしまった使用人が戻ってきたり、、、。なんか、狐に化かされて元に道に戻ってきた迷い人のような感じです。あらら、、、。

 まぁ、とにかく、本作はブニュエルさんのやりたい放題に翻弄された挙げ句に、最後はあっけなく放り出されてぽか~ん、、、て感じでした。

 

 




あと、5回くらい見たら、もう少しマシな感想が書けるかも。




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ビリディアナ(1961年)

2018-01-11 | 【ひ】



 修道女のビリディアナ(シルヴィア・ピナル)は、宣誓式を目前にしたある日、学費を出してくれた伯父ハイメ(フェルナンド・レイ)が宣誓式には出られないが、その前に会いたがっているとシスターに聞かされ、気乗りしないまま、シスターに強く促されて修道院を後にする。

 ハイメは、亡き妻そっくりに成長したビリディアナに劣情を催し、修道院に帰らないでくれと頼むが、ビリディアナは聞き入れない。そこで、ハイメはビリディアナをクスリで眠らせ、犯そうとするものの、何とか思いとどまる。しかし、ビリディアナ本人には「犯してしまった」と嘘を言って悪あがきするものの、ビリディアナはショックを受けて修道院へ帰ってしまう。

 しかし、ビリディアナはその帰途で、ハイメが自死したことを知らされる。自責の念に駆られたビリディアナは、償いのつもりか、修道院へは戻らず、ハイメの敷地に恵まれない者たちを集めて施しをし始めるのであった。

 そんな生活をしているある日、ビリディアナの暮らす屋敷に、ハイメの息子ホルヘ(フランシスコ・ラバル)が恋人を連れてやって来る。ホルヘはビリディアナに興味を持ち、彼女を何とか振り向かせようとするのだが、、、。

 ……メキシコ時代のブニュエルがスペインにこっそり帰って撮ったという本作。スペインでは上映禁止になるが、カンヌでパルムドールを受賞し、メキシコ映画として各地で上映されることになったものの、ヴァチカンの怒りを買うなど、相変わらずの問題児ぶりを発揮した作品。
   
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 昨年末からイメージフォーラムで開催されているブニュエル特集。こんなの、そうそう滅多にやらないだろうから頑張って見に行きました。


◆カトリックへの挑戦?

 allcinemaでのあらすじには、「女性の抑圧された性をテーマにした心理ドラマ」なんて書かれているけど、どーなんですかねぇ、これ。私は、どっちかというと、カトリックへの挑戦というイメージを受けたんだけれども、、、。

 もうね、ビリディアナが修道女にあるまじき“肉感的女性”なわけですよ。これは、ハイメおじさんが、アッと言う間に陥落するのも仕方がないよなぁ、、、とかなり同情してしまう。女の私が見ても、「これは、、、」と思うのだから、男性が見ればそりゃそーでしょ、と。

 さすがブニュエル、敢えてこういう女優を探してきたんだろう、と思いきや、「(恋人の)シルヴィア・ピナルを主役に使うなら金出すよ」と本作の製作者に言われてのことだったらしい。もの凄い美人、というわけじゃなく、ほどほどの美人だけど、そこがまたミソだろうなぁ、きっと。

 ……と、下品なことばかり書いてすみません。でも、本作において、ここは非常に重要だと思われるので。

 でも、このハイメおじさん、ちょっとやり過ぎる。ビリディアナが明日修道院へ帰る、という日に、「私と結婚してくれ」と迫るのだが、当然断られる。そうすると「じゃあ、せめて願いを聞いてくれ」と言って、何をお願いしたかと思えば、なんと、ビリディアナに亡き妻がその昔に着るはずだったウエディングドレスを着せるという、、、。

 そして、クスリを入れたお茶を飲ませて彼女を眠らせると、ベッドに運んで横たえ、花嫁姿で眠るビリディアナを撫で回し(キモい、、、)、遂に我慢できなくなって彼女のドレスの襟元を開け、ブチュ~っとキス(ウゲゲ、、、)をしたかと思うと、ハッと我に返って、襟元を元に戻し、慌てて部屋から出て行くのでありました、、、。

