サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

平成の鬼平/三重野康(元日銀総裁)/88歳

2012年04月18日 | 毎日がメメント・モリ

「平成の鬼平」三重野・元日銀総裁が死去

読売新聞 4月18日(水)14時49分配信

 元日本銀行総裁の三重野康(みえのやすし)氏が15日、心不全のため死去した。

 88歳だった。通夜、告別式は近親者で行う。喪主は長男、隆(たかし)氏。後日「お別れの会」を開く。

 三重野氏は1947年、東大法学部卒業後、日本銀行に入行。営業局長、理事、副総裁を経て、89年12月、第26代総裁に就任した。その直後から3度にわたり公定歩合を引き上げるなど、金融引き締めによるバブル退治で「平成の鬼平」の異名をとった。

 その結果、資産インフレは沈静化した一方、金融機関の不良債権が急増するなどの問題も生じた。任期満了で94年12月に退任するまでの5年間、金融政策運営に情熱を注ぎ続けたが、その後の長引く景気低迷の原因を作ったとの批判もある。

最終更新:4月18日(水)19時22分

僕自身は、日本の最高権力は、ある意味では皇室でも内閣総理大臣でもなく、日銀総裁にあると思っている。
もちろん、それは、世界の金融の大本と一体であるという意味においてだ。

日銀の特に戦後史において、もっとも特筆されるのが総裁最長を勤め「法王」と呼ばれた、一万田尚登だ。
彼の評伝などを読むと、もう日本の首相などとは比べ物にならない迫力だ。
ICUの設立の際にも、大きな尽力をしている。

そこから日銀のプリンスたちによる「統治」の禅譲が繰り返されるのだが、そのなかでも三重野はやはり図抜けた存在だった。
信用創造からバブルを生み出し、それを破裂させて、日本の最悪の二十年をもたらした張本人であるという人もいる。
1989年に相次ぐ金融引き締め策を打って、「平成の鬼平」などとも言われたが、このむちゃくちゃハードランディングのバブル崩壊の中で、もっとも儲かったのは国際資本であることは明白である。
総裁を降りてからも、実質的な院政をひいたようなところもあった。 

日本は財務省の完全支配に入ったといわれるが、やはり注目しないといけないのは日銀の動向であり、現在の白川は小粒な操り人形だと思われるが、その次を狙っているのが武藤敏郎であるが、僕はこの人の『裏』の顔をいやになるほど聞かされてきている・・・合掌! 

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