映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

残像(2016年)

2017-06-21 | 【さ】




 1949年、ポーランドのウッチ造形大学の教授で前衛画家のヴワディスワフ・ストゥシェミンスキは、野外の授業で学生たちと談笑を交えながら、熱く自らの理論を説く。

「残像は、ものを見たときに目の中に残る色なのだ。人は認識したものしか見ていない」

 ある日、アパートで真っ白なキャンバスに向かって絵筆を走らせようとした瞬間、窓の外に真っ赤な垂れ幕が掛かったため、キャンバスは鈍い赤色に染まる。これでは絵を描けないと、ストゥシェミンスキは部屋の中から窓の外の垂れ幕を杖で切り裂く。それは、スターリンの肖像が描かれたプロパガンダの垂れ幕だった、、、。

 ここから、ストゥシェミンスキが死に至るまで、芸術弾圧との闘いの日々を描く。昨年急逝したワイダの遺作。

 、、、嗚呼、ポーランド。
 

   
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 また、ポーランド映画です。これは前から見たかったので、出不精の私が、わざわざ週末出かけて見に行きました。相変わらず、岩波ホールの観客は年齢層が高く、こういう映画は、若い人は興味ないのかな、、、と、ちょっと淋しくもあり。


◆ポーランド人のお名前が難しいの件。

 ストゥシェミンスキ、、、というお名前。何度聞いても、見ても、ゼンゼン覚えられない。ポーランド人の名前、ちょっと難しいです。

 “ヴワディスワフ”というファーストネームは、あの『戦場のピアニスト』の主役であるウワディスワフ・シュピルマンのそれと同じのようです(原語表記が同じ)。シュピルマンは、作中、親しい人たちに“ウワディク”と呼ばれていましたが、本作では、ストゥシェミンスキが教授=先生としての立場で描写されているシーンが多いので、親しく“ウワディク”と呼んでいる人はいなかったような気がします。見落としただけかも知れませんが。

 いずれにしても、ウワディスワフというファーストネームは、割とポピュラーなものなのだと思われます。

 シュピルマンは、すんなり頭に入ってくる響きだけれど、ストゥシェミンスキはどうも、、、。ようやく、今頃になって頭にも目にも馴染んできたかな、、、という感じです。


◆戦争が終わっても、ポーランドの苦悩は続く、、、。

 さて、『戦場のピアニスト』では、戦争が終わって地獄の様な日々にも終止符が打たれた、、、という余韻で終わったけれど、ストゥシェミンスキ氏が、ポーランド統一労働党(共産党)に目を付けられ、どんどん追い詰められていく様が淡々と描かれている本作を見ると、戦争が終わっても全然ポーランド国民は心安らぐ平穏な生活など、手に入れることが出来ていなかったのだと思い知らされました。

 もちろん、シュピルマンも、戦後、共産党に目を付けられていたことは後になって調べて分かったのだけれども、『戦場のピアニスト』ではそこまでは描かれていなかった。ポーランド軍とソ連軍の力関係、両国の地勢関係や政治体制からくる事実上のソ連支配の下、ストゥシェミンスキやシュピルマンなどの芸術家たちは、程度の差はあれ、皆、不本意な思いを抱かされていたということ、、、。

 作中、こんなセリフがあります。「芸術家を殺すには、無視するか、徹底的に批判するかだ」(セリフ正確ではありません)。

 ただ、ここでいう「無視する」は、ストゥシェミンスキの受けた仕打ちから見て、文字通りの「無視」ではなく、一般市民たちから無視される様に仕向ける=一般市民たちの目に入らない様にする、ということであって、そのためには、共産党は凄まじい労力を厭わないのだから、怖ろしい。

 ストゥシェミンスキを、大学から追い出すのなんて当たり前。表だった仕事はとことんその門戸を閉ざされる。背に腹は代えられず、と悟ったのか、こっそりと始めた共産党のプロパガンダ看板に絵を描くという、一見主義に反する様な仕事をしてわずかな食い扶持を稼ぎ始めたのも束の間、どこからかバレてクビになる。食料配給券ももらえないので、食べ物にもありつけず、芸術家協会から追い出されて会員証も取り上げられたために画材も売ってもらえない。徹底的に監視して、生命維持が不可能なほどまでに追い詰める、、、。