 気持ちは分かるが、これはキモい。パンフの解説にも、“屍姦”とあるが、まさにそれを想像させるシーンで、序盤からこれじゃぁ、一体この先どーなるのさ、、、、と思って見ていたら、期待に違わぬ展開に……。

 ハイメおじさんは、ビリディアナに“あんなこと”をしてしまったことを悔いてか、はたまた、“そんなこと”までして引き留めたビリディアナが振り切って出て行ってしまったからか、はたまた、“あんなこと”や“そんなこと”をした自分を嫌悪したからなのか、首を吊ってしまう、、、。なんという極端なおじさんだ。


◆極端から極端へ動く登場人物たち。

 でも、その後のビリディアナも、負けず劣らず極端な行動に出る。自責の念にかられたせいか、修道院には戻らず、ハイメおじさんの敷地に、近所の“乞食”たちを集めて施しをするという、、、。罪滅ぼしなら、神の僕となって「罪深い私をお許しください」とか何とか、ひたすら祈り三昧の人生の方が合っている気がするんだけど、それって信仰心のない人間だからそう思っちゃうのかしらん。

 この乞食たちは、最初こそ、おずおずとしていたけれども、アッと言う間に図々しい人々に変貌。これこそ、コツジキ、という感じ。この乞食のキャスティングに、ブニュエルはかなり腐心したとのこと。その甲斐あってか、見ていて反吐が出そうなシーンも多い。長年ハイメおじさんに仕えた使用人たちも辞めていくが、当然だろう。

 こうして、ビリディアナのやることは、どうも裏目裏目に出る感じの描写が続く。

 また、途中から現れるハイメおじさんの息子ホルヘも、ビリディアナに色目を使って、ビリディアナも一見、修道女の延長みたいな感じで振る舞っているけど、まんざらでもない感じに見える。ビリディアナという人間の芯の部分が外部的要因からも、彼女自身の内面からも、大きく揺らいでいる、、、ってこと?

 さらに、乞食たちの図々しさは度を極め、ビリディアナたちが不在の間に屋敷に入り込み飲めや歌えの乱痴気騒ぎ、部屋も荒らしまくり。記念写真を撮ろう!とかって、乞食たちのとったポーズは、あのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思い起こさせるという、、、。
 
 そんなとんでもない状況になっているところへ、ビリディアナやホルヘたちが戻ってくる。乞食の一人がビリディアナに襲い掛かってレイプしようとすると、ビリディアナは失神(?)し、ホルヘが別の乞食を使って、ビリディアナを襲っている乞食を殺させる、、、、とか、もう滅茶苦茶。

 ビリディアナは2度も犯されそうになり、未遂に終わる。

 そんなことがあって、結局ビリディアナは、自ら禁を犯す覚悟をしたのか(つーか、間違いなくそうだろう)、ある夜、思い詰めた表情でホルヘの部屋を訪ねる。が、しかし、そこには家政婦ラモナがいた! そう、ホルヘは、ビリディアナに色目を使いながら、ラモナともとっくに関係を持っていたわけ。で、ホルヘ、ビリディアナを自室に招き入れ、ラモナにも「君はそこに居てくれて良い」なんつって余裕をかまし、3人でテーブルを囲んでカードゲームをし始める、、、。で、エンドマーク。

 へ? ……これってつまり、、、3Pの暗示、、、ってこと? いや、まさかそんな、、、と、とりあえず頭の中で打ち消して劇場を後にしたけど、帰宅後パンフを読んだら、「三角関係あるいは三人婚を暗示」と書いてあるではないか!! え゛~~っ! まあ、でも、そうかもね。

 修道女の宣誓式に始まり、3Pで終わる。すげーハナシだ。そら、上映禁止にもなるわさ。


◆ルイス・ブニュエル

 ハイメおじさんが、ビリディアナにドレスを着せる前、なんと! おじさん自らが、ハイヒールを履き、ドレスのコルセットを身に着ける、というシーンがありまして、これにはのけぞりました。

