気まぐれ翻訳帖

ネットでみつけた興味深い文章を翻訳、紹介します。内容はメディア、ジャーナリズム、政治、経済、ユーモアエッセイなど。

アルベール・カミュの現在

2013年02月05日 | 文芸

今回は久しぶりに文芸方面の文章です。

今年2013年は、フランスの作家アルベール・カミュが生まれてから100年目。生誕百年を記念する行事が各種開かれるようです。

近年のカミュの受け取られ方について書かれた文章を訳出してみました。2004年のものですが。

掲載元は、これまでも何度か文章を選んできたオンライン・マガジンの Salon.com(『サロン誌』)。
筆者はAllen Barra(アレン・バーラ)氏です。


タイトルは
The rebel
(反抗的人間)

原文はこちら↓
http://www.salon.com/2004/11/01/camus_2/

(原文の掲載期日は2004年11月1日です)


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The rebel
反抗的人間

アルベール・カミュを自分の陣営にひき入れようと右派と左派がいずれも躍起。しかし、この、欧州のもっとも影響力ある作家は依然として正体がつかめぬまま。

BY ALLEN BARRA
アレン・バーラ


「タバコをだらんと口元からぶら下げている」。ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスにおける1963年のカミュをめぐるエッセイで、スーザン・ソンタグは書いた。「たとえ、トレンチコートを着ていようと、開襟シャツにセーターをはおっていようと、あるいはスーツを着ていようと。そして、多くの点でほぼ理想的な顔立ちである。ボーイッシュで、ハンサム、だが、ハンサムすぎることはない。細面で、飾り気がなく、表情は厳しいが落ち着いている。人はこの人物について知りたくなる」。(訳注1)

カミュが自動車事故で亡くなって44年が経つが、世界中の読者がまさしくカミュについて知りたがっている。主要な作品のほぼすべてが依然版を重ねている。もっとも有名な小説『L’Etranger』-----英語では、『The Stranger』と『The Outsider』という2つの訳が入手できる-----は、数ヶ国語に翻訳されたし、英語版はクノッフ社が1946年に出版して以来ほとんど絶版になったことがない。近代の革命に関する訓戒的なエッセイ『反抗的人間』および戯曲の『カリギュラ・その他3つの戯曲』がランダム・ハウス社のヴィンテージ・シリーズに入っている。1997年に英語で刊行されたカミュの伝記の最高峰と言えるオリヴィエ・トッドの『アルベール・カミュ伝』は現在、キャロル&グラフ社から再版されている。エブリマンズ・ライブラリー・シリーズは、小説の『ペスト』、『転落』、『追放と王国』(唯一の短篇集)、もっとも有名なエッセイ『シーシュポスの神話』、死刑反対の論考『ギロチンに関する考察』を一巻にまとめて上梓した。また、昨年はネブラスカ大学出版局が、カミュの恩師である哲学教授ジャン・グルニエとの手紙のやりとりをまとめ、『カミュ=グルニエ往復書簡 1932-1960』として出版し、カミュ研究に貴重な貢献をはたした。

作品が入手しやすく、彼についての書籍や記事が絶え間なく現れるおかげで、カミュは彼の死後生まれた作家たちよりももっと同時代人に近いかのように感じられる。世界の政治に劇的な変化が生じるたびに、新しい読者が大挙してカミュに殺到する。ワールド・トレード・センター崩壊の塵がおさまるかおさまらないかのうちに、コメンテーターたちは、倫理的規範を模索してカミュの言葉をひきあいに出すようになった。ほどなくして、右派左派のいずれもが、自分たちの陣営にカミュをひっぱり込もうとし始めた。英国の小説家マリナ・ウォーナーは昨年ガーディアン紙で、カミュの小説『ペスト』をリベラル派の道標と位置づけた。『ペスト』は北アフリカの都市で、死病に包囲され、精神が覚醒した人々をめぐる寓話的な小説である。ウォーナー女史によれば、この小説は「テロリズムに関する考察」であり、「救済をめぐる寓話でもある」。一方、歴史家のロナルド・アロンソンは、今年1月に上梓した著書『カミュとサルトル-----ある友情とその破局をもたらした論争をめぐる物語』の中で、カミュをネオコン(新保守派)の化身として論じている。