 まぁ~、とにかく陰険極まりないです。美術館からはストゥシェミンスキの作品は乱暴に残らず撤去され、学生たちとの展覧会会場であるギャラリーには党員たちが乱入して作品をメチャメチャに叩き壊す。自尊心を徹底的に破壊する方法を取るわけね。それでもストゥシェミンスキはめげないんだけど、やっぱり兵糧攻めは、いかな信念の人でも、物理的にヤラレてしまう。食べなきゃ、衰えるか病気になるかしかないものね、人間なんて。

 一方では、テキトーに共産党にすり寄りながら、生き延びる芸術家たちも当然いるわけで、そういう人たちの中には、ストゥシェミンスキみたいに、信念を貫く生き方をしている人を羨ましく思う人もいる。いるけど、じゃあ、自分もそうできるか、というと、できないし、そんなことしてまでポリシーを貫く意味を感じられない、ってことなのかも知れない。生きてなんぼ、と思うのもまた、決して間違いではないし、安全な場所にいる我々が責められる立場にないことも確か。

 私なら、もちろん、体制にテキトーに迎合していると見せつつ、腹の中では、早くこんな世の中終わっちまえ! と、どこかの前事務次官じゃないけど「面従腹背」を地で行くと思うなぁ。人間、死んだら終わり、というのは真理だと思うので。

 ただ、芸術家というのは、それが非常に難しい。フジタも戦時下で従軍画家だったことを、戦後かなり批判されたけれど、結局、そういう“変節”が許されない人たちだから、、、。生きる術であっても、変節と受け止められてしまう。虐げられても信念を曲げることが許されない、それこそ、白か黒かを強いられる。人間なんて、そもそもいい加減で、いくらでも都合良く変節する生き物だと思うんだけど、、、。


◆だめんずストゥシェミンスキ。

 思想面では信念を貫くストゥシェミンスキも、私生活の方はだめんずっぽい。

 ポーランドの著名な彫刻家だったカタジナ・コブロとは離婚。元妻コブロが非業の死を遂げても、葬式にも参列できない。一人娘のニカだけは参列するが、赤いコートしか持っておらず、他の参列者に「葬式に赤いコートなんて」と陰口を叩かれる。しかし、ニカは黙っていない。「これしかないの!!」と怒り、コートを脱ぐと裏返して、黒っぽい裏地の方を表にして着直す、、、。

 元妻の死で、ニカと2人暮らしを始めるが、学生の一人ハンナが足繁くストゥシェミンスキの家に通ってくるため、ニカは居場所がないと感じ、「学校の寮に入る!」と言ってストゥシェミンスキの家を飛び出す。なのに、ストゥシェミンスキは止めもしない。荷物を持って、寒空の下、泣きながら歩くニカが可哀想すぎる。

 芸術家と、良き家庭人、ってのはイメージ的にあまり結びつかない気はするけど、ストゥシェミンスキはまさにそう。こういう人は、結婚なんぞしない方がいいんじゃないですかねぇ。結婚生活なんて、赤の他人同士が細々としたことに妥協し合いながら一緒にどうにか暮らしていくことなんだから、自己主張が強くないとやっていけいない芸術家は、なかなかハードルが高いんじゃないかしらん。

 一応ストゥシェミンスキの弁護をすると、ストゥシェミンスキは、ハンナのことを憎からず思っていたではあろうけど、恋愛感情はほとんど抱いてなかったと思うなぁ。そういう描写だったと思う。でも、ニカは(当然のことながら)ストゥシェミンスキに反抗的になり、メーデーのパレードに参加する。ニカが赤い旗をふりかざして行進する姿を窓から見て、ストゥシェミンスキがそっと窓を閉めるシーンは、胸が痛む。

 ……でも、彼にとって大事なのは、彼の信じる前衛美術であって、その他のことは二の次三の次。娘のことを気にはかけても、家族のポジションは彼にとってあまり高くなかったってことです。

 芸術家としても、夫としても、父親としても、高潔な人間、、、なんてつまらないので、だめんずなストゥシェミンスキを美化せず描いているところは好感が持てる。ちなみに、ストゥシェミンスキが亡くなった後、ニカが父親が亡くなったときに横たわっていた空っぽのベッドをじっと見つめているシーンがあります。このとき、ニカの心を去来したものは何だったのか、、、。表情からは、読み取れません。哀しそうでもあり、厳しい視線でもあり、、、。


◆ワルシャワ行きまで1か月もない、、、。

 私は、ワイダのファンでも信奉者でもないので、遺作となった本作にもそれほどの感慨は持たなかった。本作は、鑑賞したというより、勉強になった、という感じ。他の映画を見る感覚とは微妙に違う。

 でも、本作を見て、未見の作品をもっと積極的に見ていきたいなぁ、とは思いました。
 
 それは、ワイダの作品に興味があると言うよりは、ポーランドという国に興味があるから。いまだに無知に等しいけれども、映画を見たり本を読んだりしながら、少しずつその歴史に触れると、やはり、もっと詳しく知りたいと思うことばかり。見れば見るほど、分からないことが増えるわけで、、、。

 ワルシャワ行きまでには、知識を身につけるのは到底間に合わないけど。残り時間、1本でも多くポーランド映画を見るぞ~!