 しかも、ハイヒールを履く脚をアップで撮っている。ブニュエルって、脚フェチだよね、多分。確か、『小間使の日記』でも、ジャンヌ・モローが網タイツの脚にハイヒールを履くシーンがあって、アップだった気がする、脚。何というか、撮り方が一緒なのよ。

 あと、終盤、ビリディアナが乞食に犯されそうになったとき、ホルヘに使われた乞食は、ホルヘに「お前を金持ちにしてやる」と言われて金を握らされるんだけど、(こう言ってはナンだが)あのような乞食になっても、まだ金持ちになりたいとかいう気持ちがあるものなんだろうか、、、? とちょっとばかり意外な感じがした。乞食は3日やったらやめられない、っていうの、割と説得力ある気がしていたのよね。

 乞食たちの大饗宴のシーンも、もう、これでもかっていうくらいに嫌悪感を煽る描写が続くんだけど、これは、ビリディアナの罪滅ぼしの好意をとことん貶めるっていうことなのかしらん。どうしてここまで悪意さえ感じる描写にしたのか、と考えると、やっぱし、カトリックへの挑戦ではないかと感じてしまうんだよなぁ。

 パンフによると、ブニュエル自身は「本作が不敬な描写に満ちてしまった点は、意図せざることであった」と述べたそうな。以下、ブニュエルの言。

 「『ビリディアナ』は間違いなく辛辣なブラックユーモア映画ですが、実を言うと計画性もなく自然にできあがってしまったのです。この映画のなかでは、子どもの頃にとらわれていた性的・宗教的な強迫観念を表現しています。わたしは非常に信心深いカトリックの一家の出で、8歳から15歳までイエズス会の学校に通っていました。宗教教育とシュルレアリスムは、わが人生に影響を残しています」

 一方で、本作の創作上の意図を、次のようにも語っている。

 「われわれは考えうる最良の世界のなかを生きているわけではありません。私は映画を作り続けたいと願っておりますが、それは観客を楽しませるのとは別に、いま述べた考えが絶対的に正当であるとの事実を、彼らに伝えるためなのです」

 まあ、ブニュエル作品はどれも一筋縄ではいかないので、1回見ただけでは分からないことだらけなのも仕方がないでしょう。また見る機会があれば見てみたい。きっと別の発見があるだろうし。こういう、何度でも見てみたいと思わせてくれるのが、映画の醍醐味だと思うわ。 

 





ヴァチカンが怒るのも仕方がない。




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光(大森立嗣監督・2017年)

2018-01-08 | 【ひ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 東京の離島、美浜島。記録的な暑さが続くなか、中学生の信之は閉塞感を抱きながら日々を過ごしている。だが、同級生の恋人・美花がいることで、毎日は彼女を中心に回っていた。一方、信之を慕う年下の輔は、父親から激しい虐待を受けているが、誰もが見て見ぬふりをしていた。

 そんなある夜、美花と待ち合わせをした場所で、信之は美花が男に犯されている姿を目撃。美花を救うため、信之は男を殺してしまう。

 次の日、理不尽で容赦ない自然の圧倒的な力、津波が島に襲いかかり、全てが消滅。生き残ったのは、信之のほかには美花と輔とろくでもない大人たちだけだった……。

 それから25年。島を出てバラバラになった彼らのもとに過去の罪が迫ってくる。妻(橋本マナミ)と一人娘とともに暮らしている信之(井浦新)の前に輔(瑛太)が現れ、過去の事件の真相を仄めかす。封じ込めていた過去の真相が明らかになっていくなか、信之は、一切の過去を捨ててきらびやかな芸能界で貪欲に生き続ける美花(長谷川京子)を守ろうとするのだが……。

