金星太郎日記

教室は宇宙船 どこへだって行ける けやきのこずえに続く青空… 谷川俊太郎の詩より 

ビール列車2014

2014年09月13日 21時59分03秒 | Weblog

【ビアトレイン2014】

電車に乗っていて、気になる広告があった。
「ビアトレイン」~喉を流れるひんやりビールと、車窓を流れる景色に酔いしれる~ サア、こころの滋養旅行に出発進行!

レトロな雰囲気の女性がジョッキを持って、微笑みかけている広告だ。

長野電鉄の駅舎に徳間ライジングキッズの元監督のYA氏が勤務していたので、さっそく電話してみた。
3000円で車両内の生ビールが飲み放題、お弁当付き、飲み物・おつまみの持ち込み自由とのこと。これはお得・・・、さっそく仲間を募ることにした。

以前から中学校の同級生のY氏から「ビール会をやろう!」と時々誘われていた。彼は薬剤師として30年以上県内県外の病院にコツコツと勤務して、今は自宅でゆったり暮らしている。彼の意向にぴったりの「ビアトレイン」の情報を知らせてみた。
すぐに返事が来て、Y氏は参加したいとのこと。あと2人はどうしよう?

同級生で誘える仲間と言ったら・・・、まずはW氏。
彼は以前、旅行会社で添乗員として仕事をしていたこともある。こういう企画に慣れているし、今は退職して自宅にいるので時間に余裕があるはずだ。
電話して誘ってみると、二つ返事で快諾。親友でもある同級生のH氏にも声をかけてくれることになった。

H氏は銀行職務を退職し、今は第二の職場「N経済研究所」でコンサルタントをしている。真面目で勤勉な性格。以前にも同級会の幹事を引き受け、いろいろなお店に連れて行ってくれたこともある。

夏の終わり、4人で駅の改札口に集まった。しばらくベンチに座って出発時間を待つ。
サラリーマンや学生が家路を急ぐ人々に混じって、「ビアトレイン」の企画に参加するグループが集まってきた。電車の座席の関係で4人グループが多い。
その中に知った顔ぶれがあった。
ドッジボールのコーチをやってくれたMさん。保護者のWさん。いずれも徳間小のPTA会長を勤めてくださった方々だ。気の合う仲間4人で誘い合って応募したとのこと。
彼らは我々と同じ車両で、すぐ斜め後ろのボックスに陣取った。

座ると同時に弁当とコップが配られ、長電従業員で愛想がいい女性がビールを注いでくれた。
「かんぱぁ~!!」

車内のあちこちから威勢の良い歓声がわいた。

我々4人は気分良く飲み、そして近況を語り合った。退職後の生活のこと、共通の友人たちのこと、身体の健康、老後の楽しみ・・・、話題は尽きない。
同級生のニックネームを話題にして、盛り上がった。
渡辺⇒『ナベ』 山崎ひろよし⇒『やまひろ』 やすはる⇒『ヤっちゃん』は、納得できる。
そう言えば、なぜ『オサ』なのか?
定正⇒お定⇒おさだ⇒オサ・・・というふうに変化した・・・という結論になった。
しかし、当時の副級長は、なぜ『オシメ』なのか? 今度同級生に聞いてみたい。

車窓を眺めると、いつの間にか夜の帳(とばり)がおり、遠くに夜景が輝いている。
特別列車なので、いくつも駅を通過し、小布施駅に到着。
車両にトイレがないので、着くと同時にトイレに直行。
駅舎では臨時の土産売り場を設置して、地元の特産品などが売られていた。
Y氏は野沢菜の葉で巻いた大きなおにぎりを買って、「どうぞ、どうぞ・・・」と、振舞ってくれた。田舎らしいご馳走だ。
アルコール検知器を使って、『一番呑んだのは誰か?』選手権大会も行われて、景品なども用意され、当選するたびに歓声が上がっていた。

1時間ほど小布施駅に停車して、列車は折り返し運転を開始。
車内は皆、酔いが回って、かなり賑やかになってきた。
「3号車の皆さん、記念写真を撮りましょう!」
Mさんが音頭をとると、全員がカメラに向かってポーズをとった。
偶然乗り合わせただけの人々が一瞬、不思議な一体感と充足感を共有することができた。

同じ時間のはずなのに、往路に比べて復路の時間はとても早く感じる。
気づくと、長野駅に着いていた。
酔いの勢いなのか、知らない人にも気軽にお別れの声をかける。
「ビールが美味しかったね。お疲れ様ぁ~。」
「またどこかでお会いしましょう!」

そして、トイレに直行だ。

4人は、改札口で再会を約束して別れた。
同級生というのはいいもんだ。そこにいるだけで、安心する。
昔、一時期を共にしたという理由で・・・、今現在いつ会っても心が通じ合えるのだ。
そして、話しているだけで、いつの間にか少年時代に戻っている。
また、来年もこの企画に参加してみたい。

2014/09/12



仏教法話2014

2014年09月02日 06時58分29秒 | Weblog

お寺で法話を聴いた。

6時、朝の空気はひんやりとしていて、気持ちがいい。
本堂に集まった人々の顔は穏やかで晴れ晴れしていた。
全員で念仏を唱えてから、法話が始まった。テーマは「歎異抄」。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや・・・
自分はこれまでこんなに善い行いをしてきた。だから、極楽往生できるはずだ、という人がいたとする。または、極楽へ行きたいがために一生懸命に良い行いに努める、という人。・・・自力で仏になれると信じている人のことを親鸞上人は「善人」と言ったのである。
しかし、私たち人間は生きているだけで、様々な生命を殺して食べて、犠牲にして生きている。罪深い存在だし、そういう罪を重ねなければ生きられないのが人間である。
自分だけが善人で、成仏できて幸せと思うことが許されるのか?
悪人とは、自分の罪を認め、自分のような者が悟りを開くことなどできるはずもない。極楽往生するには阿弥陀仏におすがりし、そのお力をお借りするしかないと信じる人のことである。

「自力」と「他力」について・・・、
五木寛之氏の著作「親鸞」には、次のような記述がある。

・・・遠くから今様を歌う男女の声がする。
みだのちかいぞたのもしき・・「弥陀の誓いぞ頼もしき」
じゅうあくごぎゃくのひとなれど・・「十悪五逆の人」
ひとたびみなをとなうれば・・「ひとたび御名を称うれば」
らいごういんじょううたがわず

身分の高い人々が尊ぶのが和歌。今様はそれとはちがって、卑しきわれらの好む巷の流行り歌だ、と、法螺房はいった。
「世態人情、男女の妖しき思いをうたうのが今様の本領じゃ。しかし、なかにはみ仏の深い心を讃嘆する歌もある。・・・十悪五逆の悪人さえも、ひとたび弥陀の名を呼べば必ず救われるというのはおどろくべき外道の説のようじゃが、決して不思議ではない。そもそも無量寿経の四十八願中の第十八の願は。わが名をよぶ衆生すべてを済度せんという、至心信楽(ししんしんぎょう)の王本願。最近はそれを説く者もでてきたらしい。」
「らいごういんじょう、とは、来迎引接のこと。臨終のとき仏がみずからやって来られて、衆生を極楽浄土へ導いてくださる、という意味じゃ。・・・わしも、あの弥七も、河原坊も、みんな悪人よ。どう見ても徳を積んだ善人ではない。われらはみな、人をたぶらかし、世を騙る悪人。だが、それしか生きるすべはない。そのようなわれらでも、地獄へ行きとうないのだ。救われるものなら救われたい。みなが心の中でそう願うておるのじゃ。だから、その思いを今様に託して歌っておる。あの歌はそのような卑しきわれらの念仏かもしれぬ。」

歎異抄 第一段《現代訳》
阿弥陀仏の誓願の不思議な力に助けられて、わたしのような凡夫でも必ず往生できると信じて、お念仏をとなえようと思う心が起きたその瞬間、わたしたちはもれなく阿弥陀仏のお浄土に救いとられているのである。
阿弥陀仏の本願は、年齢や善悪によって凡夫を差別せず、ただ信心だけがあればよい。
なぜなら、仏の本願は、罪の重い凡夫、煩悩をどうすることもできない我ら凡夫を救ってやろうというものだからである。
だからこそ、その本願だけを信じておればよいので、他の善行など必要としない。いや、お念仏より優れた善行など、ありえぬのだ。
また、悪を恐れる必要もない。仏の本願を妨げるほどの悪など、どこにもないからである。

