気まぐれ翻訳帖

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チョムスキー氏の著作に対する奇妙な書評(続き)

2017年04月09日 | メディア、ジャーナリズム

[ロス氏と軍用ドローン(無人航空機)]

以上の話は遺憾なことであるが、重要な国家安全保障政策に関し、ロス氏が国際人道法の適用をふざまにあつかうのはこれが唯一の例というわけではない。
たとえば、ロス氏は、海外における米国の軍用ドローン攻撃に言及しているが、それを直接に論難することはない。それどころか、それを批判したチョムスキー氏の方に非難の矛先を向けるのだ。
ある個所で、ロス氏は次のように述べる。

「米国政府をしてしばしば国際的規範を無視せしめる理由の一つは、自分がとがめられることはないという感覚である。たとえば、ごく最近まで軍用ドローンを所有していたのは米国だけであった。であるから、いったいどうして米国がわざわざその使用法に関し、明確なルールを定め、それを尊重しなければならないのかというわけである。しかし、かかる技術上の独占状態は当然長続きしない。また、米国がこのように長年明確な基準を設けずにドローンを使用し続けることは、他国がドローンを所有するに至った時、その行状に影響をおよぼす。その影響は、後になって基準を設定しようと努めても取り返しがつかないほど大きい」。

この批判は、オバマ大統領の命じるドローン攻撃に向けられるのであれば当を得ている。
ロス氏は、米国が海外でドローン攻撃をおこなう場合、「明確な基準」、「その使用を規定するルール」に基づいて遂行すべしと論じる。そして、続いて、次のようにチョムスキー氏を非難する。

「チョムスキー氏は、これらの基準がどのようなものであるべきかについて、いかなる貢献も果たしていない。ドローンによる攻撃は『近代におけるもっとも苛烈なテロ作戦』と非難がましい言葉を投げつけるだけである。また、『暗殺』は『無罪の推定』の原則に反する行為と同氏は語るが、これに対する常識的な反論、すなわち、戦争時の戦闘員は標的になり得るという反論には取り組んでいない」。

ロス氏のこのような姿勢は、さまざまな人権団体が署名してオバマ大統領に送った2015年5月の共同書簡のそれと一部共通するものがある。
さまざまな人権団体とは、米国自由人権協会(米国市民的自由連合)、アムネスティ・インターナショナル、紛争地域民間人センター(CIVIC)、憲法的権利センター、欧州憲法・人権センター、人権クリニック(コロンビア大学ロー・スクール)、ヒューマン・ライツ・ファースト、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、オープン・ソサエティー財団、リプリーブ、である。
共同書簡はオバマ大統領の「標的殺害」とドローン攻撃に関する政策について取り上げていた。
書簡の中で、これらの人権団体はオバマ大統領に対して、
「『標的殺害』に関する基準を公にすること、米国が殺傷力の高い武器を海外で使用する軍事行動において国際人権法および国際人道法を確実に遵守すること、議会による監視と司法の審査を実効的におこなうこと」
を懇請した。

ドローン攻撃に対するチョムスキー氏の批判をこのように非難すること、すなわち、国際人道法の下におけるドローンの使用基準を同氏が提示しないととがめることは、結局のところ、「チョムスキー氏はドローン攻撃への批判を国際人道法にかかわる問題にかぎるべきだ」と言うに等しい。これらチョムスキー氏の批判の内実は、標的とされた人間に対する影響はもちろん、(上で要約したように)国連憲章の規定にも基づいている。こういう次第であるから、ロス氏はどうもチョムスキー氏の批判の射程を-----自分がそうしているように-----国際人道法に限定したがっているようにしか思えない。
要するに、ロス氏の言う、チョムスキー氏の「ドローン攻撃に対する非難がましい言葉」は、直接、間接に2つの点、すなわち、(a)国連憲章の下における、ドローン攻撃の最初の実施例の合法性、(b)国際人道法の下でのその深刻で不法な影響、とかかわりがある。ロス氏は、書評においてさえ、この法の2つの領域の共存、混在に反対しているようである。であるからこそ、ドローン攻撃をめぐるチョムスキー氏のより包括的な批判にいら立ってしまう。