=====ここまで。

 原作(三浦しをん作)は、震災後に書かれたものかと思いきや、2008年発表の小説。
 
   
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◆キャッチコピーの割にセコい話。

 前記事の『猫が教えてくれたこと』に続いて見たのだけれど、“正月早々、どよよ~んな映画を見てしまったなぁ”というのが、見終わった直後の正直な感想。

 とにかく、ず~っと重苦しいシーンの連続。頭からタイトルが出てくるまでも異様に長いし、そのタイトルの映像も、ちょっと個人的には好きじゃない(かなり気味が悪い。それが狙いなんだろうけど)。

 出てくるネタが、強姦、殺人、DV、不倫、幼女への性的いたずら事件、ゆすり、、、とまあ、鬱になりそうなものばかりでお腹一杯。……かといって、いわゆるイヤミスの匂いはなく、ただただ、社会の底辺に生きる人間のどうしようもなさと、それに引きずられる卑小な人間たちという人間ドラマであって、まあ、どうしたって“光”を感じる要素のない内容なのよねぇ。

 事前情報で、“もの凄い映画”とか“狂気”とか、、、っていうフレーズが並んでいたので、勝手にハードルを上げてしまっていたのかも知れないけど、かなり前評判倒れと感じてしまった。井浦新なんて、自分で“べらぼうな映画”とか言っていたしね。あんましこういうキャッチーな言葉を使いすぎるのも良し悪しだわね。

 原作がどんななのか分からないけど、この映画を見る限り、キャッチコピーにある「僕たちは 人間のふりをして 生きている」というのは、意味不明な気がする。というか、もっとセコい話だよなぁ、これ、、、という感じ。


◆脚本が、、、

 25年前の事件が因果応報で惨事を招いた、、、ってことなんだけれども、信之と美花は中学生だから、その25年後となると、もうアラフォーのオッサン・オバハンたちのお話ってことよねぇ。それはいいんだけど、津波で島の人間の大半が亡くなって、数少ない生き残りだった彼らが、25年間も互いに消息知れずで関係が断たれていたってのも、ちょっと、設定としては違和感があるよなぁ。ちりぢりバラバラになったその背景が、多少なりとも説明がないと、なんとなく唐突感が拭えず、物語に入っていくのが難しい。

 いろんなエピソードてんこ盛りな割に、結局は、“輔→信之→美花”という各々の一方通行な感情を描いているのよね。輔は信之を兄みたいに慕っていて、信之は美花のことをずっと思い続けていて、美花は自分のことにしか興味がない、、、、それが故に招いた悲劇。というか、だからこそ、25年間の空白ってのは、どうもピンとこないのよね。説明がまったくないと。そこまで思う人と、どういういきさつがあって離ればなれになってしまったのか、、、。

 それでも、輔が信之に殺されるシーンは印象的。首を絞められて、輔は笑うのね。そして、いざ、殺されそうになったところで確か「こうなると思ってた」みたいなことを言うんだけど、そのときも薄笑いを浮かべている。なんか、それが輔の本望であるかのような描写。

 ……で、その大分前のシーンで、信之の妻・南海子と輔が不倫している場面で、輔が「アンタのダンナは、どんな風にアンタを抱くのかなぁって」と南海子に言うのを思い出し、なるほど、これは輔の信之への片思いってことか、、、と合点がいったんだけれど、それにしてもこんな最期はあんまりじゃないかしらん。

 ちょっと、ストーリーがごちゃごちゃし過ぎなんだよなぁ。複雑とは違って、ごちゃついている感じ。原作がどうかは知らないけど、これ、多分、脚本が悪いんだと思う。南海子のエピソードはもっと大胆にカットして良かったんじゃないかね。実際、描写に割いた時間に比してゼンゼン彼女の存在が生きていないのね、映画では。せっかく、橋本マナミさんがベッドシーンで熱演していたけど、それだけしか印象に残っていないってのは、やっぱり脚本が悪いと思う。

