ノーベル経済学賞受賞者であるポール・クルーグマン教授はニューヨーク・タイムズ紙の人気コラムニストでもあり、日本でもよく知られています。
今回は、しかし、そういう人気の高いクルーグマン氏を批判する文章を取り上げてみました。
(ただし、批判のほこ先は、クルーグマン氏ひとりではなく、自由貿易を礼賛してきた著名な経済学者、エコノミスト、識者一般に向けられています)
タイトルは、
Why Was Paul Krugman So Wrong?
(ポール・クルーグマンはなぜこれほど間違ったのか?)
筆者は William Greider(ウィリアム・グレイダー)氏。
掲載元はオンライン・マガジンの The Nation(『ネーション』誌)です。
原文はこちら↓
http://www.thenation.com/article/173593/why-was-paul-krugman-so-wrong
(なお、原文の掲載期日は4月1日でした)
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Why Was Paul Krugman So Wrong?
ポール・クルーグマンはなぜこれほど間違ったのか?
William Greider
ウィリアム・グレイダー
2013年4月1日
人気コラムニストでノーベル経済学賞受賞者でもあるポール・クルーグマン氏は、過日、自分のことを、イラク戦争と当時の好戦的な世論に抵抗した英雄的な造反者になぞらえた。政治エリートの戦争支持の声が懐疑論者を圧倒し、悲劇につながったと主張した。クルーグマン教授は、経済をめぐる重要な論争に関しても、あきらかにこれと同様の役割を自分が果たしていると考えている。
「イラク戦争の失態からわれわれが学ぶべきことは、常に疑いを持つこと、権威と考えられているものを決して信用しないことだ」。クルーグマン氏はこうニューヨーク・タイムズ紙のコラムに書いた。「戦争であれ金融引き締め政策であれ、それを『誰もが』支持していると聞かされたら、こう疑ってみるべきだ-----『誰もが』というのは、異なった意見を表明する人間を除外しての話なのではないか、と」。
もっともな忠告であり、クルーグマン氏はそれを口にするのにふさわしい人物だ。しかし、この忠告には少しばかり困ったキズがある。クルーグマン氏自身が「権威と考えられている」存在だからだ。そして、自由貿易とグローバル化をどのように考えるかについて米国民をひどくあやまった方向に導いた張本人なのである。経済的損失と混乱の脅威が米国に積み上がる中で、クルーグマン氏のはたした役割は、ヴォルテール作の『カンディード』に登場するパングロス博士であった。心配はないと皆にふれまわったのである。グローバル化の暗黒面をうんぬんするやからなど気にかけるな、とクルーグマン氏は言い放った。経済理論によると、自由貿易は-----パングロス博士の言い方を拝借すれば-----すべてのあり得る世界の中のこの最善の世界における、すべてのあり得る政策の中の最善の政策である、というわけである。
クルーグマン氏の主張は、しかし、大多数の米国人の信じるところとはならなかった-----とりわけ、労働者層は。彼らは自分たちの仕事や中流層の所得がグローバル化した生産手法によって大幅に減少する事態に接した。大きな構図が見えていないとクルーグマン氏は反論した。高学歴の専門家ら-----グローバル化による首切りのおそれには無縁の人間たち-----は、クルーグマン氏の見解に賛同する者が多かった。広範な一般大衆を納得させることはできなかったが、同氏の主張は重要な領域では大勢を占めた。すなわち、政府の政策決定に影響力をふるう政治エリートたちの間で。民主党、共和党双方、および、レーガンからオバマに至る歴代大統領も皆、この自由貿易主義の路線を信奉した。つまり、国際競争において米国の多国籍企業を後押しした。これらの企業の成功が米国の他の人々すべてをひき上げることにつながると主張して。
ところが、おおざっぱに言えば、起こったのはこれと反対のことであった-----労働者層にとってだけでなく、米国経済全般にとっても。多国籍企業は上々の成果をあげたが、米国自体は莫大で永続的な貿易赤字に深くはまり込み、アジアや欧州の貿易相手国に巨額の対外債務を積み上げ、それが米国の雇用と賃金に対する持続的な下方圧力となっている。それでもオバマ政権はなお処方箋として自由貿易協定の締結をめざして邁進している。目下の議会における財政論議でも、自由貿易をともなうグローバル化が米国経済の衰退の元凶であるという認識はうかがえない。