良いことをしてその報いを期待する・・・そういう心こそが煩悩を抱えた人間の姿ではないか。
逆に、悪を承知でそうすることでしか己を活かすことができない存在こそが人間の正直な姿ではないか。
そんなことを感じながら法話を聴いた。

2014/08/29


夏山2014

2014年08月14日 06時18分15秒 | Weblog

【夏山2014】

恒例の夏山登山。というより「ハイキング」。
いつもの仲間で戸隠の「瑪瑙山(1748m)」へ出かけた。
9時。運動公園に集合して、山の案内人N氏の車に乗り込み、出発したものの、朝の空気はすでに熱風に近い・・・、今日の長野市内は33℃の予想だ。エアコンを稼働して走る。

4人のメンバーのうち、M氏が仕事でキャンセル。俳諧師のH氏は年季の入った登山服で元気な姿を見せた。
ちょうど1年ぶりの再会。お互いの健康を気遣い、無理のない山行コースを話し合った。日常生活から離れ、山の自然とふれあい、心と身体をリフレッシュするのが目的だ。

市内を抜けて浅川ループ橋にかかるあたりから冷房を止めて、窓を開ける。
自然の空気が車内に吹き込んでくる。天然のクーラーだ。
宝光社、中社と進むうちに観光客の数が増えてくる。

戸隠スキー場に着くと、広い駐車場を独占して、どこかの学校のマーチングバンドの合宿練習が始まっていた。足並みが揃ってキビキビした隊列の様子から、かなりの実力の学校だと察した。

レストラン横のリフト乗り場から続く道を歩き始める。
ヤナギラン、クガイソウ、ノアザミなどの群落が「ようこそ・・・」と、迎えてくれた。
ヒョウモンチョウが短い夏を惜しむかのように花々の間を飛び回る。

戸隠高原は昨年の冬、娘と姪を連れてスキーを楽しんだことがある。
「たしか、このあたりを滑り降りたような気がする・・。」
と、スキーコースを思い出す。夏のコースは草や木が生い茂って、その様相は冬のそれとは一変していた。

50人ほどのグループがワッペンを付け、列を作って登ってきた。都会から来たガールスカウトの集団だった。
「こんにちは」の明るいあいさつが印象的。

「メノウ」山頂(1748m)でカメラを向けた。
ガールスカウト指導者の一人が親切にシャッターを切ってくれて、3人揃っての記念写真が撮れた。

昼食はいつもの「握り飯」。H氏のお母様のお手製「田舎むすび」だ。
味噌漬けの味は格別。
家庭菜園で採れたきゅうりに味噌をつけていただく。山頂で食べるきゅうりの味は家の中で食べるのとはまるで違って、至福のご馳走だ。

過去の山行の思い出などを語り合いながら、しばらく休憩してから下山する。
スキー場のゲレンデらしい草原のすみをゆっくり歩く。
アキアカネの一群が飛び交って、水先案内をしてくれているようだ。
その腹はまだ赤くはない。あと何日したら「赤とんぼ」に変身するのかな?

1時間かからずに駐車場まで下りることができた。
マーチングの集団練習は既に終了し、3人ほどが自主練習に励んでいた。
どこにも熱心な生徒がいるものだ、と感心しながら車に乗り込む。

奥社の駐車場に車を停めて、林の中の「念仏池」を見学。
親鸞上人がここを訪れた時に、池の底が沸き返ったという言い伝えがある。
よく見ると、池の底から清水が絶え間なく湧き出していた。
その湧き出る音が念仏のように聞こえるというのだ。
しばらく手を合わせて『南無阿弥陀仏』と唱えてみた、不思議なことに池底から清水が砂を巻き上げて応えたように見えた・・・。

みやげ屋でプチ慰労会をやった。
山の清水でいれたコーヒーの味も格別だ。N氏やH氏はおいしそうにソフトクリームを舐めている。
膝やふくらはぎの疲労を癒してくれる。

帰りの車の中で、今後のお互いの暮らしや生きがいについて会話が弾んだ。
窓からは高原の清らかな空気が車内に吹き込んで、心と体を癒してくれた。

あと何年、こうして気の合う仲間と山行ができるのか・・・、お互いの健康を願って家路に着いた。

2014/08/8


連休 二話2014

2014年05月12日 16時15分41秒 | Weblog

その4 ~同級生①~
飯山の「菜の花まつり」から帰る途中、須坂市の同級生宅を訪問した。
N君とは小学校・中学校時代、9年間同じクラスで過ごした仲である。数年前に会社を早期退職して、今は福祉関係の仕事をしている。

ちょうど長女と長男それぞれのご夫婦が子どもを連れて里帰りしていて、家の中はとてもにぎやかな雰囲気だった。
飯山で買ってきた地酒「水尾」を提供して、久しぶりの酒盛りとなった。

30年ほど前に、二人で上越の海岸へ魚釣りに行った時の思い出がよみがえり、釣った魚をここで捌いて天ぷらや煮物にして食べた時の話で盛り上がった。
当時はマイワシが大量に釣れて、バケツいっぱいにして持ち帰ったのに、最近の上越は魚が少ないように思う。といっても最近は釣りに行く機会がめっきり減ってしまったのもさみしい。

N君は息子さんを連れて今朝、山菜採りに出かけたらしい。収穫した「コゴミ」「タラの芽」「ウド」「コシアブラ」を奥様が天ぷらにして出してくれた。
皿に盛られた山の幸を肴に飲む酒は最高だ。
これまで何回も山菜を食べてきたはずなのに、『こんなうまいものがあったのか?!』と、改めて実感するひとときである。
N君にとっては、春は山菜、秋はキノコ・・・、生粋の信州人。まだ息子さんには、自分のとっておきの場所は教えていないらしい。体力がなくなって、山に行けなくなりそうになったら、その秘密の場所を息子に譲ると言っている。

話題は小学生時代の思い出話へ。
昔は1年から6年までクラス替えがなく、N君とは6年間のお付き合い、(しかも中学校も3年間同じクラスだった。)幼馴染の極めつけというわけだ。
最高の思い出は、6年生の時の学級対抗陸上大会。
N君は最終種目のマラソンに出場。夕暮れの校庭にトップで現れた時、みんなは割れんばかりの歓声と拍手で迎えた。それはオリンピックさながらの感動的な光景であった。今もあの時の感激をはっきりと覚えている。
「練習もしたけど、さほど実力があったわけではない俺が、あの時に優勝できたのはなぜだろう? 」
「中学でも陸上競技を続けたんだろう?!」
「いや、中学では陸上部を途中で辞めてしまったし・・・。やっぱりあの時は、担任の高橋先生のために頑張って走ったような気がする・・。」

あの時、N君が代表で受け取った優勝旗はどこへ行ってしまったのだろう。担任の高橋先生の奥さんが手作りしてくれたあの優勝旗をもう一度この手で抱いてみたい、我がクラスの誰もが皆それを願っている。
N君はマラソンの優勝盾を今でも大切に飾ってあるというので、それを見せてもらった。それは、ベニヤ板に高橋先生がデザインしてくれた版画が貼り付けてあり、裏側には木切れを針金でとめただけの簡素な作り物だった。
しかし、私たち生徒にとっては先生からの最高のご褒美であり、50年以上過ぎた今でも、永遠の輝きを放つ「かけがえのない宝物」なのだ。

孫を抱くN君の顔がほころぶ。やさしいおじいちゃんの顔である。
奥様の趣味は社交ダンスだという。そういえば歩く姿勢が若々しい。
「私は、私・・・、旦那は旦那の趣味をそれぞれ楽しむだけですよ。お互いに干渉しないようにしています。」
全くそのとおりである。夫婦円満の秘訣を聞いたようで、こそばゆい。