 あと、美花の描写もね、、、。美花は25年後、“篠浦未喜”という芸名で売れっ子になっているんだけど、その経歴を一切明かさずミステリアス女優なんて言われていて、、、っていう設定なんだけど、イマイチこの女性の魅力が分からない。ただのヤリマン、自己チュー女、でしかないわけ、この映画では。そんな女に人生の大半をとらわれている信之ってバカなの? とか思っちゃうわけよ。人を好きになるのは理屈じゃないから、ヤリマン・自己チュー女でもゼンゼン構わないけど、これは美花を演じる長谷川京子という女優の力のなさもあるかも知れないけれども、とにかく、こんな女性なら翻弄されるのもムリないよなぁ、と見ているものを圧倒する説得力がゼロってのも、いかがなものか。原作でもそーなの?

 こうも女性の描写が雑だということは、そもそも、脚本・監督の大森立嗣氏は、信之と輔のホモセクシャルな関係を描きたかったわけ? とか思うんだけど、それにしてもヒド過ぎる。


◆その他もろもろ

 離島での描写は子役(?)が演じているのだけど、美花を演じていた少女が、美少女ではないけど独特な雰囲気を持った“少年を惑わす”のも納得の感じだったんだけど、25年飛んでパッとスクリーンに現れたのが、橋本マナミで、私はてっきり彼女が成長した美花かと思ってしまった。見ているうちに、違うと分かったけれども、それくらい、少女時代の美花と橋本マナミが雰囲気が似ていたのよね。むしろ、長谷川京子はゼンゼン顔立ちも雰囲気も違いすぎて、キャスティング逆の方が良かったんじゃないかというのが率直な印象。

 橋本マナミは、演技はイマイチだったけど、翳のある雰囲気美人で、むしろ、美花の方が合っているような。シレッと男の人生を狂わせる女に、長谷川京子よりはよほど似合っている気がする。

 長谷川京子は、演技も雰囲気もかなりイケてない。ベッドシーンも、目を覆うばかりの大根ぶり、、、。アップが多かったからか、彼女の唇にやたら目が行ってしまったんだけれど、あんなに彼女は口元が良くない女優だったっけ? あれがセクシーと思う方もいるだろうけど、私的にはダメだった、、、。やっぱり、口元に品性は表れる気がするんだよねぇ。色気もないしねぇ。彼女が女優としてそこそこ活躍していることが謎だよなぁ。まあ、日本の女優さんでそういう方は多いですが。

 井浦新は頑張っているけど、終始、表情が同じで見ていてつまんない。そういう役だって言われりゃそうなのかも知れないけど、私は、彼も俳優としての実力は少々疑問視しているので、、、すんません。何の役をやっても、彼は同じに見えるので。

 そういう意味では、瑛太氏は、イイ俳優だと思う。役によってゼンゼン表情が変わるし、表現力もとても豊かだと思う。本作でも、育ちの悪い下品で図々しい、でも、どこか憎めない男を好演していました。

 でも、本作で一番スゴイと思ったのは、輔の父親を演じた平田満氏ですね。ホント、もの凄いサイテーな父親役を見事に演じておられました。死ぬシーンで、お尻を見せるんだけど、そのお尻がとてもキレイでした。それも印象的。彼みたいな俳優を、“俳優”というのだと思うわ。







何だか感想が書きにくい映画です。




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猫が教えてくれたこと(2016年)

2018-01-05 | 【ね】



 トルコ・イスタンブールに暮らす猫たちと人々の暮らしを追った、ゆるドキュメンタリー。
   
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 早いもので、新年も、もう5日も過ぎちゃいましたとさ。

 2018年、一体どんな年になるのやら。どっちを向いても良いニュースは少なく、世情は不安な要素の方が圧倒的に多く、……かといって、個人的には相変わらず馬齢を重ねる日々が続き、、、。この、世界の切迫感と、日本の閉塞感と、私自身の脳天気ぶりのギャップに、どうしようもない違和感が、、、。

 まあ、そんなことを考えていても仕方がないけど、この違和感から来る言いようのない心重たさを癒やされようと、元日早々から猫映画を見てまいりました。1日で映画の日だから1,000円だしね。