ロス氏はまた、ドローン攻撃にふれる際のチョムスキー氏の「暗殺」や「無罪の推定」という言葉使いにも異をとなえている(ロス氏はこれらの言葉を引用符でかこっている)。
ロス氏が当然承知しているはずのことであるが-----なぜなら、チョムスキー氏は著作の中ではっきりと述べているのだから-----、無罪の推定をめぐるチョムスキー氏の懸念はニューヨーク・タイムズ紙の記事(タイトルは『極秘「殺害リスト」はオバマ大統領の行動原則と意志の試金石』)に依拠していた。同記事によると、オバマ政権のドローン攻撃の標的指針は、「複数の政府当局者によれば、攻撃領域内にいる徴兵年齢の男性をすべて戦闘員と見なす」ものであった。ロス氏は、この著作の該当部分(95ページ)を読むやいなや、憤懣の矛先をチョムスキー氏に向けてしまう-----この指針自体に、ではなく。

また、同様に、ロス氏は、チョムスキー氏がドローンによる殺害を「暗殺作戦」と形容し、「将来米国人を害する意思を有すると疑われる人物、および、偶然その近傍にいた不運な人々を標的とする」と説明した(210ページ)ことにもいら立ちを覚えたようである。
チョムスキー氏が「暗殺」という言葉を使用した、たとえば2番目の例は、次のような文章である。「その問題は、大統領の指示による、ドローンを使ったアンワル・アウラキ氏の暗殺の後に持ち上がった。アウラキ氏は演説、文章、また、詳細は明かされていないがいくつかの行動において、聖戦を焚きつけたとされている」(94ページ)。
ロス氏がたとえチョムスキー氏の「暗殺」という言葉の選択に反対だとしても、こうした文脈における「暗殺」という表現は、他の人権団体でもめずらしくない言い回しになっている。たとえば、アウラキ氏の殺害が公表されて間もない2011年の9月、『憲法的権利センター』(略称CCR)は報告書を発表したが、そのタイトルは『CCRは米国市民アンワル・アウラキ氏に対する「標的を絞った暗殺」を非難する』であった。
この報告書の中で、事務局長のヴィンス・ウォレン氏は次のように述べている。
「米国のドローンによるアンワル・アウラキ氏の暗殺は、国内法と国際法に対する数多くの冒涜の、直近の例である。ブッシュ政権下で始まり、オバマ大統領の下で拡大した、この『標的を絞った暗殺』プログラムは、究極的に米国大統領に対して、脅威と見なし得る米国市民を誰であれ殺害する権限を付与する-----いかなる司法の監視も、あるいは、米国憲法が授けるいかなる権利も伴わずに。かかる権力のはなはだしい拡張をもし放置するならば、それは、市民的自由と法の秩序の侵食をさらに進める舞台を整えることに等しい」。
HRWの長であるロス氏が書評の中で、上のような論旨展開に落ち着くことなく、代わりにチョムスキー氏を論難し、オバマ大統領のドローン政策を不問に付するのはまことに奇妙なことである。


[ロス氏のささいなあげ足取り]

また、別のところで、ロス氏はこう述べていた。
「チョムスキー氏の著作は過去についての客観的な説明ではない。米国人を自己満悦から覚醒させることを意図した、論争喚起のための書である」と。
客観的であろうと論争喚起を目的としたものであろうと、その書物が事実に基づいたものであるならば、その取り組みはいずれにせよ有用なものとなり得る。肝心なのは、ロス氏がチョムスキー氏の著作における事実的根拠をゆるがすことが説得的にできたかどうかである。それは、あるページ、ある段落であってもよい。ロス氏は、自身の胸の内ではそれができたと思っているのかもしれないが、当の書評では明確に示されてはいない。

たとえば、ロス氏はこう書いている。
チョムスキー氏の著作では「中国は大方無視されている」と。
ところが、索引を覗くと、次のように記載されている。
「中国: ページ43、51~52、57~58、70~74、82~83、98、105、222、237、243~246、248~240」。

また、ロス氏はこうも書いている。
「ロシアは核問題にからんで取り上げられるが、その他の問題はほとんどふれられない」。
米国とロシアの間で、核兵器の問題はおそるべく重要な問題であるはずだ。誰もこの点に異存はあるまい。これに焦点を当てることをロス氏が評価しないのは不思議なことである。
チョムスキー氏がロシアと核兵器について論じた章の『世界終末時計』(これは『原子力科学者会報のかかげる世界終末時計』のこと)は、この著作の中でもっとも重要な部分と呼べるであろう。ところが、ロス氏の視野には、この章は言及すべき価値がなかったようである。