『いつまでも仲良く、心身共に健康に・・・。』と、願うばかりである。


その5 ~同級生②~
5月6日。ゴールデンウィーク最終日。もう一度サイクリングに挑戦することにした。
以前から小川村に住む高校時代の同級生K君宅を訪問したいと思っていたが、なかなかその機会に恵まれず、今に至っている。
この連休に思い切ってK君のアトリエ(ギター工房)を見てみたいという欲求に駆られた。
彼は教員生活を早期退職し、安茂里の自宅から実家の小川村まで毎日通って、お母様の介護をしながら、農作業、そして趣味の工房などに精を出している。
年賀状に「アトリエを建ててギターを製作しています・・・」という記述があったのは何年前だろうか?
今は正規の仕事を退いて時間がたっぷりあるはずなので、さぞ自由な時間を満喫していることだろう、ちょっと覗いてみたい・・・、そんな気持ちで小川村をたずねることにした。

犀川の土手を上流に向かって自転車をこぐ。河川敷に広がる畑には、りんごの白い花が満開。
七二会地区に入って、自動車の排気ガスを避けるために旧道を進む。
「○○商店」「○○旅館」などの看板表示に、市内の繁華街のそれとは違う何かなつかしいものを感じる。
七二会を抜けて坂道が続く。ペダルが重い・・・。
街道の脇に所々、道祖神が鎮座して『道中、おつかれさま。これからの旅も、どうかご無事で・・・。』と、語りかけてくれる。

中条高校前の商店で最中を買う。
「この最中は名物なんですか?」
「売っている本人が言うのもなんですが・・・。」
「虫倉山っていう山に以前登ったことがあるんですが。」
「・・・。」
なんとも朴訥として商売っ気のない店主である。

「年中夢求」の看板を掲げるお店があった。どんな店なのか?
店主と会話してみたいという欲求が湧いてくる。しかし、残念ながら閉店していた。
「限界集落~No1~」の看板も。人口減のマイナスを堂々と主張している。逆手にとってプラスに向ける方策はないものか?!

街道をそれてオリンピック道路に出たところから急に視野が開け、北アルプスの山々が見えてきた。里の田んぼや畑、みどりの林の向こうに残雪が輝き、自然のハーモニーを奏でてくれていた。
自宅を出て2時間あまりの疲労をこの景色が癒してくれた。
「日本で最も美しい村」を自慢するわけが分かった。

「おやき村の春祭り」の看板が見えた。
『ちょっと寄って、名物のおやきでも買って帰るか・・・。』という軽い気持ちで向かったが、とんでもないことになった。
「あと1,3km」の標識が出たとたんに急坂が始まり、それが延々と続く。
引き返すか? それとも突き進むか?
迷いながら自転車から降りて、それを押しながら歩く。
ふと見上げると、眼前に八重桜が満開の姿で迎えてくれていた。
『ここまでよく来てくれたね。』と、花たちが語りかけてくれているような気がして、帰れなくなってしまった。
汗を拭き拭き、自転車を押す。乗って漕ぐことなどできない急坂がまだまだ続いている。

「この道で正しいです」の標識が見える。しばらく行くと、「あと600m。もう少しです」の看板も。
確かにそのとおりなんだろうが、本当にこの先におやき村のイベントをやっている場所があるんだろうか? と、心細くなるほどさみしい山間の一本道だ。
「あと100m。がんばろう」の標識。30分しか経ってないのに1時間以上登ってきたような気分だ。

最後のカーブを曲がると駐車場が見えて、自動車が数台停まっていた。
「いらっしゃいませ。お疲れ様でした。」と、店員が歓迎してくれた。
おやき村の食堂はまだ石油ストーブの火が燃えていた。名物の「縄文おやき」と「おろしそば」をいただく。汗を流して登って来た甲斐あって、おやきはふっくらとした感触で昔なつかしい味だった。そばはさっぱりとして、するするとのど越しが良い。 「うまぁ~い!! 」と、小声で叫ぶ。
火照った筋肉も程よく癒してくれた。

下り道の自転車はブレーキだけでペダルを漕ぐことなくノンストップで・・・、10分ほどで里に着いてしまった。
街道を走っていると小学生らしき女の子が、「こんにちは!」と明るいあいさつをしてくれた。これだけでも「小川村に来て良かった・・・。」と、実感する出会いだ。

携帯電話でK君を呼び出すと、農作業中にもかかわらず、すぐに会うことができた。
K君のご実家は小川中学校のすぐ隣にあり、田んぼもすぐ近くにあった。田植えの準備のために畦の補修作業をしていたらしい。最近では、都会からの移住者の農業を手伝ったり、交流したりしているらしい。彼らのために苗作りをしているというので、種もみの発芽した様子を見せてもらった。
数年前に教職を退き、今は農業に専念しているというK君の顔は日焼けし、たくましさに満ちていた。

工房は別宅に自分で設計して建てたというからすごい。同級生たちに基礎や建築をやってもらったが、内装などは自分で工事したらしい。暖房は薪ストーブ。外に2年分の薪が積み上げられていた。K君らしいこだわりだ。
手作りのギターを拝見した。どこかに修行に行って覚えたのかと思ったら、そうではなく、インターネットで設計図や材料を取り寄せ、自分で研究して製作しているというから驚きだ。
細かい部品を丹精込めて埋め込んでいく作業は、至難の業。それを自己流で窮めているK君はやっぱりすごい。
改めて手作りのギターを鳴らしてみると、本体の重さに比べてはるかに軽くて繊細な響きがする。
ギターの材料を一つ一つ説明してくれるK君はすでに職人の目をしていた。
現職を退き、第二の人生を踏み出した我々60代にとって、自宅でどのように過ごすかが大きな課題である。
K君の姿からそのヒントをもらったような気がした。

ゴールデンウィーク最終日に山間の小さな村を訪れ、その自然と人に触れ合えたことに心から感謝したい。

K君から30年ぐらい前にいただいた絵画「北の漁港」が、我が家の廊下の壁に飾られている。学生時代に描いたものだという。
これからもこの絵を眺めるたびにK君のことを思い出すことだろう。

2014/05/12



連休 三話2014

2014年05月07日 17時30分18秒 | Weblog

【その1~ながの花フェスタ~】

今年のゴールデンウィーク後半は「善光寺花回廊」を見に行った。テーマは「未来へ広がる 花の輪 人の和」
会場の中央通りでは、歩行者天国にして道路いっぱいに花びらを敷き詰め、いろいろな模様を描いていた。幾何学模様やアニメのキャラクターなどが鮮やかで、可愛らしい。

初日だったので、人々が花びらを色ごとにまとめて置いていく様子や、霧吹きで水をやっている様子も見ることができた。
三輪小、城山小、柳町中など、学校単位で「タペストリーガーデン」に参加。色さまざまなパンジーの寄せ植えを工夫してきれいに飾られていた。

花に囲まれていると、なぜか心が和み、人々に笑顔が増えてゆく。
家族連れや若いカップルが談笑しながら歩いてゆく・・・。
日本の平和を象徴するような光景だった。


【その2~憲法を考える~】

今日は「憲法記念日」。改めて日本の平和を支えている原点を考えてみよう。
小学6年生で習う憲法の根本理念は、「国民主権」「基本的人権」「平和主義」。
この理念を貫いてきたからこそ、今の日本の現状がある。

第25回市民の憲法講座に参加した。
信州大学大学院教授のN氏の講演から学ばせていただいた。
為政者が自己の利益のため権力を使用することを禁じ、真に国民の利益のために行使させる、これが立憲民主主義の本質である。
日本が立憲民主主義の国家として、世界に向けて発信すべきこと・・・。
先の大戦で加害者と被害者の両側面を持つ日本が主張すべきことは、「正しい戦争などはない!」ということ。

今、「交戦権を認めない」憲法の『解釈』を変えて、戦争ができる国にしようとする為政者に立憲民主主義の根本原理を示して・・・二度と戦争に参加することがないようにしなければ、と強く感じた。

平和を享受するだけでなく、平和を守る努力、憲法への関心を深めていくことが「憲法記念日」の意義ではないだろうか?

