森の時間 SINCE 2002

Le Temps Du Bois

2008年-食べ物さんありがとう

2008年12月31日 | 随想・雑文

「食べ物さんありがとう」 は、2008年私の愛読書ベスト3。栄養学者

川島四郎氏とサトウサンペイ氏の共著。この挿画入りの分かり易い栄養学の本には、続、さらに続々がある。戦前・戦中、戦後の復興期の著書も沢山あるようだが、絶版になっていてなかなか手に入らない。氏の戦前・戦中の栄養学研究データはGHQが借りて行き、後に宇宙食の開発に役立ったとか。

地球各地の気候風土は違う。それぞれの民族には、必ずその気候風土に合った食の文化がある。世界各地にはそれなりにその土地の新鮮で滋養豊かな食べ物はあるが、季節の変化が少なくて、収穫の秋が短い地域、水の少ない地域の食生活は貧困だと思う。放牧家畜の肉・乳製品と小麦。例えば、森に囲まれていない地中海には魚が少ない。マグロは大きく育たない。だから、地中海沿岸の民族は、蛸や貝も多く食べるようになったのではないかと思う。

寒流・暖流が交差する海に囲まれ、南北に長く横たわる変化に富んだ日本列島。顕著な季節、寒暖の差、年間を通じての降雨量の多さ、きれいな水。「日本食」文化は世界に比類なき恵まれた地理的条件、気候風土で育まれてきた。旬を愛でて、季節ごとに新鮮な食べ物を口にできる日本に生まれて幸せだと思う。戦後、戦勝国アメリカの余剰食糧、小麦・肉・乳製品を押付けられて、日本食は否定されてきた。経済的効率性、利潤追求資本主義、Globalizationが日本人の食糧を海外に依存するような構造を煽ってきた。地元の日本食の供給者が減った。「旬」も姿を消してきた。資本主義の毒の盛られた食糧を口にし始めて30年近く経過している。

炭酸飲料・インスタント食品に添加されているリンはカルシウムと化合してリン酸カルシウムとなり、カルシウムの吸収を妨げるらしい。保存料、不自然な人工物質だらけのコンビ二食。厚生省が食品添加物規制を緩めた28年前以降に生まれた子供・若者の体は化学物資漬けで、従来の日本人とは違う、生物として異常な生育をしているらしい。「直ぐにキレル」「家族を殺す」「アトピー」「花粉症」「3人に1人が癌死」「風邪ひき易い、治りにくい」「精子減」、・・・・。

「食」が堕落した民族は滅びる。古代文明、地中海文明、インカ文明、過去の文明は全て「食」が確保出来なくなって滅亡した。日本人の心と体を作った大地と海洋から獲れる日本人の体に適した食べ物を食べることの大切さ。二年前の「憩室炎」は、長年の北米生活や仕事上で体質に合わない食べ物、脂・肉を多食して食生活が乱れていたことが原因だと思っている。よく言われることだが、歯の形にあわせてとるのが正しい食事。即ち、上顎、下顎それぞれ16本の歯の内、肉を噛み切る犬歯は2本、野菜・果物を毟り取る門歯は4本、穀物を磨り潰す臼歯は10本。その歯の割合にしたがった食べ物の組み合わせが人間と言う動物には最適ということ。

「四里四方」、「地産地消」、地方・季節の「旬」。葉緑素野菜と小魚を食べ、肉は極力食べない。

動物と植物、違いはあっても、どっちも同じ命。植物は死ぬ時に血を流さない。だから人間はそれ程同情しない。だけど同じ命。動物も植物も頂くときは、命を「いただきます。」。食べ終わったときは「ごちそうさま。」

今年はこんな物を食べていた。

「森の時間」で:

Img_1664_3 Img_1678 Img_1682 Img_1689  Nec_2055 Img_1772 Nec_1776 Nec_1752 Img_2075 Nec_1961_2 Img_0906 Img_0907

和歌山・北海道・屋久島・琵琶湖・ドバイの旅先で:

自宅で:

Img_1997 

 

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静かな時間-秋から冬

2008年12月30日 | セルフビルド-時休自足

和歌山の西の端、雑賀崎に毎週通うようになってから、自分の時間、考える時間が殆どなくなってしまった。

羽田-関空を飛行機で往復する。家から4時間程で和歌山駅に到着し、そこからレンタカーで雑賀崎に向かう。家を4時50分に発てば、8時40分には和歌山駅に到着する。JR-モノレール-飛行機-バス、そしてレンタカーと交通機関を慌しく乗り継ぐので、ゆったりした移動時間はない。新幹線だと30分ほど余計にかかるが、新幹線の中で少しは一息入れられる。「のぞみ」N700新シリーズには電源プラグもあり、トンネル以外ではInternetの高速通信も問題なく繋がる。一仕事終えた後の帰路、周りの雑音をPCの好きな音楽で遮断して、車窓を飛ぶように過ぎゆく家々の明かり、黒い山並みを眺めながら、なれ寿司をつまみにビール、カップ酒。和歌山を早めに発てるときは、ゆったりの時間が持てるように出来るだけ新幹線で帰京するようにしている。が、考え始める前にほろ酔いから眠りに落ちる。