カミュはすでにこれまで数十年にわたって一般大衆のアイドルであった。第二次大戦後、米国人が最初に接したカミュの写真では、彼はトレンチコートを羽織っていて、自分が米国人からハンフリー・ボガートに似ていると考えられていることをおもしろがり、喜んでいた(カミュ自身、好きな映画のひとつに『大いなる眠り』をあげている)。1950年代になると、この『反抗的人間』の作者は、年を重ねたジェームズ・ディーンといった風貌を多少帯びるようになった。あの『理由なき反抗』のスターである。自動車事故で急逝したことも、このイメージをさらに強めた。1960年代後半には、カミュのもっとも頻繁に引用された一節-----「真冬のさなか、私はついに自分の中にゆるぎない夏があることを悟った」-----を印刷したポスターが、ジム・モリスンやミック・ジャガーのポスターと並んで、大学寮の壁をかざった。1980年代には、英国のロックバンド、ザ・キュアーが、『異邦人』中のエピソードに触発された楽曲『キリング・アン・アラブ』を発表し、ささやかな物議をかもした。

ついでに、不条理・滑稽なエピソードを紹介させていただこう。2、3週間前のこと。私は娘といっしょに『げんきなマドレーヌ』のアニメ・シリーズの一本を観ていた。ビックリ仰天したことに、その中で、修道女がフランスの寄宿舎の女の子たちをパリの文学ツアーに連れ出し、「『異邦人』の著者、ムッシュー、カミュ」が常連であったカフェに立ち寄る話が出てくる。カウンターの背後には、『異邦人』の主人公であるムルソーの漫画版がたたずんでいて、「俺は誰だ、俺は何物だ、なぜ俺はここにいる」と首をひねっていた!

奇妙なことに、カミュの作家としての人気が高まれば高まるほど、カミュという人間の輪郭はおぼろになる。トッドが述べているように、「カミュ自身の作品はカミュという人間をはっきりと理解するのにほとんど役に立たない」。私的な書き物も助けにはならなかった。
トッドは『カミュ伝』の序文で次のように書いている。
「私は『Carnets』(カミュの『手帖』)を手がかりにした。しかし、折りにふれ私は感じたものだ、カミュはこれを、自分の子孫たちから肩ごしにのぞき込まれながら書いたのではないか、と。これはアンドレ・ジイドの刺激的でおもしろい『日記』の書き方とは違う。ジョンソン博士がボズウェルに自身を説明する際の慎重さをともなったものだ」。

カミュの小説、とりわけ、刊行された最後の小説『転落』-----自分には人をさばく資格がないと悟った裁判官が主人公である-----は、自伝的な色彩が濃いと長年信じられてきた。しかし、現在では、カミュはみずからの経験から随意にあれこれを選んで利用しているだけだと感じられるようになっている。『手帖』の最後の方には次のような文章が見つかる。
「あらゆる作家は自分の作品のうちに自分自身を描き込む-----こういう考え方は、ロマン主義がわれわれに残した幼稚な思い込みのひとつにすぎない。作品はしばしば書き手の願望や衝動を明かす。だが、書き手の真実の姿が明かされることはまずない」。