一人の主婦の発案から始まった「憲法9条にノーベル平和賞を」という市民運動が注目されている。新聞報道によると、
「昨年1月から署名活動を始め、今年2月の締め切りまでに学者ら42人が賛同し、約2万5000分の署名と共に応募。」「受賞資格は個人または団体のため『憲法九条を保持する日本国民』としてノミネートされている。」
今年のノーベル平和賞候補は278件で、10月10日に受賞者が発表されるという。
世界に誇る日本国憲法。この機会にノーベル平和賞の受賞を願うものである。



【その3~菜の花まつり~】

連休の楽しみは、「飯山菜の花まつり」。昨年は電車で飯山駅まで行ったが、今年は自転車で行くことにした。
この自転車は長女が学生時代に日本中をひとり旅していた時に購入、その後就職・結婚を機に使わなくなったため、それを譲り受けた。古くなったチューブを交換したり、チェーンや車輪軸に油を注入したりして整備した。
ところどころ錆び付いているが愛着を感じる。

自宅を出て、犀川・千曲川の堤防に沿って下る。風を感じて、野山と土の匂いを嗅ぎながら・・・。
野ネズミをくわえて飛び立つタカを発見したり、暖かい光に誘い出されて這い出した毛虫たちの大軍を見送ったり・・・。
ヒバリのさえずり、ウグイスの恋歌、ハナモモの紅色とヤマブキの黄色が鮮やかだ。
田んぼにカエルの声が響き、裏山の斜面にはノビロ採りに出てきた親子が戯れる。
そこに、高野辰之の「ふるさと」の詞にある原風景が広がっていた。

普段は自動車で移動しているから分からないが、ちょっとした上り坂でもペダルと漕ぐ力が平地のそれとは全然違うのだ。
飯山線は単線。2両編成の列車はのんびりと走るので、それと競走しようと頑張ったが・・・、すぐに追い抜かれてしまった。

飯山市内に入って、ハナミズキの白やピンクに染まる並木道を走る。苦しさに耐えての3時間。ようやく「菜の花まつり」会場に到着。
一面に黄色いじゅうたんを敷き詰めたような光景が広がる。ボランティアの市民や小中学生が日頃から丹精込めて手入れした様子もうかがえる。
菜の花の匂いと景色が身体に染み込んできて、全身の疲れがいっぺんに吹き飛んでしまった。

特設ステージではすでにコンサートが始まっていた。
今年は高野辰之先生が「おぼろ月夜」を発表してから100周年ということで…記念の音楽祭となった。
27のグループが午前と午後、それぞれ味わいある演奏を披露していた。
大阪市民混声合唱団は自称「おっちゃん・おばちゃん」で構成される中高年世代のパワーを発揮していた。
奥信濃童唱会、オカリナの会・・・、共通点は年齢に関係なく心から音楽を楽しんでいたことだ。
菜の花を守り、育てているのは、ボランティア活動に携わる市民や小中学生である。

畑に広がる菜の花の群落は、ここに集う人々の限りない思いやりと優しさを映し出しているようで、その心がそよ風と共に伝わってきた。

2014/05/05



第2回リバイバルカップ

2014年04月09日 06時18分39秒 | Weblog




小学校を卒業してしまうと、それまで熱中してやってきた「ドッジボール競技」から離れてしまう少年少女たちが多い。中学や高校の部活動に「ドッジボール部」がないためだ。
小学生の時にあれほど厳しい練習をして、汗と涙と、そして感動の試合や大会を経験しても・・・、それを続けられないのはとても残念なことだ。

こういう現状にあって、10年ぐらい前から中学生以上の試合を準備したり、大人のドッジボールチームを作って練習したりして、そのカテゴリーのドジボール大会に出場する青少年が現れた。
彼らは学生だったり、社会人だったり、それぞれの本分がありながらもドッジボールに関わり続けるという健気な努力を続けてきた。こうした前向きな青年たちに敬意を表したい。

4月6日(日)、「第2回リバイバルカップドッジボール大会」が開催された。
実行委員長のK君を中心にそれぞれのチームから卒業した青年たちが準備してくれた手作りの大会だ。
大人のドッジボール競技は、日本ドッジボール協会でも近年その活動方針に重要課題として掲げられ、各地で競技会が行われるようになってきた。

K君たちは定期的に集まって練習を重ね、県内外の競技会に参加して実力をつけてきた。それは小学生の頃に熱中したドッジボールへの思いを温めながら、さらに今の自分自身の現実生活に重ねて「より情熱的な生き方」を模索しているようにも見える。
今回のリバイバルカップは、「夢中でドッジボールを楽しんでいた頃の自分」「夢へ向かって努力していた頃の自分」「みんなで全国大会へ挑んでいた栄光のチーム」への『復活』かもしれない。

大会を見ていて気づいたのだが・・・、
ボールの大きさは変わらないものの、コートのサイズが大きかったり、外野選手のワンタッチ特権が欠如したりしているため、試合の流れや戦術も小学生のそれとはだいぶ違う印象を持った。
それに加えて、選手同士の関係がとても和やかで、好感を持った。
対戦チームの選手とも気軽に会話したり、談笑したりする場面が随所に見られた。「ドッジボールの同窓会」のような雰囲気がとても良い。
指導者にとっても、嬉しい限りだ。たった数年で身体がずいぶん大きくなったものの・・・、しかし、心は当時のまま。プレーの癖まで変わっていないことに苦笑いである。

こうした青年たちがそれぞれのチームに戻り、後輩である現役小学生を教え、やがて監督やコーチになって指導する日が来ることを願う。
既に、こうした「世代交代」が進んでいるチームが少なくない。頼もしい限りだ。青年たちの成長に期待したい。

ところで、
開会式でサプライズが・・・。
選手宣誓の途中で、Y君が突然「お誕生日、おめでとうございます!」、と。
そして、S君が歩み出て、私のために「長寿のお水(?)」のプレゼント。
会場から激励の拍手が・・・。

涙が出そうなくらい、うれしかった。
これまで62年を生きてきて、こんなことは初めてだった。

こんな素敵な誕生祝いを用意してくれた実行委員長のK君はじめ、あの頃の自分への『復活』を誓う青年たちに感謝したい。
ありがとう!
62歳の青年も一緒に顔晴ります!

ドッジボールに関わって18年。先輩指導者や協会役員、審判員の方々にも感謝したい。今自分がこうして子どもたちの前に指導者として立てるのも、その先輩諸氏のおかげである。
会場では、あまりに突然だったので、感謝の言葉が足りなかったと思う。
こうして改めて、この思いを綴っておきたい。

そして、この誕生日の節目をドッジボール普及活動への再スタートの決意としたい。

「いつでも どこでも 誰とでも そして、いつまでも」

2014/04/08



禅問答の思索2014

2014年02月08日 09時53分12秒 | Weblog



ここ数年、早朝目覚めることが多く、やはり「年寄りは早起き」…というのは本当のようだ。
そんな時は最近、読書をして朝の時間を過ごす。生活リズムが整い、心身の健康にも良い。「早起きは三文の徳」とはこのことか。

千葉県東金市に住む義父から1冊の本を薦められた。それは、心訳・「鳥の空音」(元禄の女性思想家・飯塚染子、禅に挑む)島内景二:著、である。
前書きには、
「・・・この世に生きる意味はあるのか? 絶望の中で飯塚染子は禅の問答集『無門関』に向き合い、自分なりの思索をぶつけ、書を記した。時を経て、その書に慈雲尊者が自らの思索を書き加える。…時代を超えた奇跡の「対話劇」、小説仕立ての現代語訳。…江戸中期、元禄を生きた忘れられた文学者・思想家、飯塚染子の再発見。」
と、記されていた。

年表でみると40歳という短い人生だが、それを精一杯生きた女性。源氏物語、枕草子、徒然草、そして中国の古文や経文・・・それらを読み尽くして、自らの思想に取り込んでいた女性だ。
「『無門関』には人間が心理に至るため解決しなければならない難問が書かれている。それを一つずつ拙い頭脳で考えていきたい。」という染子。

さて、この「鳥の空音」に興味を持ったのには、理由がある。
義父が東金市の郷土史研究会に所属し、地域の歴史に詳しく、その話をよく聞かされていたこと。さらに義母の生家が柳沢吉保の実母である「きの」の生まれた本家とも遠縁にあることだ。
柳沢吉保といえば、五代将軍「徳川綱吉」の重臣で、その側室が飯塚染子なのだ。(染子は、柳沢家の跡取りとしての柳沢吉里を生んだ。)

