サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

銅・銀・金/松平康隆(日本バレーボール協会名誉会長)/81歳

2012年01月06日 | 毎日がメメント・モリ

松平康隆さん死去…男子バレー“金”監督


夕刊フジ 1月5日(木)16時56分配信

 

 

 

 1972年ミュンヘン五輪で金メダルを獲得した男子バレーボールの日本代表監督で、日本バレーボール協会名誉会長の松平康隆(まつだいら・やすたか)さんが昨年12月31日、肺気腫のため都内の病院で死去したことが5日、分かった。東京都出身。81歳。葬儀、告別式はすでに近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く予定。

 慶応大から日本鋼管(当時)に進み、選手として活躍。64年東京五輪はコーチで日本男子の銅メダル獲得に貢献し、翌年監督に就任した。68年メキシコ五輪で2位となり、ミュンヘン五輪で頂点に立った。「Aクイック」や「Bクイック」などの速攻や時間差攻撃など、革新的な技を駆使して近代バレーの戦術発展に貢献した。

 98年には日本人で初めて米国のバレーボール殿堂入りを果たした。

 「世界の中の日本バレー」を常に意識。バレーボールは長身選手が活躍する空中戦ではなく、「ボールを落とさなければいい。地上戦なんだよ」と日本のバレーが世界で勝つための活路を見いだした。

 選手には猛練習を課し、「体格」は身長やジャンプ力だけでなく、「アクロバット力」という要素を組み込んだ。レシーブ力、飛んだときのボディーバランスなどを鍛えるため、サーカス団がやるような練習もやったという。「日本人が外国人と互角に戦うには、絶対に必要だったのです」と話していた。逆立ちは、バレーボール部の定番練習メニューになったが、それを普及させたのも松平さんだった。

 テレビマネーを動かし、日本スポーツ界でも屈指の集金力を持った自信家とされたが、素顔は面倒見のいい人情家として知られた。バレーボール人気を生み出した名プロデューサーで、5日開幕した「春高バレー」は松平さんが創設した遺産でもある。

162cmの小柄な体躯で、190cm以上もある大柄な世界のバレーボール関係者の中に挟まれている松平さんの映像などを拝見する機会は何度もあったが、不思議な気がした。
たぶんこの数十年の世界の近代バレーのなかで、この小柄な松平さんが果たした役割は、もっとも大きかったかもしれない。

 

アメリカでバレーボールの殿堂入りもしている。
1972年のミュンヘン・オリンピックの準決勝ブルガリア戦、2セット連取されてから、3セットを奪取し、3時間15分の大接戦をものしたことで、日本男子バレーをはじめてオリンピック金メダルに導いた。
当時、大学生であった僕も、手に汗握って、応援していたことを思い出す。

加賀の名門家老の血を引く松平さんは、9人バレーから6人バレーへの変化をいち早く研究し、速攻、移動、時間差などという今で言えば当たり前の攻撃パターンであるが、当時は世界中が驚愕した攻撃法を編み出した人である。
東京オリンピックはコーチで銅メダル、監督ではメキシコで銀、ミュンヘンで金である。
その後も、バレーボール協会の会長などを歴任したがつねにバレーボールの人気を獲得するために知恵を絞ったアイデアマンでもあった。
選手にキャッチフレーズをつけたり、広告代理店を引っ張り出したり、強豪相手を求めて海外遠征を強引に繰り返したり・・・。
あまりにやり手なので、引き摺り下ろされたこともあった。
自分は162cmなのに、ミュンヘンでは平均身長190cmを揃え、大会でもっとも大型チームであったという。

そのメンバーのうち、ガッツ中村祐造も、指揮者猫田も、血まみれ訓練の南も、もうこの世にはいない。
36歳、日本鋼管時代に、不慮の事故で亡くした子どもを見て、バレーボールに全霊で打ち込むことを誓ったという松平さんは、最後までバレー一筋の人生を終え、あちらの世界でミュンヘンの仲間の何人や息子さんと会うことになるのだろう・・・合掌!

 



 

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