 


ストゥシェミンスキが片手・片脚を失ったのは、第一次大戦出征のため。




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罪物語(1976年)

2017-06-12 | 【つ】




 19世紀末のポーランド・ワルシャワ。おぼこ娘エヴァが、テキトー男ウカシュに惚れたことに始まる転落の人生の顛末を描く。

 監督のヴァレリアン・ボロフチックは、アニメや短編映画で腕を磨いてポルノなんかも結構撮っていた方らしい。本作はカンヌにも出品されたとか。へぇー。
 

   
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 ポーランド映画に特化して見ようとしなければ、見ることもなかったであろう本作ですが、、、。まあ、映画としてはナニですが、そこそこ楽しめました。


◆濡れ場がかなり“イヤらしい”。

 エヴァさんの転落ぶりが、なんというか、あまりにも絵に描いた様なソレなもので、何だかなぁ、、、という感じなんですが、やっぱしこういうハナシって、世界中どこにでもあるんだな~、と改めて思いました。

 ただ、本作でのエヴァさんは、結構モテるんですよ。エヴァさんに真剣に好意を寄せる金持ちのシュチェルビツ伯爵だって、ウカシュに負けず劣らずイケメン。私がエヴァさんだったら、さっさとウカシュから乗り換えるんだけどなぁ、、、なーんて思いながら見ておりました。

 ……まあ、でもそこは第三者には分からない、エヴァさんのウカシュへの熱情です。ウカシュの何がそんなに良かったのか、、、。初めての男だったからでしょうか?? 少なくとも、本作を見ていて納得できるウカシュの良さ、ってのはなかったような。

 詰まるところ、エヴァさんは、だめんず専の女、ってことですな、残念ながら。

 ウカシュと結ばれるシーンが、なかなかイヤらしいです。この辺が、監督さんがポルノも撮っていたと聞いて、妙に納得しました。どうイヤらしいかは見ていただくのが一番良いのだけど、こんなマイナー映画、敢えて見たい方も少ないでしょうから、一応、書いておきますと、、、。

 ウカシュは、決闘が原因の怪我で、ベッドで寝ております。看病してくれるエヴァが部屋から出た隙に、エロ本の1ページに何かを挟んでおきます。で、ようやくエヴァとセックスするに至ると、手探りでサイドテーブル上の例のエロ本を手に取り、物を挟んでおいたページを開きエヴァに見せる。そこには、全裸の女性がある体位をとっている写真が、、、。エヴァさんにも同じ体位をとらせると、背後からねっとりと襲いかかるウカシュ、、、。

 ……うぅむ、イヤらしさ、少しは伝わったでしょうか。官能的、というより、イヤらしい、というのが正確ですね。まあまあキレイに撮っていますけど、セックスをロマンチックに描かない、飽くまで、性欲として描く、という感じのシーンです。

 こういう濡れ場の描き方、キライじゃないです、私。現実では、コトの最中にエロ本見せてくる男なんて想像したら、サイテーだけどね。


◆淫乱女の悲惨な人生、、、??

 濡れ場は後半にも長いのがもう1シーンあります。これも、まあイヤらしい感じですが、こっちは、エヴァさんは、ヤクザの夫に脅されてシュチェルビツ伯爵を嵌めるために伯爵とセックスしているので、あんまりエヴァさん自身は悦んでないのですね。伯爵はもう、ようやくエヴァさんを手中に出来てサイコーなんですけど、、、。

 そして、哀れな伯爵は、見事に嵌められて全財産をぼったくられた上に、全裸のまま殺されちゃう、、、。何という悲惨な最期、、、。

 まんまと伯爵を嵌めた後、いきなり次のシーンでエヴァさんは娼婦になっています。あまりの飛躍に、見ている方は???となるのですが、後で調べたところ、実はこの前に大事なシーンがあったのがまるごとカットされていたのだとか。その大事なシーンで、彼女が娼婦になった理由が分かる様ですが、、、。