長野市との関連でいえば…、元禄11年に善光寺の尼上人となった「智善」は飯塚染子の妹である。

命のつながりとは不思議なものだ。還暦を過ぎると、自分がこれまでどのように生きてきたのだろうかと、ふと考える。さらに、必ず迎えるであろう「死」を少しずつ意識し始める。そういう時に、今ある自分の命が遠い過去の命とどのようにつながっているのか、祖先がどのように「生き」、そして「死」を迎えたかに関心が向くのだ。

「鳥の空音」を読み進めるうちに、染子がかなりの教養を身に付けていたことがわかる。しかも精神的に強固であることと同時に、自らの「生き方」を厳しく見つめ、深く問い続けていたことに驚く。

以下、電気通信大学教授:島内景二氏による(心訳)「鳥の空音」の一部を抜き書きしてみた。


『無門関』第一則
・・・犬に仏性はあるか? つまり、仏となる可能性は有るか? それとも無いか?・・・趙州和尚は「無い」と答えた。

この公案について、わたくし、智月こと飯塚染子は次のように考える。
『涅槃経』には「一切衆生、悉皆有仏性」すべての人間には仏となる可能性があると説かれている。また、「山川草木、悉皆成仏」、つまり、この世に生きとし生けるものは、人間であるかないかの区別なく尊い仏様になる可能性を持っていることは明らか。

この世界が誕生し、生命が宇宙に芽生えた太古の昔から生き物の「心」の中には仏様になる種がしっかり存在していたのだ。一つ一つの生命体はそれぞれが不足のない完璧な功徳の集合体なのだ。

『源氏物語』、に記された黒貂の話。生き物には仏性が備わっている・・・(略)

『栄花物語』『古本説話集』の牛の話。『小倉百人一首』の和歌
「これやこの行くも帰るも別れては知らぬも逢坂の関」で有名な逢坂山にいる白い牛が仏様の化身であるという話。
『妙法蓮華経』の芬陀梨の花(白い蓮華)は森羅万象に内在する絶対の真理を象徴しているとされる。真理というものは人間の目にはっきりとは見えないものだ。

『拾遺和歌集』に古歌がある。
「我が恋の露はに見ゆる物ならば都の富士と言はれなましを」
恋の炎は目には見えないのだ。

『源氏物語』の六条御息所など、恐ろしい「心の鬼」に苦しめられ、生霊や死霊などの「物の怪」になってしまう人が登場する。心の鬼の姿をしかと見届けた人はいない。

『無門関』第一則の公案がテーマとしている「仏性」も目に見えないものである。それは人間の煩悩や無明の汚れに汚染されず、どこまでも透明で美しく照り輝き続ける、先天的な可能性なのだろうか?
あるいは、「仏性」とは、清浄さを保つためのものではなく、綺麗な物も汚い物もいっさい区別せずに受け入れ、凡人も聖人も分け隔てせず、すべての存在物は仏の前に平等であると考える理屈のことなのだろうか?
あるいは、「生死即涅槃」という言葉があるように、生死の迷いと涅槃の悟りの違いなど乗り越えて、明瞭かつ明白に生と死の真実を指し示すものなのだろうか?

中国の話、銭陸燦の『庚巳編』、『寂照堂谷響続集』に記載がある話をわたくしは、物語風に構成脚色して、次に語りたい。

・・・ある夜、若い女が別荘の男を訪ねて「今晩、ここに泊めてください」と頼む。男は悪い噂が立つと心配して断るが、女はあきらめずに別荘の中に入り込んでしまう。男は女を押し出そうとするが、女はそれでもひたすら男にすり寄ってくる。そうこうするうちに、しらじら夜が明けてしまった。女は部屋から出て庭に生えていた芭蕉の木のうしろに消えてしまった・・・。

この女は心を持った生き物なのだろうか? それとも「山川草木」のように心を持たぬ存在なのか? そもそも人間と山川草木の違いなど、あるのだろうか?

剣の道の達人、上泉伊勢守の和歌
「有りの実と無しといふ字は変はれども食ふに二つの味はひは無し」

それとまったく同じ理屈で、「心を持った生き物と、心を持たぬ無生物とは、本来、同じ本質を持っている。それらは平等であり、区別できない。」と言ったならば、世界の本質から遠ざかることになってしまう。
「有る」とはどういうことなのか、そして、「無い」とは、どういうことか? 昔から聖人や優れた和尚たちが考え続けても、なかなか結論が見えないのが、世界の真理というものだ。
人間が仏になり得る可能性についても結論は見えてこない。人間が仏になる困難さは、険しい山道にも喩えられる。あちこちに化け物や「源氏物語」などに登場する木霊のような変化の物やらが、通行人が山を越えて真理に到着するのを邪魔したり、惑わしたりしている。
無門関の最初の関を越えるのはとても困難。この「有る」と「無い」の関を越えなければ、その先に続く四十七の関は越えられない。

『源氏物語』に引用されている古歌
「桜咲く桜の山の桜花咲く桜あれば散る桜あり」
桜の山をよく見てみると、散り始めている桜もあれば、やっとほころび始めようとしている花もある。世界の真理に早く気付く人もいれば、自分のように凡愚でいつまでも悟れない人間もいるのと同じことだ。しかし、この歌は、生と死、「有る」と「無い」とが入り交じっている世の中の真実をわかりやすく教えてくれている。

『臨済録』には、「禅の道に達した人間は、どんな着物を着たいと思っても願いはかなうし、どんなものを食べたいと思っても願いはかなう」と書いてある。また、「聖とか凡などの違いにとらわれず、凡にでも、聖にでも、浄にでも、穢にでも、入ってゆかねばならぬ」とも書いてある。
そういう境地であれば、・・・足を上げたり下したりする、すべての動作が修行であり、悟りにつながっていることがわかる。
ああ、わたくしも、そのような境地で、修行の旅に出たいものだ。そのためにも、この最初の関門を何としても越えなければならない。

わたくしの和歌を一首。
「駒並べて行くも有らなむ関の戸の名も懐かしき逢坂の山」
真理への道は、孤独そのもの。だから、わたくしは一人でこの道をどこまでも進んで行こう。けれど、馬を並べて一緒に旅をする人がいたら、どんなに心強いことか。
あっ、真理に至るための最初の、しかも大きな関所が近づいてきた。真理と「出逢う」という、名前もゆかしい「逢坂」の関だ。
わたくしは、世界の真理という同行者と、馬を並べてこの関をこえよう。そして、どこまでも二人で、行けるところまで思索の旅を続けよう。

かつて孟嘗君は、「鶏鳴狗盗」のことわざで、まだ暗くて朝にならない時分に、家来に鶏の鳴きまねをさせた。すると、朝になったと錯覚した番人が関所を開門したので、無事に函谷関を通過することができたという。
わたくしは、これから『無門関』の一つ一つの公案についてエッセイを書き綴る。それが、わたくしなりの「鶏鳴狗盗」である。

『枕草子』で有名な清少納言は、『小倉百人一首』にあるように、
「夜をこめて鳥の空音は謀るとも世に逢坂の関は許さじ」
という和歌を詠んだ。
関守に許されて関を越えるのは、それほどむずかしいことである。わたくしの精一杯の「鳥の空音」を聞き届けて、門を通過させてくれるのは、四十八の関所のうち、いったいいくつあることだろうか。

『無門関』第二則
・・・わたくしは狐の精の物語を書いてみたい。『酉陽雑爼』は中国の書物だが、日本の物語をしても読めるようにしてみた。どんな出来映えになるか、自分でも楽しみだ。