同氏はさらにこう書く。

「歴史を選択的にあつかうチョムスキー氏のやり方は、説得力を減じる結果となっている。同氏は中東の争乱を取り上げる際に、その淵源をおもに第一次世界大戦時のサイクス・ピコ協定に帰して、これを非難した。オスマン帝国を宗主国の英国とフランスで分割した取り決めである。国境が恣意的に引かれたこと、その結果生まれた他民族・多宗派国家が統治困難であることはその通りであるが、はたしてこれが本当に中東の混乱に対する適切な説明となり得るだろうか」。

チョムスキー氏のサイクス・ピコ協定への言及は、実質上、同書の最終ページにあり、それは、中東の争乱に欧州が介入した歴史的背景をふり返るとともに、警告的な意味合いを込めたものだった。かくして、チョムスキー氏は次のように述べる。
「[サイクス・ピコ協定の成立]以来、中東とアフリカに対するたび重なる西欧の介入のおかげで地域の緊張、紛争、混乱は激化し、社会はズタズタになった。その結果が『難民危機』であり、純真無垢な西欧はこれに悲鳴を上げているというわけである」。
中東の争乱に関するチョムスキー氏のより包括的な見方は、当然のことながら、中東にかかわる章に見出される。すなわち、「テロリストは全世界を欲する」(22~30ページ)、「オスロ合意:その背景と帰結」(115~127ページ)、「イスラエルとパレスチナ: 現実的選択」(135~142ページ)、「違反のくり返される停戦」(189~197ページ)である。また、長尺の章である「イスラエルと米共和党」(78~81ページ)、「イランの『脅威』と核問題」(81~83ページ)においても言及されている。
どういうわけか、ロス氏はこれらの章における「中東の争乱についての説明」が目に入らない。代わりに、不可解にも、著作の最後の方のページに飛んで、チョムスキー氏のサイクス・ピコ協定に関する的確な説明-----1916年に成立したこの協定こそが、今日の中東紛争につながる歴史的な、西欧の介入を呼び寄せた根源であるという見方-----にポイントのずれた評価をくだす。

ロス氏はこうも書いている。
「最近の出来事を考慮して、初めの方の章を最新の情報で更新するという努力もまた、たいして払われていない。イランの核協定や温暖化対策の国際的枠組みであるパリ協定については、著書の終わりの方でふれられているにすぎない。イランの核計画や気候変動に関する問題自体は、初めの方であつかわれているにもかかわらず」。
いやはや、「初めの方の章を最新の情報で更新すること」は理屈から言って「著書の終わりの方」の章で起きて当然ではなかろうか。
それにイランの核協定については、著作中に「『イランの脅威』:世界の平和に対する最大の脅威はどの国か?」という章がないとでも言うのだろうか。この章は、アメリカのイラン政策のほかにイスラエルや中東、核兵器、イランの核協定にかかわる政策についても論じている(218~229ページ)。これらはすべて、イランの核協定をめぐる政治的文脈がまさしく要求するものである。

その上、上述のパリ協定は2015年12月の前半に草案が作成され、2016年の4月に署名されたものである。これらの日付は注目に値する。ロス氏は、「パリ協定については、著書の終わりの方になってふれられているにすぎない」と不平をならしているが、同書の刊行日は2016年の5月なのである。

もう一つ注目に値するのは、私がこのロス氏の書評を読めたのが2016年の5月であったことだ。これは、ほぼ確実に、著作の発行元である出版社がそのゲラ刷りを刊行日よりずっと前に『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌に送っていたことを意味する。
実際、たとえば『パブリッシャーズ・ウィークリー』誌の校正刷りに関する提出ガイドラインには、「出版原稿は刊行月の初日から3ヶ月前-----望ましくは4ヶ月前-----に送ること」と記されている。
もしチョムスキー氏の著作の出版元であるメトロポリタン社が、このガイドラインの望ましい提出期限にしたがっていたとしたら、校正刷りは2016年の1月1日前後に送られていたことになろう。それは、すなわち、パリ協定の話し合いが2015年の12月12日に終了してから19日後に当たる。
日付がこれほど近接していることを考えれば、チョムスキー氏とメトロポリタン社は、パリ協定に言及するべく並々ならぬ努力をはらったと推測できる。そして、事実そうだった(231~233ページ)。このことは、(その成果がいかなるものであれ)ロス氏のささいな不平、不満の一つに対する十分な対抗要件となるであろう。


[ロス氏とイラク]