自分の真実の物語が他人によって語られるのをカミュが望んだかどうかは疑わしい。あるいは、自身の書いた小説とエッセイ以外に語るべき話があると彼が考えていたかどうかは疑わしい。彼は正しかったのかもしれない。確かに膨大な数の伝記や研究書が続々と生み出され、その多くは有用であったけれども、満足のいく出来ばえと呼べるものはほとんどなかった。
ハーバート・ロットマンが1979年に上梓した伝記は、カミュの人生をめぐるさまざまな事実を教えてくれるが、カミュの作品の生命をとらえることはできていない。フランスの批評家アルベール・マケやジェルメーヌ・ブレー、英国人のフィリップ・トーディらは、カミュの作品についてそれぞれ有益な研究書を著しているが、いずれも歴史的背景の書き込みに物足りなさが残る。アイルランド人のパトリック・マッカーシーとコナー・クルーズ・オブライエンは、我田引水的なその著書の中で、当時の錯綜した政治問題をカミュは自分たちほど明晰に見透していないと非難した。
トッドによる伝記は、初めての十全に目配りのきいた著書で、さまざまな文化、とりわけ、かつてカミュを生んだ仏領アルジェリアの貧しい人々の世界に対する目配りを忘れずに書かれている。それに、政治的理念にかかわる観点が不在であることも新鮮な印象をあたえる。トッド氏の解釈の中には、簡潔な叙述のために強引に思えるものもあるが、カミュの作品を丹念に読み込んでいる読者には意外と感じられることはほとんどなかろう。

たとえば、カミュが実のところ実存主義者ではまったくないなどというのは、『シーシュポスの神話』とサルトルの『存在と無』を読んだことのある人間にとっては、今さらの話である。ところが、ジャーナリストは、簡便な取り扱いに窮したときは、判を押したようにカミュをこの一派と一緒くたにしてしまう。
(「自分が実存主義者であるとは全然思えません」。カミュは、師グルニエにあてた1943年の手紙の中で、そう語っている。これは、物書きとしてのキャリアの出発点からカミュの思想は実存主義のそれとは違っていたと考える人々の意見を後押しするものだ)
カミュは、サルトルとは違って、自然や世界から疎外されていると感じたことは決してなかった。『手帖』の中でも、カミュは、幸福に不可欠な条件のひとつとして自然の中で生活することをあげている。

秩序だった哲学一般-----とりわけ、サルトルのそれ-----に対するカミュの不信感は、この両者の有名な仲たがいを生じさせた原因のひとつだった。個人的反感によって増幅されたにせよ、口論の直接のきっかけは『反抗的人間』の刊行であった。その中でカミュがマルクス主義を拒絶したことを、サルトルと他の左翼系フランス知識人は非難した。

カミュからすると、マルクス主義が約束することはキリスト教のそれと同様に、究極的には錯誤なのである。後者はその信者に対して「彼岸」を約束する。一方、前者は「来るべき未来」を差し出す。カミュにすれば、これは、結局、同じことであり、したがって、同じ程度に錯誤なのである。実存主義者については、カミュは『シーシュポスの神話』の中で「否定が彼らの神である」と述べている。カミュは真摯な不可知論者であるとともに、精神的幸福を物質的幸福とひきかえにするような人間ではなかった。

アルベール・カミュは、1913年11月7日に、アルジェリアのモンドヴィに生まれた。父親となじみになることはなかった。カミュが生まれてほどなく第一次世界大戦で戦死したからである。母親はスペイン人の血をひいていた。アンドレ・モーロワによると、「カミュにはスペイン人の血がたっぷり流れていた」。とりわけ、スペイン人の特徴である威厳、高貴、貧困。それに、死をなんとも思わない態度。カミュの教育は、貧しさと家庭が手をたずさえて邪魔をした。身内の人間は、他の大半のアルジェリア人家庭と同様、反知性主義というよりも知性、知識などといったものに無関心だった。確かにある程度筋の通ったことであったが、母親はアルベールが生計を支えるために仕事につくべきだと考えていた。兄のリュシアンは14才だったが、すでにメッセンジャー・ボーイとして働いていた。幸いにもアルベールは学校に通うことが許された。そこには経験豊かな教師のルイ・ジェルマンがいて、彼の面倒をよく見てくれ、無償であれこれを教えてくれた(カミュは後年、この面倒見のよい師に恩返しをしている。未完となった最後の小説『最初の人間』でジェルマンに相当する人物を登場させたのだ。結局、作者もモデルとなった人物も、この小説が活字となる前に亡くなってしまったが)。