 何でも、今、空前の猫ブームだとか。
 
 ペットでも、犬の頭数より、猫のそれが上回ったという統計が出たと、新聞にかなりデカい記事で出ていました。まあ、猫の方が犬よりは飼うのは手間が掛からないからかしらん。毎日必ず散歩に連れて行かなくても良いだけ、猫の方が飼いやすいのかも。

 個人的には、この猫ブームに一役買っているのが、BSで放映中の「岩合光昭の世界ネコ歩き」だと思っているんだけど。この番組、wikiによれば2012年から始まったのだとか。もっと長いような気もするけれど、5年ちょっとか、、、。私は初期からこの番組を見ていて、多分、ほぼ全部録画してあるんだけれども、この番組を見てから、それまで完全に犬派だったのが、“ネコも可愛いなぁ”と感じるようになったのよね。

 だから、本作の予告編を別の映画を見に行った際に何度も見せられて、劇場で見るほどか、、、? と思いつつも、せっかくだからイスタンブールの美しい街並みや、猫のしなやかな動きをスクリーンで見てみたくなってしまった次第。

 ……で、まあ、案の定というか、やっぱりというか、別にわざわざ劇場で見るほどのものではなかったかな、という気もする半面、こういうなーんにも考えずにボケ~ッとスクリーンを眺めているだけでいい映画ってのも、たまにはエエのぅ、、、などとも感じたのでありました。

 猫たちはみんな可愛いし、取り巻く人たちもみんないい人たちだし、街並みは美しいし、平和そのもの。「ネコ歩き」でもインスタンブール編があったけど、あの中で映っていたインスタンブールの街並みも美しかった。その後、何度もテロに見舞われているトルコ。トルコから聞こえてくるニュースは不穏なものも少なくないけど、この映画だけ見ている分には、ゼンゼンそんなの分からない。

 本作でフォーカスされている猫は、7匹。みんな個性的だけど、私が気に入ったのは、ベンギュ(雌のトラ)、ガムシズ(雄の黒白)、デュマン(雄のグレー)の3匹かな。ベンギュは人間でいえば、ちょっと男を惑わせるタイプかしらん。ガムシズは孤高の自由人、デュマンは本能のままに生きる愛嬌あるヤツ、って感じかなぁ。

 もちろん、他の猫も可愛かったです。

 ……というわけで、見事に(いつも以上に)中身のないレビューで今年は始まりました。一体、この先どうなることやら、ごーん、、、。

 

 




生まれ変わったら、南欧の日当たりの良い海沿いの丘に暮らす野良猫になりたい。
そして海岸で魚のおこぼれをもらうのさ。ニ゛ャ~




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否定と肯定(2016年)

2017-12-16 | 【ひ】



以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1994年、アメリカのジョージア州アトランタにあるエモリー大学で、ユダヤ人女性の歴史学者デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)が講演を行っていた。彼女はイギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)が訴える大量虐殺はなかったとする“ホロコースト否定論”の主張を看過できず、自著『ホロコーストの真実』で真っ向から否定していた。ある日、アーヴィングはリップシュタットの講演に突如乗り込み、名誉毀損で提訴する。

 訴えられた側に立証責任がある英国の司法制度で戦うことになったリップシュタットは、“ホロコースト否定論”を崩さなければならない。彼女のために英国人による大弁護団が組織され、アウシュビッツの現地調査など、歴史の真実の追求が始まる。

 2000年1月、多くのマスコミが注目するなか、王立裁判所で始まった歴史的裁判の行方は……。

=====ここまで。

 原題は“DENIAL”=拒否・否認・否定。邦題は「否認」とか「否定」だけの方がよかったんじゃないのかねぇ? 肯定の要素はないもんね。

   
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 法廷モノは結構好きなので、ホロコーストが題材ってのがナンだけど、見に行ってまいりました。