政治エリートたちもクルーグマン氏と同様に批判者にまったく取りあわなかった。自由貿易は米国にとって善である、なぜなら、最終的に勝利をおさめるのは米国の活力と無限の創造力だからであり、このことは歴史が証明している。そう繰り返しとなえるだけであった。労働組合などの反対者は、クルーグマン氏の言い方を借りれば「偽装された保護主義」を推進している退嬰的なラダイト(訳注: 機械化に反対した19世紀初頭の英国の労働者の一群)であると嘲笑されるのが一般であった。このレッテル貼りは大手メディアの報道をひるませた。もっとも権威のある新聞でさえ、記者と編集者がそろって、自由貿易の「常識」に対する実のある批判を無視した。深く追求するにはおよばずと言うのである。30年が経過してもなお自由貿易に対する反対論は立派な人々の間では口にしてはならない話題のままだ。
もちろん、クルーグマン氏ひとりを非難するのはフェアではない。影響力を有する経済学者のうちで、同氏は反対者をさげすむ視線のこき下ろしにもっともあざやかな才を示した人物であろう。だが、その考え方は、経済学にたずさわる人間が多数共有し、政府当局の政策に深く浸透している標準的なものにすぎない。失敗はマクロ経済学に帰せられる。この学問は今ではもうボロボロだ。金融危機と悪化する米国経済によって、その理論が将来の予測も過去の状況の説明も満足にはたせないことが明瞭になったのである。
しかし、失敗に終わった教義は依然として堂々と座の中央にいすわっている。なお政府の政策を牛耳り、米国をさらに大きな問題が待ちかまえる将来へと導きつつある。われわれは澄みきった目と斬新な思考で再出発することができない-----クルーグマン氏のような権威のある著名人があやまちを認めようとしないかぎり。すなわち、米国経済の退潮がまさに自分たちの説いてきた自由貿易主義によって主にもたらされたということを率直に認めようとしないかぎり。米国は南アフリカの『真実と和解委員会』と同種のものを必要としている。祖国をあやまった方向に導いた人間が進み出て、罪を認め、釈明する場である。新しい世代の経済学者は、経済の新理論を構築するにあたって、まずこう問うてみるのがいいだろう、「クルーグマンはなぜこれほど間違ったのか」、と。
世界の経済システムがほころびを示しているにもかかわらず、最近、クルーグマン氏は国際貿易に関する理論に言及することが少なくなった。もともとそれが同氏のお得意の分野であったのだが。これは、財政均衡を求める保守的な共和党勢力に怒りをぶつけるのに忙しかったせいである。しかし、長年の間、クルーグマン氏がみずからの務めとしてやってきたのは、経済の専門家ではない人間があやまった考え方を流布することに対して、一般大衆に警告を発するという役目だった。これは、実質上ほとんど、グローバル化を批判する進歩的な書き手をこき下ろすことだった。リベラル派や労働組合的な観点から、雇用の海外流出、停滞する賃金水準、労働搾取的工場、等々を問題として取り上げた書き手たちである。
クルーグマン氏は、その冷笑的な論争スタイルによって反対者の間では悪名高かった。私の古い友だちであり、リベラル派の書き手のひとりが昔打ち明けてくれたことがある。自分はクルーグマン氏の痛烈な書評をまぬがれるために近々出版される予定の自分の書籍に「ワクチンをほどこしておいた」、と。つまり、書籍の中であらかじめクルーグマン氏を攻撃しておいた。そうすることによって、慣習的にその書評の候補者リストからクルーグマン氏の名前がはずされるのだ。
代わりにクルーグマン氏がかみついたのは私の新刊本『One World, Ready or Not: The Manic Logic of Global Capitalism』だった。同氏によると、この書は「つくづく愚かな本」である。そして、書評でネチネチとした攻撃を展開した。最初は、マイクロソフト社のオンライン・マガジン『スレート』で攻撃し、次にワシントン・ポスト紙に手厳しい書評を載せ、最後はクルーグマン氏自身の著作『グローバル経済を動かす愚かな人々』でこき下ろした。認めざるを得ないが、クルーグマン氏の筆では、私はまさによだれをたらした白痴そのもののように描かれている。
ここで議論をむし返そうとは思わない。しかし、私のこの著作はクルーグマン氏のような権威者をいら立たせることになった。というのも、私が、自分の調査から、世界の枠組みは「大きな痛みをともなう破局」と最終的な崩壊に向けて驀進していると結論づけたからである。私の主張のキモはこうだ-----現行の世界の貿易体制は、富を創出する圧倒的な能力は有するものの、あまりに速いスピードで新製品を生み出し続けている、それをあがなう資力を持った新しい消費者を生み出すよりもはるかに速いスピードで生み出し続けている、いずれこの枠組みの中の誰かが工場のいくつかを閉鎖せざるを得なくなるだろう …… 。米国は世界の過剰な生産力に対して実質的に「最後の買い手」の役割をせおった。毎年、国内で生産する以上のモノを海外から購入し、海外から金を借りた。その結果が、貿易赤字であり、莫大な負債であり、そして、格差の拡大につながった。これらはオバマ政権の下でも歩みを止めなかった。