 まあ、それは本作を見ても分からないので、とりあえずここではおくとして。

 でもって、エヴァさんは、最後の最後まで、ウカシュが忘れられず、ウカシュのために命を落として死んでしまうんですよねぇ。、、、ごーん。

 本作の紹介を読むと、エヴァさんが淫乱だったからこうなった、っていうことらしいんですけど、本作で描かれているエヴァさんは、そんなに淫乱だとは思わなかった。淫乱=男で身を持ち崩す、はちょっと違うと思うし。そもそも淫乱って何さ。過剰な性欲を押さえられない性質、ってこと?

 キリスト的には、淫乱は大罪なわけだから、こういう悲惨な人生が待っています、ってことかしらん。だから何だ? という感じですけど、、、。


◆ポーランド映画、雑感。

 しかし、ポーランド映画を立て続けに見てきたわけだけど、全体に暗いなぁ。雰囲気もストーリーも、、、。どこかこう、突き抜けた感じがないのですよね。

 それはやはり、長い間、抑圧の歴史のある国だからなのでしょうか。

 インドも、長く英国の植民地で、侵略された歴史を持つ国だけれど、インド映画は明るいのが多いですよね。やはり、気候による部分もあるのかしらん。南国の方が、気質も明るいというし、、、。ポーランドは、(あくまでイメージだけど)やはりどちらかというと、曇った空に冷たい空気、という感じだもんなぁ。そういうお国柄で、突き抜けた明るさのある映画、ってやっぱり作られにくいのかも。

 この後も、ポーランド映画、まだまだ続きます。



 


罪物語の“罪”=淫乱の罪、のようです。




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イレブン・ミニッツ(2015年)

2017-06-10 | 【い】




 ポーランド・ワルシャワでの、ある日の午後5時からの11分間に起きた出来事を、時系列で多焦点から描き、最後の最後でそれらが1つの焦点で結ばれる。

 多焦点の主たちは……映画監督、女優、女優の夫、屋台のホットドッグ屋、その息子でバイクの宅配人、救急士、医師、、、他にもいたかも。ラストでパズルが完成します。
 

   
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 公開時、気にはなっていたものの、結局、見に行かずに終映。……まあ、見に行かなくて正解だった。


◆そんなこと今さら映画で見せてもらわなくても、、、。

 これは、私の嫌いな、観客を欺くことに血道を上げたセコい作品ではないけれど、こういうのも、あんまし得意じゃない……。ぶっちゃけ、「……だから何なのさ」と言いたくなるというか。

 『バンテージ・ポイント』は似て非なるものだけど、ラストの展開へ向けて、多方面からアプローチするという点では同じ。『バンテージ・ポイント』は、暗殺事件の裏側を“関係者”に的を絞って多角的にあぶり出そうとした作品で、記事にも書いたけれど、「三角だと思っていたものが、別の角度から見たら丸かった・・・」という狙いで描かれた映画だった。一方、本作は、まるで関係のない登場人物たちが、最後に“たまたま”ある同じ事件に遭遇することになった、というわけなので、別に、物事の多面性を描きたくてこういうシナリオを書いたのではないと思われる。

 恐らく、単純に言ってしまえば、「人間万事 塞翁が馬」とか「一寸先は闇」とか、そんなことを描きたかったんじゃないか。

 だから、正直なところ、“今さら感”が激しく、そんなことこんな手の込んだ作りにして見せてくれなくたって、骨身に沁みてますよ、と白けちゃう。311を経験した日本人は、みんなそうじゃないですかね。311に限らず、世界中どこでも、理不尽なテロや、事故、事件、、、あまたある不可抗力とか不条理によって、人生が激変した経験を持つ人たちにとって、こんな映画は、むしろ安っぽくしか見えないのではないかと思う。

 人生は一瞬で激変するその儚さ、、、なんて、言われんでも分かっとるわ!! ってこと。

 ホントに、スコリモフスキはそんなアタリマエ過ぎることを描きたかったんだろうか、と見終わってから2週間ほど悩んだけれど、まあ、やっぱりそうとしか思えない。

 そして、作品の公式HPにトドメを刺されちゃったよ。

人々のありふれた日常が11分後に突如変貌してしまうという奇妙な物語を、テロや天災に見舞われる不条理な現代社会の比喩として描いたこの映画は、個人の生や死がサイバー・スペースやクラウドといった環境に取り込まれていく未来を予見していると言えるでしょう

