goo blog サービス終了のお知らせ 

金星太郎日記

教室は宇宙船 どこへだって行ける けやきのこずえに続く青空… 谷川俊太郎の詩より 

仏教法話2014

2014年09月02日 06時58分29秒 | Weblog

お寺で法話を聴いた。

6時、朝の空気はひんやりとしていて、気持ちがいい。
本堂に集まった人々の顔は穏やかで晴れ晴れしていた。
全員で念仏を唱えてから、法話が始まった。テーマは「歎異抄」。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや・・・
自分はこれまでこんなに善い行いをしてきた。だから、極楽往生できるはずだ、という人がいたとする。または、極楽へ行きたいがために一生懸命に良い行いに努める、という人。・・・自力で仏になれると信じている人のことを親鸞上人は「善人」と言ったのである。
しかし、私たち人間は生きているだけで、様々な生命を殺して食べて、犠牲にして生きている。罪深い存在だし、そういう罪を重ねなければ生きられないのが人間である。
自分だけが善人で、成仏できて幸せと思うことが許されるのか?
悪人とは、自分の罪を認め、自分のような者が悟りを開くことなどできるはずもない。極楽往生するには阿弥陀仏におすがりし、そのお力をお借りするしかないと信じる人のことである。

「自力」と「他力」について・・・、
五木寛之氏の著作「親鸞」には、次のような記述がある。

・・・遠くから今様を歌う男女の声がする。
みだのちかいぞたのもしき・・「弥陀の誓いぞ頼もしき」
じゅうあくごぎゃくのひとなれど・・「十悪五逆の人」
ひとたびみなをとなうれば・・「ひとたび御名を称うれば」
らいごういんじょううたがわず

身分の高い人々が尊ぶのが和歌。今様はそれとはちがって、卑しきわれらの好む巷の流行り歌だ、と、法螺房はいった。
「世態人情、男女の妖しき思いをうたうのが今様の本領じゃ。しかし、なかにはみ仏の深い心を讃嘆する歌もある。・・・十悪五逆の悪人さえも、ひとたび弥陀の名を呼べば必ず救われるというのはおどろくべき外道の説のようじゃが、決して不思議ではない。そもそも無量寿経の四十八願中の第十八の願は。わが名をよぶ衆生すべてを済度せんという、至心信楽(ししんしんぎょう)の王本願。最近はそれを説く者もでてきたらしい。」
「らいごういんじょう、とは、来迎引接のこと。臨終のとき仏がみずからやって来られて、衆生を極楽浄土へ導いてくださる、という意味じゃ。・・・わしも、あの弥七も、河原坊も、みんな悪人よ。どう見ても徳を積んだ善人ではない。われらはみな、人をたぶらかし、世を騙る悪人。だが、それしか生きるすべはない。そのようなわれらでも、地獄へ行きとうないのだ。救われるものなら救われたい。みなが心の中でそう願うておるのじゃ。だから、その思いを今様に託して歌っておる。あの歌はそのような卑しきわれらの念仏かもしれぬ。」

歎異抄 第一段《現代訳》
阿弥陀仏の誓願の不思議な力に助けられて、わたしのような凡夫でも必ず往生できると信じて、お念仏をとなえようと思う心が起きたその瞬間、わたしたちはもれなく阿弥陀仏のお浄土に救いとられているのである。
阿弥陀仏の本願は、年齢や善悪によって凡夫を差別せず、ただ信心だけがあればよい。
なぜなら、仏の本願は、罪の重い凡夫、煩悩をどうすることもできない我ら凡夫を救ってやろうというものだからである。
だからこそ、その本願だけを信じておればよいので、他の善行など必要としない。いや、お念仏より優れた善行など、ありえぬのだ。
また、悪を恐れる必要もない。仏の本願を妨げるほどの悪など、どこにもないからである。

良いことをしてその報いを期待する・・・そういう心こそが煩悩を抱えた人間の姿ではないか。
逆に、悪を承知でそうすることでしか己を活かすことができない存在こそが人間の正直な姿ではないか。
そんなことを感じながら法話を聴いた。

2014/08/29


最新の画像もっと見る