* * *
当時、クルーグマン氏は貿易赤字の問題を重く見てはいなかった。労働組合が自分たちに有利なように騒ぎ立てている、あるいは私のような人間による寝ぼけた立論であるとして取りあわなかった。ロバート・カトナー氏のような批判者や『エコノミック・ポリシー・インスティテュート』などの意見にもつきあわなかった。「低賃金経済国からの輸入が米国の生活水準におよぼす脅威について明けても暮れても警告のドラムを叩き続けている」と非難した。未来は暗いという予想を嘆いてみせた。
1994年にクルーグマン氏は『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌にこう書いている。「ところが、実際のところは、第三世界との競争がもたらす経済的影響についての懸念はほとんど正当な理由がない」。続けて、「低賃金国の経済成長は、原理的に、高賃金国の一人当たりの所得を低めるのと同程度にそれを高める可能性がある。実際の影響は無視してさしつかえない程度のものだ」。
「なぜこれほど多くの頭のいい人々がこんなあやまった考えに取りつかれているのか」とクルーグマン氏は疑問を呈する。同氏の説明によれば、それは、国家間の所得や雇用、貿易、投資には複雑なフィードバックの関係があり、経済の専門家でないかぎり理解するのが困難だからだ、ということになる。「すでに常識になっていてほしかったことだが」とクルーグマン氏は前置きして、こう述べる。「第三世界が先進国の問題をひき起こしているという一見もっともらしい説は、理論的根拠に基づくと疑わしいし、データを基にするとまったく考えにくい」。
しかし、低賃金国が先進国と同様に生産性を大幅に高めることに成功したら一体どうなるだろうか。クルーグマン氏はこう答える。「これらの新興国はチップひとつ当たりの賃金が上昇することになるだろう。話はそれでおしまい。もともとの高賃金国の実質賃金にはなんの影響ももたらさないだろう、いい影響であろうと悪い影響であろうと」。
いずれにしても、クルーグマン氏は貧しい国々がハイテク製品を生み出すようになる可能性に疑念を抱いている。「おそらく結末は、ハイテク製品の製造がもっぱら北半球(先進工業国)でおこなわれ、ローテク製品のそれは南半球(低賃金の途上国)に限られ、その中間の製品のいくらかは両方の地域で作られる、ということになるだろう」と同氏は書いている。
では、米国その他の先進国から低賃金国へと大幅に資本が流入した場合はどうなるだろう。 それは、労働組合がおそれるように、米国の賃金を押し下げる結果をもたらさないだろうか。「短期的にはその通り。ただし、これは理論上の話であって、実際にはそうならない」とクルーグマン氏は確約する。「教科書に載るような正統的な経済理論では、北半球から南半球への国際的な資本の移動が北側の賃金を押し下げる可能性について一応ふれています。しかし、1990年以降、実際に起こった資本の移動による影響はきわめて小さく、多くの人々が懸念したような深刻なものではありません」。
自分が提示した問いに対するクルーグマン氏の自信満々の回答は、結局のところ、大部分が間違っていた。その後の現実がそれを証明している。また、教科書が載せる理論も同様に多くの場合間違いとなった。クルーグマン氏のもっとも大きなあやまりは、賃金がその国の生産性の上昇と常に手をたずさえて上がるという主張であろう。それはたしかに長い間米国が経てきたパターンであった。が、同氏は、グローバル化によって米国企業がこのような結びつきから解放されたことをしかと認識してはいらっしゃらなかったようである。現在では、多国籍企業、いや、それほどの規模ではない企業でさえ、米国の労働コストが負担と見るや、低賃金国に生産拠点を移すことができる、もしくは、そうプレッシャーをかけることができる。私が取材する中で知ったことだが、現場の労働者たちは、この力関係の変化を、守旧派の経済学者よりもずっと前に察知していた。
にもかかわらず、クルーグマン氏はあくまで標準的な理論にこだわった。同氏はこう書いている。「一部の読者には受け入れがたいかもしれない主張の最後のひとつは、賃金が生産性の上昇と並行して上がるというものだ。これは本当だろうか。しかり。経済の歴史を閲してみると、長期の生産性の上昇を経験した国で、実質賃金がほぼ同程度に上昇しなかった国はひとつも見出せない」。