だって。ホントにそうだったんだ、、、。

 ……ガックシ。


◆パズルが出来上がってもカタルシスなし。

 本作を見終わってしばらくイロイロ考えているうちに、大昔に読んだ、村上龍の「五分後の世界」を思い出した。コンセプトも、内容も、まるで違うけれども、思い出してしまった。

 別に、本作の様に、5分後にどうなるか、が書かれている小説ではないのだけれども、スリリングな恐怖と、不完全で混沌としながらも不思議な幸福感が同居している、妙な小説でした。それはもちろん、作者の狙いどおり、時空間の歪みに見事に連れ込まれた証拠なわけですが、著者が「五分後の世界」とタイトルをつけた理由が分かる気がしたのです。

 それは、きっと本作と根底は同じ、「一寸先は闇」で、歴史はちょっとしたことで激変する、というものだと思う。その不条理感や儚さってのは、やはり、それでも著者が“こういうところへゴールを持って行きたい”という意図があって、読者には分からない様な計算された人物の配置と描写があって初めて、切実感を持って読者に伝わってくるものだと思うわけ。

 しかし、本作の場合、スコリモフスキが設定したゴールは、ただの事故であり、それこそが現実そのものだとは言え、あまりにも映画としては淡泊過ぎる。「サイバー・スペースやクラウドといった環境に取り込まれていく未来を予見している」なんてのは、日本の配給会社の余計なお節介であって、映画だけを見れば、そんなことはまったく触れられても匂わされてもいないわけです。触れずとも、匂わせずとも、それを指し示していることは、秀逸な作品にはあるけれども、本作からは感じられなかった。少なくとも、そんな意図が監督にあったのだとしたら、本作は失敗と言ってよいと思う。

 ただパズルが出来上がる過程だけを見せられて、観客が心動かされるだろうか? パズルのピース一つ一つの持つ意味が、最後に全て明らかになるのでなければ、パズルを作る過程を延々見せる意味がないと思うのだけど、どうでしょう??

 ……そんなわけで、スコリモフスキといえども、イマイチでした。




 


あの映画監督、サイテー。




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愛に関する短いフィルム(1988年)

2017-06-06 | 【あ】




以下、Movie Walkerよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 19歳の郵便局員トメク(オラフ・ルバシェンク)は、毎晩8時半に、盗品の望遠鏡で向いのアパートに住む女流画家マグダ(グラジーナ・ジャポロフスカ)の部屋を覗き見ていた。次々と違う男を部屋に連れこむマグダに、トメクは執拗に無言電話をかけ続ける。それは、出征中の友人の母親(ステファニア・イヴァンスカ)のアパートに間借りする孤独な少年の、屈折した愛情表現だった。

 彼女に逢うために、トメクは、牛乳配達のバイトを始める。そしてある晩、恋人と別れて一人で泣くマグダを見たトメクは、翌朝、偽の為替通知を彼女のポストに届けた。郵便局に為替を受け取りに来て責任者に罵られた彼女に、トメクは駆け寄って初めて声をかけた。

 「昨日君は泣いていた」。

 彼のしたことを告白されて、マグダは「人でなし!」と叫んだ。その夜彼女は少年を挑発するように男を連れ込んだ。覗き見されていることを彼女に知らされ、男はトメクを呼び出して殴り倒した。翌朝、牛乳を届けに来たトメクに、マグダは「どうしてつけまわすの?」と聞いた。トメクは「愛しているから」と答えた。

 そして、初めてのデート。しかし、マグダの部屋で、トメクはマグダの言う〈世間でいう愛の正体〉を見せつけられ、絶望して部屋を飛び出していった。後悔したマグダは彼に詫びようとするが、少年は手首を切って病院にかつぎこまれていた。彼を住まわせていた老婦人は、「あなたは笑うでしょうが、恋の病です」と言ったきり彼の行方を教えようとはしない。

 その日から、今度は彼女がオペラグラスで向いのトメクの部屋を見つめ、彼からの電話を待つ夜が続いた。そしてある晩、とうとうトメクが退院したことを知ったマグダは、トメクの部屋を訪れた。眠っているトメクと老婦人の傍らから望遠鏡で自分の部屋を覗いたマグダは、泣いている自分と、その肩に少年の手がそっと置かれるのを見た。

====コピペ終わり。

 愛って、、、何なのだろうか???