◆リップシュタット女史が、、、

 映画にしろ小説にしろ、作品に感銘を受けるとか感動するとかの場合、主人公の言動を受け容れられるか否か、ってのが非常に大きいわけで、ここで受け容れられないと、作品に対しての感想も良くないものになりがちなわけだが、本作の場合、その定石が私には当てはまらない希有な作品となった。

 つまり、レイチェル・ワイズ演ずるリップシュタットには嫌悪感を抱いたけれど、この作品自体は良くできた映画だな、と思ったということ。

 リップシュタット自身がユダヤ人だから、ということは脇へ置くとして、彼女は、研究者でありながら非常に感情に流されやすく短絡的で攻撃的、しかも、協調性に欠けるという、正直言って度しがたい難物だと感じた。映画では、レイチェル・ワイズという美女が演じていたから幾分かはそのイメージも和らいでいるかも知れないが(逆により誇張されているかも知れないが)、実際のリップシュタット女史は、眉間に皺が寄って口角の下がった、それこそ、相手を拒絶するかのような強面で、外見をとやかく言うのはフェアじゃないという建前論がまさしくタテマエでしかないであろう、彼女がアーヴィングや弁護士たちに攻撃的な言動をしている姿を想像すると、ますます嫌悪感が増すのである。

 彼女は当事者であるから、冷静でいることが難しいのは分かる。しかし、それを差し引いても、弁護団の戦略の意図を理解しようともせずに罵っている姿は、私が弁護団の1人ならば弁護を放棄したくなるような酷さである。

 その弁護団は極めて冷静かつ有能で、リップシュタットをアーヴィングと同じ土俵に立たせないという、実に理性的な選択をするわけだ。

 イギリスの司法では、名誉毀損で訴えられた側に立証責任がある、というわけで、弁護団は、ホロコーストが実際にあったことと、アーヴィングが差別主義者であることを確実な証拠を基に地道に立証していく戦略をとった。決して頭が悪いはずではないリップシュタット女史ならば頭を冷やせば理解できそうなことである。それなのに、彼女は、弁護団に執拗に弁護方針について変更を迫る。

 冒頭で、リップシュタットが講義しているシーンがあり、そこで彼女は、「私はどんな議論も受けて立つが、ホロコースト否定論者と話す気はない」というようなことを言っている。アーヴィングに講義に乱入されたときも「あなたと話す気はない」と言っている。しかし、法廷に持ち込まれた途端、自分が証言台に立ってアーヴィングとやりあう、と言い出すわけだ。彼女自身、自分のポリシーに矛盾していることに気付いていないのだとしか思えない。

 どんなにリップシュタットが喚こうが、アタリマエだが弁護団は冷静だ。アーヴィングは、敢えて感情論に持ち込もうとしているわけだから、その手に乗ったら、それこそ、ホロコースト否定論に、論拠を与える判決を導きかねない、果ては歴史を書き換える事態になりかねない、そのことに、弁護団は気付いているからだ。

 大弁護団という多勢に無勢で、リップシュタットの思いは押さえ込まれるわけだけど、ゼンゼン彼女を可哀想だとか思わなかった。むしろ、「ちょっとアンタ黙ってろ!」と思ってしまった。


◆習ってきた歴史、ホントに本当なのか?

 結果的に、この裁判はリップシュタット側が勝つし、ホロコーストもあったことになった。

 しかし、本作を見て考えさせられたのよねぇ。歴史って、何なのか、、、ということを。私たちが学んできた歴史は、それがかなりの確度で真実だという前提であったわけだけど、それが真実であると、なぜ言えるのか。史料があるからとか、まあ、そんなことだよね、真実の根拠は。

 映像が残る時代なら、ますますその確度も上がる、、、と我々は勝手に思い込むけれども、本当にそうなのか? 時々、歴史的史料が見つかった、とかで歴史が書き換えられることもあるけれども、どうしてその史料が本物で、真実が書かれていると分かるのか。現代人の“専門家”らが判断するわけでしょ? いくら専門家でも、現代に生きる人間が、歴史のその時点を直接見て確かめることなどできないわけで、それを“史実”としてしまって良いのか?