ところが、現実には、クルーグマン氏がこう書いているまさにその頃から、米国の産業労働者の賃金は旧来のパターンから逸脱し始めていた。つまり、生産性の上昇のカーブにつき従わなくなったのである。時間当たりの賃金は、日本からの輸入製品が米国市場に浸透し始めた1970年代初期から実質ベースでほぼ横ばい、もしくは下落を示している。米国の賃金水準はかつて世界に冠たるものであったのに。
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2007年頃になると、事実があまりに歴然とし、無視しようがなくなったので、クルーグマン氏や他の経済学者らは自分たちの結論を修正せざるを得なくなった。「低賃金国との競争によって米国の賃金水準が押し下げられているという懸念は、理論と事実の双方で実質的な根拠を有している」。ニューヨーク・タイムズ紙のコラムでクルーグマン氏はそう認めた。結局のところ、労働組合の主張は正しかったように思われる。「そういうわけで、グローバル化には暗黒面が存在する」と同氏は書きつけた。しかし、今回ばかりは、みずからの問いに対する答え方に強気な姿勢は影をひそめてしまった。「これへの対処法は一体なんだろう。議論が貿易政策に限定されているかぎり、答えがあるようには思われない」。
クルーグマン氏の数々の発言には、米国のエリートたちの間で当時よく見られた慢心や急速に台頭しつつある貧しい国々に対するはっきりした優越感をうかがうことができるかもしれない。著名な外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』に同氏が『アジアの奇跡という幻想』と題する文章を発表したことはよく知られている。日本や「アジアの虎」と呼ばれる国々をめぐる懸念はクルーグマン氏に冷戦時代のスプートニク打ち上げ後の半狂乱状態を思い出させた。米国の指導者たちは、当時、突如としてソビエトが大国アメリカに追いつきつつあると思い込んだのである。
「アジアの急成長に関する広範な熱狂には多少冷水が浴びせられてしかるべきだ」。クルーグマン氏はそう語る。「これらの国々の将来の見通しは、大部分の人々が現在想像しているほど豊かな可能性を蔵してはいない」。ジェームズ・ファローズ氏のような書き手もクルーグマン氏は切って捨てた。ファローズ氏も経済に関する素人であり、資本主義経済は技術上の優位性を着実にうしないつつあると論じた。これに対してクルーグマン氏はこう応じている。「たとえ大前提は正しいとしても、この見方には概念上重大な問題点がいろいろある」。
中国が別格の存在であり、日本よりも大きな脅威であることはクルーグマン氏も認める-----たとえそれが巨大なサイズ(12億という人口)に由来するだけのことであったとしても。それでもクルーグマン氏は懐疑的だ。「中国が急激な成長を遂げていることはわれわれも承知している。が、それを証する数値の信頼性はひどく低い」と同氏は警告する。「外国投資に関する中国の統計値は6倍も過大に報告されている」。
クルーグマン氏がこういう風に中国を見くびっていた頃、たまたま私は世界経済をめぐる自分の著作の調査のためにかの地にいた。あちこちの巨大な工場や労働搾取的できたならしい作業場を訪問するとともに、労働者、経営者、高名な経済学者、等々に話を聞いた。口数が少なく、とらえどころのない日本人とちがって、中国の成長を指揮している共産党の高官たちは、自分たちの野心についてすこぶるあけっぴろげだった。1990年代初頭に中国政府は産業政策に関する一連の文書を公にした。その中では、自動車や航空機、鉄鋼その他技術的に高度な製品に関して世界的な生産者・輸出国になるという政府の思わくが部門ごとに堂々と論じられている。これらの青写真は大方が達成され、しかも、そのスピードは誰もが予想するより速かった。
私が北京にいた時、街には米国のビジネスマンが数多く見受けられた。ゼネラル・モーターズ、ボーイング、IBMその他の米国有数のメーカーの人間である。彼らは中国で製品を作り、中国の消費者にそれを売るべく交渉していた。世界中の多国籍企業が、来るべき将来に世界一の消費者市場となるであろうこの中国に参入しようと殺到していた。中国政府の要求する参入の代価は、国内の企業と提携して貴重な技術を共有するよううながすものであった。つまり、まだ揺籃期の中国企業に米国や欧州の一流企業と張りあえるような製品の製造技術を身につけさせよというわけである。
クルーグマン氏と同様に欧米の一部の企業幹部も、中国の壮大な目標については当初懐疑的であった。しかし、資本家は遅れをとることをおそれて殺到し、中国側の条件を受け入れた。私は中国から帰る道々、かの国で進行中のすさまじい変貌に対する驚嘆の念と同時に、米国の労働者の将来について多少の懸念をおぼえた。「人間は、世界のいかなる場所であろうと、能力をそなえている」。これが私の結論的な感慨だった。自分たちの内なる優秀性をいまだ信じている米国人はいささかの謙虚さをこれからまなぶことになるだろう …… 。