   
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 しばらくポーランド映画が続きます。

 本作は、「十戒」をモチーフとした、クシシュトフ・キェシロフスキ監督のTVシリーズ『デカローグ』(全10作)のうちの、第6作。ドラマ版は1時間ものだったようだけど、本作は、87分。ドラマ版は未見。噂(?)によると、ラストがドラマ版と本作ではゼンゼン違うとのこと。

 クシシュトフ・キェシロフスキ監督といえば、“トリコロール三部作”がその名を一躍知らしめたといわれているけれども、私はこの監督の作品はこれが初見。


◆愛についての短くない観念話。

 上記、あらすじを読んでいただければ分かる様に、本作のメインストーリーは、“覗き”&“ストーカー”。

 で、本作を見て、同じポーランド映画ということで、イヤでも頭に浮かんでしまうのが、2008年公開のイエジー・スコリモフスキ監督『アンナと過ごした4日間』。みんシネではあんまし評判良くなかったけれど、私は結構気に入ってしまった。主人公の男が、ある女性にストーカーするオハナシなんだけれども、これが痛いながらも愛すべき作品になっていて(詳細は忘れている部分も多いが)、あれもまさしく“愛”を描いていたのだと思う。おそらく、スコリモフスキは、本作にインスパイアされている部分が多いのだろうと思われる。

 で、本作で描かれている“愛”なのだが、、、。覗きから始まる愛、ストーカーから始まる愛、、、。

 愛に正しい定義などはないので、別にこれが愛だと言われれば否定する気はさらさらありません。しかし、もし私がマグダだったら、覗いていた若い男を愛しいと思えるか、と想像すると、答えはどうしたって“NO”なんだよねぇ。

 とはいえ、一方で覗きたくなる気持ちも分かる。好きな人の知られざる一面を見たい、と思うのは、人として自然な感情でもあると思う。

 でも、好きだからこそ見たくない、ってのもあるわよね。私は、まあ、こっちだけれど。好きな人の日記が、見てくれと言わんばかりに机上に置かれていたとしても、私は、怖ろしくて見られない。だから、配偶者や恋人のケータイを見てしまう人の心理が分からない。何でそんな怖ろしいことができるのか、、、。そこに、何が書いてあっても受け入れられる自信、、、、私にはナイ。見たくないわけじゃないのだろうけど、それ以上に怖ろしい。

 それに、いたって現実的な感想になってしまって恐縮だけど、やはり、現実にストーカー被害に遭って殺されている人がいることを思うと、トメクの行動を“愛だわ~”と肯定する気にもなれないし、終盤、マグダとトメクの立場が逆転するのも、あれが“愛”だとか言われても、あまりにファンタジーな感じがして、正直なところ、これはいささか脳内で考えただけの観念的に過ぎるオハナシじゃない? と白けてしまう。


◆見返りを求めてはいけません。

 覗きにしても、ストーカーにしても、まあ、感情の一方通行ってやつで、相手の気持ちは度外視している行為だよね。

 この、相手の気持ちを度外視した独り善がりが、相手の気持ちを動かすことになる、という誤ったメッセージを本作から読み取る人もいるんじゃないかしらん。私は、ストーカーではないものの一方的に感情を押し付けられた経験があるので、こういうのを愛だとか描かれるのは、ちょっと受け容れ難いものがある。

 本作で、トメクが覗きからストーカーに転じたきっかけは、マグダがある晩、哀しみに暮れてミルクを瓶からこぼして(覆水盆に返らず)、そのミルクを拭きもせずに指で撫でながら泣いている姿を覗き見したことだ。それから、直接的にマグダに働き掛ける。そこから、話は一気に展開し、マグダがトメクを自室に招き入れ、「愛とはこういうものよ」と言って、トメクに自分の身体に触れさせるだけでセックスもしないまま射精させる。これに傷つくトメクは、自宅に逃げ帰り、手首を切って自殺を図る、、、。

 覗き、ストーカー、セックス、、、。キェシロフスキは、こういった敢えてインモラルなことで、愛を描こうとしたのは分かるけれど、、、うぅむ、という感じ。確かに、愛なんて独善的なものだし、美しいものでも崇高なものでもない。だから、インモラルは良いのだけど、やっぱり、愛ってのは対象があって、双方向性も、ある程度は大事なんじゃないかと。独善的だから一方通行で良い、ってのは、、、なんだかなぁ、と。

 でもって、一方通行が、逆方向に向いてまた一方通行で、交わらないんだよね、本作では。それが愛なんだ、と言われりゃ、まあ確かにそうかも知れない、と言う気もするが、、、。

 ただ、昔、瀬戸内寂聴氏(個人的にはあんまし好きじゃないが)が言っていたけど、愛ってのは、“渇愛”(見返りを求める愛のこと)ではダメである、とか。双方向性は、愛には求めてはいけない、つまり、ひたすら与えるのが愛だ、ということ。

 その説から言えば、ひたすら一方通行な覗きは、まさに、“真の愛”ともいえるかも、、、(!!!)。ストーカーは見返りを求めているからダメだけど。


◆求めよ、されど与えられぬ……それが愛!?