今は昔、一人の高徳の聖がいた。その聖は、多くの死者が捨てられて風葬される化野に庵を結び、日々を過ごしていた。ある日、聖は「初夜」のお勤めをしていた。ふと何かの気配を感じて、庵の窓を押し開いて外の風景を眺めていると・・・。すぐ近くのススキの中から一匹の狐が姿を現した。その狐は、化野に捨てられているたくさんの亡骸の中から一つのしゃれこうべを手で拾い上げ、頭に乗せようとするが、うまくゆかず下に落としてしまった。すると、狐は別の新しいしゃれこうべを手にとっては下に落とし、また、ほかのしゃれこうべを手に取っている。そのうちに、とうとうしゃれこうべを自分の頭の上に乗せることに成功した。すると、その狐は優艶な女性に化けてしまったではないか。聖は「世間の噂は本当だった。『酉陽雑爼』に書いてある通りだ」と思ったが、ひたすら見守っていた。
しばらくして、そこに清らかな服装をしていかにも高い身分の男が馬に乗ってやってくるではないか。狐が化けた女が道にしゃがみこんで動かないのを見て、男が「どうしたのですか」と質問しながら、近くに寄ってきた。女は、話を聞いている男が「かわいそうに、悲しい身の上だなあ」などと思うような作り話を、あれやこれやと言い続け、ひたすら泣きじゃくっている。男は女の話を信じて、とうとう都の自分の屋敷に女を連れて行こうとした。聖は「あの女は、人間ではない。誤って狐と関わりを持ち、身に災いを招いてはなりませぬぞ」と強く忠告した。しかし、男は「女の言う通りだろう」と信じているようすで、女を掻き抱いて都へ戻って行ってしまった。
その後、何年か経って、その男は原因不明の病気にかかって寝つき、常軌を逸した精神状態に陥り、そのまま死んでしまった。代々蓄えてきた莫大な財産も、あっという間に無くなってしまった。屋敷も荒廃し、荒野が原となってしまったとか。

と、以上、わたくしがいささか創作風に書き記したものだが・・・(略)
野狐に引導を渡した百丈和尚とはどういう人物だったか。彼は、労働と自給自足の大切さを唱えたという。春には田を鋤き返し、夏には雑草を抜く。・・・百丈和尚がお年を召してからも労働を止めない・・・、老牛が一畝か二畝かは耕せるように、百丈和尚はどんなに年を取っても、まだ働くだけの力が残っていたのである。
・・・百丈和尚は、「一日働かなかったら、自分はその日は何も食べない」ということを信条としておられた。

わたくしの和歌・・・
「夜と共に落つる木の葉を時雨かと聞きしも文無冬の山里」
夜、ふと目を覚ますと時雨が降っている音が、いや、それは木の葉が屋根に降っている音だった。冬の山中では、それほど二つの音は間違いやすい。同じように、真実と誤謬、現実と妖異も混同しやすい。けれども、百丈和尚ほどの禅僧が、野狐の話を信じたということには、どういう深い意味があるのだろうか。(略)

わたくしたちの夫婦生活や恋愛生活、つまり人間の生活は、誤解のうえに成り立っている。夜だけでなく昼間も、荒い波風が立っているのだ。その真贋を見分ける「化野の聖の目」を手に入れるには、どうしたらよいのだろう。
百丈和尚が信条とした「一日働かなかったとすれば、自分はその日、何も食べない」という当たり前の日々を生きるしかないのだろうか。
・・・  ・・・  ・・・

このようにして飯塚染子の思索は、さらに四十八則まで延々と続く。読み終えて、改めて感じるのは…
飯塚染子の燃えるような探究心、自己確立のための努力、何よりも40年という短い人生を精一杯、前向きに生き抜いたという迫力だ。

夏の暑い日も冬の寒い日もひたすら「無門関」の文章と向き合い「真理」を追求し続けた染子。時代を越えて、その『学問への情熱』『生きる意欲』が伝わって来る。その精神力と向学心は一体どこから湧いてくるのだろう。
当時は写本と言って、紙に墨をつけた筆で一枚一枚書き写して学ぶ時代だ。
空気も凍りそうな厳寒の部屋で、染子はどんな心境で執筆していたのだろうか。

江戸時代とは違い、現代はとても便利な時代だ。部屋を見回せば、スイッチ一つで部屋は明るく照らされ、暖房や冷房も用意され、食べるものも豊富だ。
しかし、心が満足しているかというとそうではない。「幸せ」と実感する時間はどのぐらいあるのか、と問い直したい。

さて、先日…
NHK教育TVの『団塊スタイル』という番組を視聴した。
退職した後、美容師の資格を取得し、訪問美容に精出す女性。
定年退職した後、大学で『森林インストラクター』の資格を取得し、ボランティアの緑化活動に励む「元サラリーマン」などが登場していた。

自分の人生を振り返り…やり残した『何か』を取り戻し、実行しようとする姿が描かれていた。

人間とはいかなる存在なのか? そして、いかに生きるべきか?
それは、時代を超えて永遠のテーマだろうと思う。
言い換えれば…それに真正面から取り組んでいくことが「若さ」とか、「青春」などと、表現できるのではないだろうか?

禅問答は「難しい」と退けるのではなく、染子の文章(「島内景二」氏が格闘して「心訳」してくださった著作)と向き合い、自らの思索を深めていきたいと思う。
そして、残された人生をいかに生き抜いたらよいかを探りたい。

早朝、庭先に置いたプランターには、パンジーが黄色い花を健気に咲かせていた。昨夜からの粉雪が花びらや葉に積もっていた。
こんな風景を見たら、染子はどんな和歌を詠んだのだろうか?

2014,2,8



新潟Vカップ 2013

2013年11月18日 06時55分04秒 | Weblog


新潟市で開催された「Vカップドッジボール大会」に1泊2日の日程で参加した。両日を通じて心に染みたのは、大会を支える新潟ドッジボールリーグのチーム関係者の皆様の温かい『おもてなし』であった。

前日交流試合の会場はA市立S小学校体育館。紅葉が真っ盛りの木々に囲まれ小高い丘にそれはあった。出迎えてくれたN氏とは数年前に北信越大会の役員として活動して以来の付き合いだ。早速お互いにおみやげの地酒を交換して再会の握手をした。

体育館に入ると、すでに参加チームが元気に練習している姿が目に入った。脇では熱心な保護者の皆さんが多数ラインズマンとして研修されていた。我が子に注ぐ視線とは別に、「チーム全体」「試合の運営」への関心がそれを支えていることを感じ取った。
線審をしているお母さんにお聞きすると、
「審判員の資格を取ったばかりで自信がないのですが、こうしてみんなといっしょに線審をしていると、だんだん自分が少しずつ成長していくような気がする。」
「いつも丁寧にB級のOさんが助言してくださるので、心強い。」
と、語っておられた。

今どきのチーム状況を反映して、人数が12人に満たないチームも少なくない。地区の行事や他のスポーツとの掛け持ち、家庭での事情等、いろいろな理由があろうかと予想されるが・・・、そういう中でもドッジキッズが健気に戦っている姿に心を打たれた。

 日が暮れるのが早く、気付くともう辺りはうす暗くなってきていた。バスで宿舎へ向かう時間だ。
S小学校から車で30分ぐらいの所に小さな温泉場があり、そこの旅館に宿泊することになっている。やはり県外遠征での楽しみは地元チーム指導者の皆さんとの交流である。

A市のD温泉は自然公園内にあるというだけあって、木々に囲まれた情緒たっぷりの昔ながらの湯治場という感じだった。

おかみさんに、
「ちょっと外の赤ちょうちん(焼き鳥屋)に行って、一杯やって来たいんですが・・・?」と尋ねると、
「この温泉場はそのようなものはありません。」
ちょっとがっかりしたが、湯治場に赤ちょうちんは不向きかな・・・? と、あきらめた。
子どもたちは温泉に浸かった後に卓球を楽しんだり、マッサージ機でリラックスしたりと、けっこう楽しんでいた。

 やがて懇親会の時間になり、幹事のI氏の進行で和やかに始まった。新潟県の登録チームはすべてこの大会に参加していることと、そのチーム関係者のほとんどが懇親会にも参加してくれていることに驚いた。

こうしたところで情報交換が行われたり、率直な悩み事を相談し合ったりすることでチームが育ち、指導者が成長しているのだなぁと、実感させられた。
チーム紹介、代表者のあいさつが始まると、会場は爆笑の渦・・・、楽しい雰囲気に包まれた。新潟のおいしいお酒も手伝って、ほろ酔い気分になった。

席を回ってそれぞれのチームの監督コーチや保護者の皆さんと直接お話しをする機会が持てたことはとても有意義だった。どのチームも選手不足に悩んでおられる、しかし、注目したいのは指導者の世代交代が進んで若いコーチや監督が出現していることだ。かつて実際にプレーしていた経験は選手指導にとってかなり有効に働くことは間違いない。彼らの若い力に大いに期待したいと思った。

二次会は外に何もない環境なので、N氏とA氏、それに身内のT監督とIコーチと共に部屋で飲み明かした。
三次会はさすがに付き合えなかったが・・・、T氏とI氏は朝5時まで語り続けたというから、おそろしい?!