 史実ってのは、現代人には分かりようがないから、扱いが難しいのだと思う。現に、これまでの定説が、後世の作り話だった可能性が高い、なんていう話はゴマンとあるわけで。だからこそ、本作のような、○○否定主義者、ってのが現れ、しかもそれが容易に社会に受け容れられてしまうわけだ。私が史実だとして学んできたことが、「大間違いでした!」なーんてこともあり得るわけで。一体、歴史上の真実って何なのさ、、、、ということを、本作を見ながら頭を駆け巡っていた次第。

 だから、アーヴィングが法廷で、荒唐無稽に思える持論を展開していても、何だか、ただ「頭のおかしい爺さん」と切って捨てる気にもなれなかったんだよね。もちろん、アーヴィングにも嫌悪感を催すけれども、真実に相対しようとするとき、荒唐無稽と思われることにも、一分の理があるのかも、、、と思わなければいけないんじゃないか、とかね。何をもって、「アンタの言っていることは、ただの与太話だ!」と言えるのか。自然科学の分野ならそれはアリだけど、こと、歴史においてはどーなのか、、、、とね。

 自分の信じているモノが揺らぎそうな不安な気持ちにさせられる。 


◆(本題とはズレるけど)イスラエルはどーなの?

 リップシュタット女史は、今の中東情勢をどう見ているのかしらね。イスラエルのやっていることは、彼女の目にはどう映っているのか。

 私は、反ユダヤ主義でもないし(というか、そもそもそういう視点でのポリシーを持っていない)、親イスラムでもないけれども、今のイスラエルはやっぱりいかがなものかと思っている。

 リップシュタット女史を始め、ユダヤ人の歴史研究家たちには、現代のイスラエルについてきちんと見解を述べる義務はあるんじゃないかねぇ。虐げられてきた長い歴史は分かるけれど、だからといって、今イスラエルがパレスチナにしていることを正当化できるのか。双方に言い分があるのであって、そういう意味では、リップシュタット女史が現代のイスラエルについて、何か見解を述べているのだとしたら、是非拝聴(拝読)してみたいものである。少なくとも、本作のパンフレットを見る限り、そういう部分への言及は皆無である。そもそも、彼女がホロコースト研究者になったきっかけも、ホロコースト生存者の体験談を様々聞いたことから発した“怒り”なのだそうだ。かなり、エモーショナルな動機ではないか。

 彼女自身がユダヤ人とはいえ、歴史研究家である以上、先の大戦のホロコースト研究者の立場にありながら被害者目線で歴史を語るのは、ミスリードを産みかねないという自覚は持っていただきたいものである。人間である以上、誰しもモノの見方にはバイアスが掛かっているものだが、その自覚の有無は重大である。

 
◆その他もろもろ

 レイチェル・ワイズの出演作はゼンゼン見たことがないので、彼女をまともに見るのは本作が初めて。なかなか頑張っていたけれど、あんましインパクトはなかったなぁ、正直言って。

 弁護方針を決める事務弁護士・アンソニー役のアンドリュー・スコットが良かった。冷静なキレ者って感じが良く出ていて、ユーモアもあり、キャラとしてもgoo。なんか、時々、若い頃の国広富之に見えたんだけど、、、。似てないか。法廷弁護士で、アーヴィングを黙らせたランプトンを演じたトム・ウィルキンソンもイイ味出していた。

 しかし、何より良かったのは、憎ったらしいアーヴィングを飄々と演じたティモシー・スポール。一見、紳士風だけど、取材している女性記者に平気でセクハラ発言をしたり、どう聞いてもおバカにしか聞こえない持論を自信たっぷりに演説したりしている演技は見物。『英国王のスピーチ』にも出ていたとは。知らんかった! 悪役も善人役も上手くこなせそうなお方だ。
 








アンドリュー・スコット、いいなぁ。




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