 ……と、下世話なことばかり書いてしまったけれど、本作では、最初は、一方的なトメクの覗きの“愛”に始まって、“愛=セックス”だと思い込んでいたマグダが、トメクの思いに触れて“本当に自分が求めていた愛”を見出す、という、マグダから見た“愛”で終わっている。

 トメクもマグダも、非常に孤独な者同士、傷をなめ合っている感がないでもない。そういうところも、ちょっとイヤかも。それに、マグダの求めていた愛ってのは、詰まるところ、癒やしじゃないか。インモラル全開で来たのに、ラストはあまりにも凡庸じゃない? それも不満かな。

 愛って、何だろう?? そもそも、愛って本当にあるものなのか。見えないけれどあるんだよ、って、金子みすずみたいだ。そういうもの?

 もしかしたら、愛なんて、所詮は全て“自己愛”に帰結するんじゃないか、という気も正直してしまう。

 そういう意味では、私自身、愛など語る資格はそもそもないわけで。

 ただ、ストーカーでもずっとやってりゃ、いつかは相手に思いが通じる、とか勘違いしている人がいたら、それは大間違いだよと言っておきたい。覗きも然り。

 この後、トメクとマグダはどうなるのか。彼らが愛し合う、ということにはならないだろうと思う。トメクもマグダも、それまでとは愛に対する向き合い方は変わるんだろうか。トメクは変わるかな。ドラマ版では、郵便局で働くトメクをマグダが訪ねたところ、トメクが冷たく突き放すというオチだそうだが、まあ、その方が、私的には腑に落ちる展開の様に思う。

 でも、マグダは、、、。余計に辛いその後が待っているようにも思う。セックスにも愛を感じられず、ますます愛に懐疑的になるだけ、、、とか。

 “求めよ、さらば与えられん”とは言うけれど、愛に限っては、あまり当てはまらないような。






覗きは犯罪です。




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カティンの森(2007年)

2017-05-29 | 【か】



 夫はソ連軍の捕虜となり連れ去られた。それっきり妻(アンナ)の下へは帰ってこなかった。帰ってきたのは、夫が最期の日々を書き記したメモ帳。ある日を境に空白が続くそのメモ帳が訴えるものとは、、、。

 アンジェイ・ワイダ渾身の告発映画。

   
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 7月に海外へ行くことになり、コペンハーゲン→ベルリン→ワルシャワの予定で移動するため、関連する映画を見ている次第。今回は、ポーランド映画。ワイダ監督作は、『ワレサ 連帯の男』に続き(多分)2作目。来月公開予定の『残像』も見たいと思っているところ。

 本作は、公開時から見たい見たい、と思いつつ、結局今頃の、しかもDVDでの鑑賞と相成りました。


◆地図から消えた国

 冒頭のシーンが印象的。こちら側からあちら側に逃げようとする人々。反対に、あちら側からこちら側に逃げてくる人々。双方の人々が橋の上で交錯する。

 こちら側=クラクフ、あちら側=東側ソ連国境。橋=ヴィスワ川に架かる橋。アンナは、クラクフから橋を渡って東へ、大将夫人は東側からクラクフへ。

 大将夫人は、アンナに「クラクフに戻れ」と言う。しかし、東へ行くアンナ。2人の女性が橋の反対側にそれぞれ向かう。どちらも、逃げているのだ。それなのに、逃げる方向は正反対。

 そう、これは、当時のポーランドが置かれていた状況そのもの。この川を境に、独ソ不可侵条約においてポーランド割譲が密約されていたから……。どちらへ逃げても、安住の地には辿り着けないポーランド国民。

 ポーランドの歴史は、映画を通じてかいつまんでいる程度なのでほとんど無知に等しいけれども、地勢的に、両脇をソ連(ロシア)とドイツという、まあ、言ってみれば侵略国家に挟まれて、非常に厳しいものであったことくらいは何となくだが知っている。