 翌日の大会は新潟市のY総合体育館で16チームが参加して開催された。



2013,11,14



分校の文化祭2013

2013年09月11日 21時35分54秒 | Weblog


Y小学校の卒業生5人が進学している「Y高校T分校」の文化祭を見に行った。全校生徒30名、標高1040mにある日本で一番高い所にある高校だ。

生憎の雨、気温18度の低温にもかかわらず、その小さな学校はアットホームのぬくもりを漂わせていた。
 旧T小学校を改修して造られた校舎は、外観が古めかしい割に内装は新しく、廊下や階段は新築の雰囲気を醸していた。
受付で氏名を記入してパンフレットをもらった。手作りのパンフレットの表紙のデザインはWさん。迫力がある龍の絵が繊細に描かれていた。ポスターの絵柄はTさん。9頭の龍をユーモラスに描いていた。

「第50回 K祭」~掴め青春!つなげ絆!巻き起こせT旋風!!~
なんと、このテーマの発案者はY小卒業生のAI君と聞いて驚く。

廊下でAI君がクマの着ぐるみをまとい、お客さんを案内していた。写真をリクエストされて、ひょうきんなしぐさで応じる姿は小学生時代の恥ずかしがり屋の彼からは想像もつかない。まさに・・・じぇじぇじぇ!である。


展示発表のコーナーは普段の学習の成果が良く現れていて見ごたえがあった。総合的な学習で取り組んだ野菜の栽培、蕎麦打ち、竹細工は、地域の特産と結びついて貴重な体験学習となっていた。

竹細工の笊を一つ一つ丁寧に親切に説明してくれたI君。見てもらえるのがうれしくてたまらないといった表情で、熱弁をふるっていた。
『作品は多少いびつでも、I君の心はまっすぐだよ・・・。』

野菜の販売は袋に詰め放題で100円。(さっそく購入して家でフライドポテトとナスの揚げ浸しを作り、美味しくいただいた。)高校生たちの苦労と学習の成果が詰まっていると思うと、なおのこと味わい深い。

トリックアート作品はグループで協力して製作されていた。この学校の生徒たちは一つのことに打ち込めば、かなり高度な仕事ができるのではないかと思わせるほど、繊細で綿密な筆使いで描かれていた。

家庭科の作品でリバーシブルトートバッグが並べられていた。とても上手にできていて、思わず買いたくなって値札を探したが、非売品だった。残念!

保護者の方のパネル写真展示にも驚きました。特に東日本大震災津波の映像はとてもリアル。こうした現実と向き合ってこそ、復興の道が開けるのではないかと考えさせられた。

ビデオ上映は学校生活と修学旅行の様子を紹介するものだった。少人数ならではの温かい雰囲気に包まれ、生徒たちがのびのびと育っている日常が良くわかった。


時間があったので、「カフェ」でお抹茶をいただいた。レジ担当のN君、注文を取りに来たM君もY小の卒業生だ。二人とも当時に比べて背が伸びてスマートになってビックリした。 手際良く接待する姿に成長の跡を感じ取れた。

体育館で太鼓の演奏があるというので、聴きに行った。5人の生徒が赤・黄・青・緑・紫の法被を着て整列していた。(ゴレンジャーか? はたまた「地域カッセイカマン」か?)
代表として前に立ったYH君。


「手に豆ができるほど、いっしょうけんめいに練習してきたので、聴いてください!」
自信に満ちた張りのある声であいさつ。彼はこの文化祭の実行委員長も立派に務めあげた。小学生のころの彼とは違って、まるで別人のようだ。
太鼓に向かう5人の生徒の姿勢は、腕がまっすぐに伸び、腰を落として安定感があり、目は宙の一点を見据えていた。
軽快なバチさばきの技、そして力強く弾けるようなリズム。さらに太鼓の周りをぐるぐる回りながらの連続打ちは聴く者の心に深く沁み渡った…。まるで「巻き起こせ!T旋風!」そのものだった。
感動した!!!


地元に伝わる伝統の太鼓は、住民の方が毎年ご指導されているという。頭が下がる思いだ。
地域の人と文化が学校へ入り込んで生徒を育て、地域の中へ生徒たちが飛び込んで行って育つ・・・、そういう相互関係がそこにあった。

何よりこの高校には温かい雰囲気がある。支え合いと育ち合いがある。
教頭先生も
「私たち教師が毎日生徒たちから学んでいます。エネルギーをもらっています・・・。」
と語っておられた。
生徒たちがみんな仲良く、和気あいあいの雰囲気で支え合い助け合っている様子が良く伝わってきた。そして、それをやさしく見守り育ててくださっている先生方の様子も感じ取ることができた。
一人一人はきっといろいろな辛い思いや苦しい境遇を抱えているにちがいない。しかし、それに負けず・・・それを乗り越えて学校に通い続けていることこそが「つなげ絆!」の具現だろうと受け取った。

小さな学校からの発信・・・。たとえ小さくとも人が人として大切にしていること、大切にされなければならないこと、人が人である所以、価値に大小はないはずだ。だからこそ、このT分校に誇りを持って、自信を持って堂々と生きている生徒たちがいるのだ。 そういう潜在的で前向きなエネルギーとして「巻き起こせT旋風!」のK祭を感じとることができた。

昔、山田洋次監督の「男はつらいよ」の映画を見たことがあった。

何作目かは忘れてしまったが、次のような場面が印象的だ。
主人公、渥美清が演じる寅さんの甥、満男君(吉岡秀隆)は、就職試験を20回以上受け続けて、一つも内定が来ない。ある晩のこと。またしても不合格の電話を受けた満男は、たまりにたまった胸の内を父親の博(前田吟)にぶつける。

「・・・面接でしゃべることはいつも同じ。・・・『志望動機は?』・・・ここの会社は将来性があって、・・・『自己PRを言ってください。』・・・僕はおとなしいように見えますが芯は強く、友だちを大事にするタイプで、・・・もう嘘をつくのはイヤだ! こんなセリフを20回も言い続けてるんだぞ! 僕はカセットテープレコーダーじゃないんだ! 父さんに僕の苦しみなんてわかりっこないよー。 大学だって、僕は行きたくて行ったわけじゃない! 父さんが行けって言ったんじゃないか!」
こうして満男君は家を飛び出して、自分探しの旅に出ていく。
映画の続きは・・・、旅先で偶然 寅さんに遭遇して「幸せって、なんだろう・・・?」という(永遠の)テーマについて考えるという・・いつもの展開。

学校教育の本来の目的は「人格の完成を目指し、・・・心身ともに健康な国民の育成」(教育基本法)であるはずなのに・・・、(世の中全体の風潮として)いつの間にか「社会の役に立つ人間」「会社の仕事ができる人間」「有能な人間」が優先され、「○○にとって役立つ人材の育成」にすり替わってしまっているように思えてなりません。
そして、優秀な人材の発掘・育成競争の中で、勝ち組と負け組に分けられて・・・。

学校や家庭で「いい子」を演じざるを得ない子どもがいて・・・。その子どもがかかえる矛盾や辛さを丸ごと受け入れる余裕がなくなり、「いい子」を自立させきれない教育の現状が広がっている。

もし、映画の満男君がそういう苦しみや挫折を経験しないで第1志望の会社に入社し、『幸せ』をつかんだと仮定する。
そういう満男君の姿と大人である私たち自身の『幸せな生活』を重ね合わせた時、彼に対して心からの拍手を贈ることができるのだろうか?