ジェルマンの後は、地方のリセ(大学予備教育をほどこすフランスの国立高等学校)の教師であるジャン・グルニエがカミュの教育をひき継いだ。カミュは授業中に吐血し、入院して学業を中断しなくてはならなくなったが、その療養中、グルニエはカミュのためにさまざまな本をかかえて見舞いにやってきた。『カミュ=グルニエ往復書簡 1932-1960』の序文に紹介されている友人の言葉によると、グルニエが「カミュと彼の文学を創造した」。これはおそらく真実ではあろうが、あまりに話を単純化しすぎている。
カミュは、グルニエの教え子ではあったが、弟子ではなかった。グルニエは神秘主義者であり、昔ながらの人文主義者であった。それに対して、カミュは「地上の王国を離れることはなかった」。上記書簡集を翻訳したジャン・リゴーは序文でそう書いている。「救済のために彼が頼ったのは常に自分自身という人間と自分自身の自由な意思だった」。

カミュについて、サルトルはいみじくもこう語っている。
「彼は、志したすべてに関して才能に恵まれていた少年というわけではなかった。彼はアルジェリアのとるに足りぬゴロツキになっても少しもおかしくなかった。人間的にすこぶる愉快なゴロツキではあっても。そして、何冊かの本は出すことができたとしても、依然としてやはりほぼゴロツキのままの人間。ところが、そうはならずに、文明というものが彼を支配し、そのおかげで彼は自分にできることを実際に成し遂げることができた、そういう印象を人は受ける」。
カミュが結局アルジェリアの街頭で糊口をしのぐチンピラに終わらずにすんだのは、10代のうちに肺結核をわずらったことと関係があるかもしれない。カミュはこの疾病と完全に手を切ることはできなかった。たとえ自動車事故で死亡しなかったとしても、おそらく50才になる前に結核によって命を奪われていたことだろう。
他の著名な肺病病み-----西部開拓時代のガンマン、ドク・ホリデイからカントリーの歌い手ジミー・ロジャース、同業者のロバート・ルイス・スティーブンソンまで-----と同様に、カミュもまた、人生に対し、皮肉なユーモアのまじった、運命論者的な態度を身につけた。知性の面ですでに早熟であったが、病気は感情の面で彼の成熟を手助けした。

人生や存在をめぐるカミュの思想が成熟するにあたっては、そのほかにも数多くの要素が手を貸した。たとえば、物静かで文盲の母親に対する強烈な愛情。カミュの学んだフランスの伝統的な教育課程。古代ギリシャの哲学者や詩人への生来的愛着-----彼らにカミュは同じ地中海生まれという親しさをおぼえた(同時代のフランス人に大きな影響力を発揮したのはドイツの哲学者だったが)。しかし、これらの要素よりずっと大きな影響力をカミュにおよぼしたのはおそらく出生地アルジェリアの太陽と海であったろう。ここからカミュは「ゆるぎない夏」という観念を得、生涯それを失わなかった。
カトリック教国のフランス本土から遠く離れ、イスラム系住民と海と砂漠にかこまれて育ったカミュは、キリスト教徒的敬虔さを身につけた20世紀の異教徒だった。
カミュはこう述べている。
「私が神を信じていないことは事実です。しかし、だからといって、私が無神論者であるということにはなりません。そして、私はバンジャマン・コンスタンに味方するでしょう。コンスタンは、信仰を持たないのははしたないことであり、精神の疲弊したしるしとさえ考えていました」。(訳注2)

また、ストックホルムで開かれたノーベル賞授賞式で、カミュは記者にこう語っている。
「キリスト教徒的懸念は持ち合わせています。けれども、気質的に私は異教徒です」、と。
この組み合わせは逆の場合よりも確かに望ましい。