 そういう、ポーランドの地理的な宿命を、見事に描いている冒頭のシーンは胸に迫る。この後、アンナたちはどうなってしまうのか、、、。

 そして、この冒頭にもう一つ印象的なセリフが。

 「私はどこの国にいるの?」

 このセリフを言った女性は、作品の後半、ソ連を告発する行動を起こすものの、案の定、ソ連に逮捕され、地下室へ連行される。多分、そのまま生きては帰れなかったんだろうな、、、。

 戦争自体が終わっても、ソ連統治による地獄は終わらなかったという、ポーランド(だけじゃないけど)の抱える不条理がしっかり描かれている。


◆カティンの森事件

 事件については、あちこちのサイトに書かれているけれど、ここでは、wikiにリンクを貼っておきます。

 で、事件を直接的に描写したのは、終盤の15分~20分くらいでしょうか。ほとんどセリフもなく、ただただ淡々とした描写。しかし、その内容は凄惨極まりない。

 その描写の詳細はここでは書かないけれども、あんなことをさせられた加害者側のソ連兵たちにとっても、相当の精神的ダメージではなかったろうかと思う。映画でたった数分見ただけで、これだけのダメージを受けたのだから、実際の現場を体験した者たちのダメージは想像を絶する。

 こういうダメージは、その場では分からなくても、じわじわと低温やけどの様に時間が経ってから症状が出てくるものだと思う。きっと、生きて帰ったソ連兵たちも、苦しんだに違いない。そんな事実は当然のごとく抹消されているだろうが、、、。

 そして、その終盤の凄惨なシーンを見ながら頭の中を駆け巡っていたことといえば、“ソ連は何でこんなことをする必要があったのだろうか?” という根本的な疑問だ。

 虐殺されたのが、ポーランドの知識階級の人々が多数を占めていたことから、国力弱体化を図るため、という解説を目にしたけれども、果たして真相はどうなのだろうか、、、。

 一人ずつ後ろ手に縛り上げて頭部を拳銃で撃ち抜くという、何という手間暇の掛かる殺し方。それを何万回と繰り返したその執拗さ。弾丸1発でも、何万人分ともなれば、決してそこに掛かる経費は安くないはずだ。もっと、安価で簡単に虐殺する方法はあったはずなのに、どうしてそんな執拗な殺し方をソ連は選んだのか、、、?

 しかも、銃殺は屋内で行われ、床に流れた大量の血を、1回1回、丁寧に洗い流すのである。何という、手の込んだ虐殺か、、、。

 この疑問に明快に答えてくれる情報には残念ながら、辿り着けなかった。虐殺の方法に良いも悪いもないものだが、ここまで執拗かつ残虐な手法をソ連が選んだ理由が、私にはどう考えても分からない。


◆映画作品としては、、、

 本作は、ある意味、終盤の15分が全てを語っていると言ってしまっても良いくらい、映画作品としてみれば、いささかバランスを欠く構成だった様に思う。

 登場人物が多いので、それぞれの立場が明確に分からない人もおり、後から何度か見直してみて、何となく分かったように思うけれど、、、。

 アンナが、国境からクラクフに無事に戻れるのも、イマイチ分からないけれども、恐らくその前のシーンでアンナ母娘を匿ったのがソ連の将校で、彼の助力があってのことだと思われる。実際にどんな助力だったのかは分からない。将校がアンナに(命を保証するため)偽装結婚を申し出ても、アンナは頑なに拒むわけで、その後、どうやってクラクフに戻る許可が下りたのかは描かれていない。

 主役は、夫を待つアンナであるけれど、同じように家族を失った人々が群像劇のように描かれるので、それぞれの立場を理解するのに時間が掛かるし、説明不足は否めない。もう少し、登場人物を絞って、視点を定めても良かったのでは、、、。

 とはいえ、ワイダ自身が、この事件の遺族であり、ポーランド人としてこの事件について描くことに執念を燃やしたのは、本作を見れば、痛いほどに分かるので、作品としてバランスが悪くても、瑕疵があっても、それを補って余りある価値が本作にあることは間違いない。

 映画は原則としてはエンタメだと思うが、こういう映画ももちろんアリだし、映画だからこそ出来ることだと思う。

 実話モノは受け止め方が難しいところだけれど、本作については、圧倒的な監督の熱量にねじ伏せられた感じがする。有無を言わせぬパワーに圧倒されるのも悪くない。


 






ソ連はやはり怖ろしい。




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