「人格の完成を目指し・・・心身ともに健康な」人間を育てるとは、一体どういうことなのだろうか?
ふと、そんなことを考えてしまった。

他人とは違う自分に自信を持つこと、そのためには、違っている相手を認め、お互いを尊重して付き合える環境を保障すること・・・。

「春の日の 農業クラブ楽しくて 時を忘れて 熱中病」

「本当は みんなと話 したいけど 勇気がでずに ひとりぼっちに」

16歳にして初めて本心を書けるようになったAI君の詩である。彼の心を開いてくれたY高校T分校に・・・感謝したい。
山奥の小さな学校で今日も少年たちが自分探しの営みを続けていると思うと、大人の自分は・・・彼らに背中を押されて生きているような気がしてくる。

2013,9,12


夏登山2013

2013年08月17日 05時32分10秒 | Weblog

友2人と一緒に夏山に登った。

生憎M氏は所用で参加できなかったが、山行のベテランN氏と俳句が趣味のH氏はいつもの登山スタイルで元気な姿を見せた。
今年は志賀山(2035m)、裏志賀山(2040m)に登ることになった。

8時に長野運動公園に集合してN氏の自動車に乗せてもらって出発。夏休み中とは言え、出勤時間帯と重なって、国道は車の数が多い。所々で自然渋滞が発生している。
今日の長野市内の予想最高気温は35℃。朝の空気は真昼のそれとは違うはずなのだが、しばらく走ると車内はクーラーを必要とするぐらいに熱気を帯びてきた。運転手のN氏がスイッチを入れたとたん、冷えた空気が一気に車内を満たした。

この車は最新鋭のハイブリッドエコカーなのだ。エンジン音がほとんど聞こえない。アップルラインを過ぎて浅野の信号を右折して117号線に進み、立ヶ花橋を渡って中野市内に入る。
 信濃グランセローズのホームグランドが右手に見える頃、
「野球好きのMさんがいたら、たぶんとっておきの講釈が聞けたことだろうに・・・、残念だね。今年の高校野球の話題も聞きたかったなぁー。」
などと話しながら、車は山ノ内町へ入る。

夜間瀬川と温泉街を左下に見ながらオリンピック道路(292号線)を進み、山道にかかった頃からクーラーを切って窓を開けて外気を取り込む。自然の風と木々の緑が気持ちいい。車は急坂やヘアピンカーブを難なくクリア―、眼下に広がる街並みはあっという間に木々に遮られて見えなくなった。サンバレー、蓮池、木戸池の各スキー場を過ぎると、右手前方に笠ヶ岳(2076m)が勇壮な姿を見せた。やがて熊の湯スキー場へ。
目的地の硯川に到着したのが9時だった。前山サマーリフトの駐車場に車を置いて、支度を整えてゆっくりと歩きはじめる。

 スキー合宿の高校生たちの一団が追い抜いてゆく。日焼けした若い身体に精気が漲っていた。
 フジバカマの花にアサギマダラが舞い降りて蜜を吸うのを目撃した。この蝶は秋には日本を飛び立ち、海を渡って南西諸島、台湾まで移動するというから驚きだ。こんなに小さな体のどこからそんな膨大なエネルギーが湧いてくるのか?!

しばらく歩くと渋池に着いた。一面に広がるモウセンゴケが太陽の光に照らされて茶褐色に輝いていた。この植物が虫を捕まえる瞬間を是非見てみたいと思った。
 クマザサ生い茂る林の中のなだらかな坂道を進むと、時折「ケキョ、ケキョ、・・・ヒュー、フケキョ・・・」と、鳴く声が聞こえてきた。


 ややあってH氏の唇がなめらかに動く。
『 老鶯に 背中おされし 山の道 』
「ウグイスは夏の季語で使う場合は、『老鶯』と書いてウグイスなのだ。『押されて』よりは『押されし』の方が良い・・・」と。
 なるほど、そうやって俳句というモノは作られるのか・・・。

山道にはヤナギラン、ワレモコウ、ウサギギク、チチコグサ、マツムシソウ、アキノキリンソウ、ノアザミなど、夏山の代表的植物が競い合うように花を咲かせていた。

急斜面に差し掛かり、こまめに休憩を取っていると、
「こんにちは!」「ごくろうさま。」
と、声が飛び交う。見ると、中学・高校生ぐらいの子どもたちの一団が登ってきているではないか。
「どこの学校ですか?」「東京のN大学附属B高校です。中高一貫校のワンダーフォーゲル部です。」
 4泊5日の日程で合宿していて、明日は東京へ帰るとのこと。かなり体力を消耗していて、列の最後尾を遅れて苦しそうに歩いている生徒がいた。こちらが休憩していると彼が追い抜いて進み、彼が休憩しているところをこちらが追い抜いていく・・・。そんなことを何度も繰り返す。不思議なもので、挨拶し合ったり声を掛けたりしているうちに、徐々に最後尾を行くH君が愛おしく思えてくる。
「H君、がんばれ! もうすぐ頂上だよ。」
「ありがとうございます。」
担当の男性教師とも親しく声を掛け合い、交流することができた。山で出会う人は誰でもみんな友だちになれる。

 11時10分、志賀山頂上に到着。ここは林に覆われていて山頂という気分になれない。小休止して水分と飴の補給だけで再出発。

 しかし、ここからが難所だった。いったん下降してから再度急斜面を上る。
・・・救いは、絶好の天気とさわやかな冷風だ。一歩一歩踏みしめながらゆっくりと前進した。 木々の隙間から明るい光が差し込んだかと思うと、一気に視界が開ける。青い空と白い雲、そして眼下にコバルトブルーの水を抱える「大沼池」が広がる。志賀山と鉢山の火山活動で堰き止められた池、鉱物の成分が溶け出して神秘的な色合いを見せている。

都会は今頃35度を超える猛暑だろうが、ここは別天地だ。いつまでもこの空気を吸っていたい・・・。ふと見ると、ワンダーフォーゲル部のH君が笑顔で登ってくるではないか?!
「H君、復活したね。がんばったじゃないの。」
「はい!」
足取り軽く元気に到着した。

 奥志賀山(2037m)の登頂はちょうど12時だった。見晴らしのいい場所に木製のベンチが作られていたので、そこで昼食。H氏のお母様が作ってくれた特大の「田舎むすび」を食べるのが恒例だ。具はいつも決まって「味噌漬」。おふくろの味は格別だ。

「こんにちは!」
「あれ? Y先生じゃないですか?! こんなところでお会いするとは・・・。」
 昨年まで徳間小の理科専科をされていたY先生が友人と二人で登って来ていた。奇遇だ。
「あれは○○トンボだ。習性は・・・・。」
専門分野は昆虫(トンボ)で、説明し始めると話がなかなか終わらないのがこの種の先生たちの習性だ。なんでも良く知っていて、びっくりだ。

 天然クーラーが利いた「贅沢な」自然の応接間でおいしい昼食をいただき、満足して出発、下山ルートを進む。
 都会から来たと思われる登山客と「こんにちは!」と挨拶して交流する。

そこでまた、H氏が一句・・。
『 熊よけの 鈴すれちがう 登山道 』

 1時20分、四十八池に到着。ここはいくつも沼が点在して、幻想的な雰囲気を醸している。整備された木道が沼の中を曲がりくねっているので、その上を歩いて進む。

 山に登らず池だけを見に来る観光客もいるので、休憩場所にはけっこう人が多い。きれいな水洗トイレも設置されている。小さな子どもが両親に手をひかれて歩いている姿は、なんとも微笑ましい。
 しばらく休憩してから再出発。さすがに下半身に疲労感を感じる頃だが、3人で話しながら歩くと疲れが和らぐような気がした。話題は自分の持病や親の介護のことに向いてしまうのはなぜだろう。しかし、お互いを気遣いながらゆっくり歩むのも我々に似合いのペースである。

 2時30分、硯川に到着。振り返れば整えられた登山道とやや急坂で岩混じりの道や所々にロープが張られる険しい場所もあり、変化に富んだ楽しい登山コースだった。長年山歩きを経験しているN氏ならではの選択に感謝したい。

 長野に帰る途中、サービスエリア(道の駅)でソフトクリームを食べた。疲れた身体にほんのり甘く冷たい感触が沁み渡り、心まで癒してくれる。
「また来年、ごいっしょしたいものですね。」
「それまでお互いに健康な身体を維持して、体力もつけておかないとね。」

 次回はどんな山行になるか? 楽しみである。

2013,8,16