文学的看板としては悲観論者のイメージが一般であったけれども、カミュは、実際のところ、ほとんど不自然なまでの楽天性をそなえていた。サルトルはかつて嘲りをこめつつそれを「形而上的ドンキホーテ性」と呼んだ。しかし、世間の無関心と感じられたものに直面した際の、その楽天性こそが、おそらくカミュの人気がいまだに続いている大きな理由なのである。カミュは常にひとりひとりの人間に語りかける。決してグループに、ではなく。その哲学的思想や政治信念を分類整理してケリをつけようと試みる人々の尋常ならざる努力にもかかわらず、カミュは、ジョージ・オーウェルと同様に、一時の流行で終わることなく影響力をたもち続けた。オリヴィエ・トッドの言葉によれば、カミュは「自分の小説やジャーナリズム活動を通じて、全体主義や共産主義という壮大な要塞、また、フランコ政権のようなファシズムの砦に闘いをいどんだ。その闘いにおいて彼はほとんどひとりだった……」。

その結果、カミュは「共産主義者からは裏切り者のように遇せられた。というのも、フランスの当時の政治状況からすれば、カミュの正しさは時期尚早すぎたのだ」。この事情はフランスだけにとどまらなかった。1980年代になって、スーザン・ソンタグ-----かつてカミュを「精神的にタフではない、サルトルのようにはタフではない」と非難した-----は、共産主義を「人間の仮面をかぶったファシズム」と呼び、古くからの左翼の憤激を買った。ところが、この「人間の仮面をかぶったファシズム」という台詞は、カミュが第二次大戦後以来ずっと言い続けてきたことをほぼ要約したものに等しい。

そのソンタグは、1963年に、作家としてのカミュに対する決定的評価と多くの人が当時感じた見方を表明している。「現代芸術におけるもっとも高い基準によって」判断するならば、とソンタグは、述べる。「カミュの作品は、もっぱら文学的達成という点では、読者が贈りたいと思っている賞賛の重みに耐えられるほど偉大ではない」。ソンタグによれば、カミュの主な功徳は倫理美であった。しかし、「不幸にして、芸術における倫理美は、一個人の肉体美と同様、きわめて腐食しやすい」。いや、おそらくはそれほどでもあるまい-----サルトルの倫理上のタフさほどには。「芸術の基準」がいかなるものであれ(そもそも、この基準なるものはどなたの所有にかかるものなのだろうか。ソンタグ女史?)、かなりの人は、喜んでカミュを彼自身の言い分通りに受けとめようとしているようだ-----つまり、哲学者としてではなく、さらには小説家としてさえではなく、カミュ自身の言葉をひけば「神話を創る芸術家」として。主要作品の大半が出版されてから半世紀近くになっても、カミュはなおアメリカでもっとも影響力を有する欧州作家である。トッドによれば、フランスでは「カミュが一頭地を抜いている ……。サルトルははるか下の方だ」。(訳注3)

カミュがもし自動車事故で命を落とさなかったら作家としてどのような成長を遂げたか-----これは興味をそそる問題だ。マルクス主義がもはや信じられない世代にとって、次第に場違いの困惑の種となっただろうか-----サルトルがほぼそうであったように。それとも、『最初の人間』が示唆するように、より小説に専心し、混迷を深める1960年代の政治状況から身をひき離しただろうか。あるいはそれとも、この『シーシュポスの神話』と『反抗的人間』のモラリストはネオ・クリスチャンの神秘主義者に姿をかえただろうか、昔の急進左翼にとってのC・S・ルイスのように。

思想がどんな展開を示したにせよ、カミュが『シーシュポスの神話』で自分が当初据えた軌道から大きく逸脱したとはちょっと考えられない。つまり、「人は常におのれの真実の餌食になってしまう。いったん真実を認識するや、自分をそれから解放することはできない」。方便を用いることが政治的にきわめて有用な場合でさえも、自分にとって真実と観じたものをカミュはふり捨てることができなかった。たとえば、カミュはアルジェリア革命にお墨つきをあたえることを拒んだ。そのために、おそらくマルクス主義を拒絶したことよりももっと多くの恨みを左翼知識人たちから買った。カミュが精神的にタフではないとするソンタグの言葉は、アルジェリア問題に関して明確な態度を示せないカミュへのいらだちから生まれた批判であった。ソンタグは書いている。「倫理的判断と政治的判断はいつもうまい具合に一致するとはかぎらない」。まったくその通りである。それは、英米仏の知識人たちも大挙して悟ったことであった。彼らは自分たちが支持したアルジェリアの独立派がどんなファシスト政権にも劣らぬほどやはり残虐で専制的であることを発見したのだ。