さて、最後の論点である。
世界ははたしてHRWその他の人権団体から最良の恩恵を受けているだろうか-----戦争にかかわる法の適用を国際人道法にかぎっているこれらの人権団体から。
この問いに答える一つのやり方は「国際人道法とは何か」と問うことである。
赤十字国際委員会は国際人道法(ほかに戦時国際法、武力紛争法とも呼ばれる)の定義を「戦闘に従事していないかもしくは従事することをやめた人々」に関して、「人道的な観点から、武力紛争の影響を限定し、戦争行為の手段と手法を制限することを目指す一連の規定」としている。ジュネーブ第4条約を含む1949年の『ジュネーブ諸条約』は「この法体制のための土台を提供する」ものであった。
しかし、戦争に適用される法は少なくとももう一つある。すなわち、国連憲章の規定である。国際法の「基本原則」であり「要石」であるとされるその第2条4項は「武力による威嚇または武力の行使」を禁じている。
HRWがもっぱら「武力紛争の影響を限定」することに専心し、そもそもの武力行使を問題にしないことは、犬が自分のしっぽを追いかけるようなもので、ほとんど徒労に等しい。違法な「武力による威嚇」と武力攻撃の開始を非難することにも目を向けなければ、国際人道法や人権にかかわる、このような戦争の全体的な影響が消散することは決してないであろう。
このことは、HRWという組織の方針が、国家安全保障政策にかかわる場合には、深刻な軋みが生じることを示している。
それは、たとえば、HRWが2003年のイラク侵攻の前や後に発表した声明のいくつかにうかがうことができる。

米国によるイラク侵攻の直前、HRWは「イラクに関する方針」と題する声明を出した。その冒頭では次のように語っている。
「『ヒューマン・ライツ・ウォッチ』は二十年以上の長きに渡り戦闘地域で活動してきました。戦争にしばしばともなう辛苦を減らすためにわれわれができるもっとも重要な貢献は、紛争当事者のすべてに関し国際人道法の遵守状況を監視し、その遵守をうながすことである、こうわれわれは信じています」。
そして、米国の違法なイラク侵攻の意思表示に異議を申し立てることなく、以下のように続ける。
「万一米国がイラクに侵攻した場合、われわれは、イラクと同様に米国およびその侵攻参加国が国際人道法を遵守することを一貫して求めます」。

イラク戦争後の2004年に、ロス氏は次のように書いた。
「『ヒューマン・ライツ・ウォッチ』は通常、国家が戦争という手段にうったえるかどうかについては論じません」。なぜなら、「その問題は一般にわれわれの使命を超えた性質のものだからです。そして、われわれが非戦闘員に危害を加えないよう紛争当事者のすべてに求めることができるのは、中立の立場を取っているからこそです」。
イラク戦争後のHRWの取り組みをおとしめたり否定したりすることは道理上できないけれども、以下のような問いを発することは可能であろう。
「武力攻撃の発生を抑止すること-----たとえば、国際的な人権団体における国際法の概念に国連憲章第2条4項を含めることを通じて。これが、究極的には、これらの戦争に異議をとなえずその発生を許し続けることよりも、もっと多くの人々を守ることになるのではないか」、と。

イラク侵攻開始時の2003年にもし自分がイラク市民であったならば、国際法の「基本原則」、「要石」を無視したこの挙に対する、米国やその他世界各国の代表的な人権団体による強い反対の声を喜んだのではないだろうか。その喜び方は、戦争が終わってからのHRWの取り組みに対するよりもずっと大きかったであろう。HRWの援助を受けるには、何よりもまず自分の命、家、家族があってこその話であり、これらを失っていては何にもならない。

HRWを初めとするさまざまな人権団体において、国際人道法と国連憲章とを分離するこれまでの慣習が、「国際的な犯罪の究極形」にうったえようとする国家の思わくを実質的に許すことになっているのである。ロス氏の例がよく示しているように。
このように、戦争に由来する辛苦を減らそうとする際、ロス氏が国際人道法にのみこだわる姿勢は、不必要に範囲が限られているという印象をぬぐえない。一方、国連憲章第2条4項と国際人道法の双方をチョムスキー氏が長年の著作活動で考察し続けたことは、この筆法がすぐれた分析的枠組みであることを示唆する。
そして、もしこの行き方が広く採用されたならば、武力攻撃の発生(これは戦争を始めた国の「平和に対する罪」を必然的に構成する)が、-----したがって、戦争に由来する「人道的災害」の発生が-----抑えられるであろう。
ロス氏は、このような観点にまで思慮が至らなかったか、もしくはそれに心を悩ませられなかったようである。


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