米国の問題は貿易理論ではなく自己欺瞞である。米国がこれまでそうであったように世界のリーダーとして最終的に勝利するという傲慢な自信である。米国の指導者は当然のように思っていた、第二次大戦以降そうであったように、自分たちが新しい世界の枠組みを決定し、他の国々は遅かれ早かれそれにしたがわざるを得なくなる、と。つまり、他の国々は管理貿易という国家戦略を捨て、自由市場と自由貿易という米国の価値体系を受け入れる、と。米国の多国籍企業は、ワシントンとウォール街で自分たちの戦略を思うままに設計することができた-----当局の意思に束縛されず、しかし、もちろん、公的資金の後押しを得ながら。
困ったことに、各国は米国の意向に沿うことを拒否した。途上国は、それが可能な場合は、自分たち自身の国家主義的な戦略を追求した。それは19世紀に米国が産業を発展させたのとほぼ同様のやり方だった。そして、これらの新興国はめざましい成功を収めた-----まず日本が、それから「アジアの虎」が、そして今や中国とインド、その他数多くの国々が。予測を大幅にはずしたクルーグマンその他の権威者らは、今や醜悪な保護主義-----すべての人々に大きなダメージをもたらすであろう保護主義-----のほかはアメリカに選択肢がないと語る。
この主張もまたあやまっている。米国の自己欺瞞がもっとも浮き彫りになるのはアジアではなく欧州に対してである。国が自国の産業体制を戦略的に運営すると同時に国際的な貿易にしっかりと参画することが可能なことを示す最良の手本はドイツに見出せるのだから。技術的に高度な製品を輸出し、巨額の貿易黒字を計上するドイツの例は、米国の旧来の貿易理論とマクロ経済学が教える教義を打ち負かすものだ。ドイツは労務関係と社会保障にかかわる目標達成基準を高く設定している。国の産業基盤に関する目標では、一部の製品製造が海外にまかされることを受け入れている。しかし、産業の「核」-----好ましい職、高い賃金水準、技術的発明-----は国内にとどまるよう企業が努めることが求められている。
米国民はこのような行き方を採用するよう政治を動かすことができるだろうか。想像するだけでも大胆不敵な所業のように思われる。しかしながら、組合労働者の一部はこれと似たような政策を何十年も進言してきた。そして、大抵は両党の政治家から無視されてきた。だから、この路線が採用されるには一般公衆の考え方が大きく変化しなければならないだろう。創意に富んだ経済学者が政策形成にどのように貢献できるかが重要となるだろう。私は、クルーグマン氏その他の経済学者が、悪材料が無視できぬほど深刻になったとき、名乗りを上げてくれるものと思っていた。私はもう待つことにうんざりしているのだ。
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[補足、余談など]
念のために言っておくと、私は別にクルーグマン氏に批判的であるわけではありません。クルーグマン氏は日本でも人気が高く、ネットには同氏のブログまたはコラムを翻訳したサイトが複数見つかります。そういう圧倒的な人気ですから、逆に、たまには批判的な文章を紹介するのも意味がなくはないと思った次第。
■この文章の批判に対してはクルーグマン氏の方もいろいろ言い分があると思います。
しかし、米国の一般庶民の恨みは深いかもしれません。
この文章の背後からは、「おエラい経済学者はあれこれ理窟を持ち出すが、一体いつになったらこの苦境から脱出できるのか」という怨嗟の声が聞こえてくるようです。
■この筆者によると、マクロ経済学がダメだということのようですが、そもそも資本主義自体の是非がふたたび今世界で問われつつあるようです。
昨年は、ネットで「資本主義」と「社会主義」のペアを検索した件数が大幅に増えたとの記事をどこかで読みました。
資本主義に対抗するような地域住民の活動などについては以前のブログでも紹介しました↓
資本主義に代わるシステム
http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-8fa6.html
また、そういった動きを大手メディアが取り上げようとしないことについての文章は↓
経済の新潮流(とそれを取り上げようとしない大手メディア)
http://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/cea48835b8497cc7c3a0b4d98ef9669e
多少でも参考になれば幸いです。
私も時間がとれればもっとクルーグマン氏のブログその他を訳したいのですが。
経済には詳しくないので、不審な箇所があればご遠慮なく指摘してください。(^^)