であるからこそ、政治的見解を説く道具としてカミュの作品を用いようとする人間は結局ことごとく失敗することになる。倫理的判断と政治的判断は一致することがあまりに少ない。であれば、より腐食に耐えるのは倫理的判断の方だとわれわれは肝に銘じなければならない。


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[訳注、補足など]

■訳注1
この第1段落や後半にも出てくるソンタグ女史のカミュ評は、以下のサイトで英語の原文が読めます。

http://www.nybooks.com/articles/archives/1963/sep/26/the-ideal-husband/?pagination=false

これはもともと、カミュの個人的な覚書である Carnets(手帖)をフィリップ・トーディ氏が英訳し Notebooks と題してクノッフ社から出版した当時、ソンタグ女史が書評として書いたものらしい。

日本語訳は、ソンタグ女史のさまざまな文章を集めた
『反解釈』(ちくま学芸文庫)
に、「カミュの『ノートブック』」というタイトルで収められています。
(なお、私の訳文はそれを参考にしてはいません)


■訳注2
ここのカミュのセリフでは、原文に転記ミスと思われるものを発見しました。

原文は
“It’s true that I don’t believe in God,” he once said, “but that doesn’t mean I’m an atheist, and I would argue with Benjamin Constant, who thought a lack of religion was vulgar and even hackneyed.”
なのですが、
この中の argue with は agree with の間違いだと思われます。

ネットで検索して見つけた3つの文章が agree with になっています(もちろん、フランス語原文を英訳したものにすぎませんが)。そのうちの2つを参考までに下に掲げておきます↓

・I don't believe in God, that's true. But I am not an atheist nonetheless. I would even agree with Benjamin Constant that there is something vulgar ... yes ... worn out about being against religion.

・Albert Camus. who died in an auto crash in 1960, was a very complex man. After one of his plays opened in Paris, some of the audience, knowing him to be an atheist but surprised by the religious tone of his play, asked him about his religious beliefs. He replied: "It is true that I don't believe in God, but that does not mean I'm an atheist. and I would agree with Benjamin Constant. who thought a lack of religion was vulgar and even hackneyed."

というわけで、私の訳文では agree with に訂正して訳出しています。
それにしても、argue with(について反論する、異論を差し挟む)と agree with(同意する)では、意味がまったく正反対になってしまう。困ったもんです ……


なお、私はフランス語はまったくできないので、今回の文章中のその他のカミュやサルトルの言葉についても、フランス語の原文にあたって確認し正確を期するということができません。
訳の間違いや改善点など、ご意見があればコメント欄からお知らせください。


■訳注3
この段落に出てくる「神話を創る芸術家」という表現はややわかりにくい。

ここの原文は
many seem willing to judge Camus on his own terms, not as a philosopher or even a novelist, but as he put it, “an artist who creates myths.”
となっていて、
an artist who creates myths は、もともと、カミュの個人的な覚書である『手帖』の1950年のパートに出てきます。

参考までに、ネットで検索して見つけた該当部分の2種類の英訳を下に掲げておきます。

・My work during the first two cycles: people without lies, consequently not real... . This is why up to now I have doubtless not been a novelist in the usual meaning of the word, but rather an artist who creates myths on the scale of his passion and anguish.

・work during these first two cycles: persons without lies, hence not real. They are not of this world. This is probably why up to now I am not a novelist in the usual sense. But rather an artist who creates myths to fit his passion and his anguish. This is also why the persons who have meant much to me in this world are always those who had the force and exclusiveness of those myths.



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