和歌山に向かう足は重くなり、知らず知らず疲労が蓄積されていた。そんな月日を送っていたので、週末の行動を事前に計画する余裕はなくなった。それでも、母の介護と家族との時間を優先しつつ、「森の時間」を進めている。Img_1951

11月1日~3日 Img_1968_2

周囲はすっかり秋色。連休なので泊まりでじっくり作業する。Img_1967

第二小屋前の デッキをほぼ完成させた。ホダ木のナメコと間引きしたコマツナ、春菊、ホウレンソウで味噌汁を作る。夏の草刈作業中に右手親指と右太ももを同時にスズメバチに刺され、初めての体験だったので、その痛さとショック死を心配しNec_2456たことがあった。スズメバチの巣がある草むらを知らずに刈ってしまったようで、攻撃を受けた。二匹の 蜂が同時に、しかも動きを止めるポイントを狙った攻撃に、進化した地球の生き物は人だけではないこと、人知の及ばぬ自然界の力に畏怖した。しかし、その一帯は次の開発、建設予定地にしているので、そのスズメバチ一族は排除しておきたかったのNec_2019で、蜂蜜を使った罠を二つ仕掛けてみたら、スズメバチの兵士が大量に入っていた。合掌して葬った。

11月23日 Img_2025

疲れ気味の私が「森の時間」行きを強行するので、S代が心配して同行してくれた。Img_2067

昼食はS代の作る小さな畑の葉 物野菜と飯盒炊きのホカホカご飯。夕刻、「のらくら農場」の若い研修生カップルAご夫妻が野菜を持ってきてくれたので、帰宅しても野菜尽くし。採れたての新鮮な野菜に勝るものはない。

12月6日 Img_2061

長い霜柱。野菜は寒冷紗で守られているので、青々としている。 この日もS代が同行してくれた。 Img_2498

Img_2075飯盒ご飯と採れたての野菜と手作り味噌。炊き立てのご飯に我が家の常備品、和歌山産しらすの天日干し。のらくら農場の高菜漬け。シンプルで美味しい基Img_2062本の食事。豊かな食事ができるので、作業に集中できる。実生から育てたミズナラの頂は、来春の芽吹きを待ちかねている。

12月21日Img_2468

「のらくら農場」でHご夫妻とおしゃべり。この日はポカポカ暖かい。 クリスマス前なのでH家の子供達Img_2472にプレゼントを持って行くことにした。この日もS代が同行してくれた。野菜を譲って頂き、Hさんの新設加工工場と次の夢のお話を伺った。更にS代が奥さんと話している間に農場の一番高いところに行き、農場の屋根越しに「森の時間」方面の遠景を眺めた。独立して立つ三本の松の下に小屋が建っImg_2478ている。奥には上州と秩父の境に走る山々が連なって見える。Hさん手作りのご自宅が太陽の陽を受けて浮かび上がる。 Img_2474

ホダ木のシイタケと畑の最後のホウレンソウ。 Img_2483

寒冷前線の黒雲が突然青空を横切り、冷たい北風が温度をImg_2521 急激に下げた。氷結した佐口湖に冬の陽光が弱々しく映る。Img_2506 陽が雲に隠れる前に早々と家路についた。

12月30日

日陰に1週間前の雪が残る。深い霜と残雪。雪 より霜にタイヤが取られる。Img_2560案の定、この日帰る際に霜の泥濘に車が空回りして、抜け出すのに往生した。来年は車道の整備せねば。Img_2562

この日は、今年最後の「森の時間」。28日まで仕事で出張に行っていた私の単独行が心配でならないS代が、 無理しないこと、春まで行かないことを条件にして同行してくれた。S代にはコタツでゆったりしてもらい、私は黙々と来春以降の作業予定地になる小屋奥一帯の松を伐採しImg_2582、放置してあった材木を移動させた。すっきりさせると、木陰に隠れていた「竪穴式トイレ」が曝け出されてきた。高額なバイオ式トイレもあるが、私には原始的トイレのほうが快適なので、移動先を見つけたい。

来年は、ピザ焼き「窯」を設置し、東屋を新装させ、2階デッキを作り、更に余裕があれば、3戸目の小屋建設に取り掛かるつもりだ。冬支度を終え、無事に春を迎えてくれることを祈り、「森の時間」を後にした。『今年も、ありがとう。』 

  

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そうだ、京都に行こう!

2008年12月14日 | 随想・雑文

紅葉が終わり、静けさを取り戻しつつある京都に行った。修学旅行で行ったのが初京都。商社の新人時代に、外国からのお客さんを何度か案内した。海外駐在時代に客先と一時帰国して、商談の後や国内移動の途中に度々立ち寄ったこともあった。外人客の観光用でポイントしか訪れていないので、京都の全体感は持ち合わせないまま、以来一度も立ち寄っていないので、ほぼ30年ぶり。かつて行った場所はおぼろげに覚えているが、それらの位置関係は全く記憶にない。和歌山出張帰りの週末、S代と京都駅で待ち合わせて2泊3日の京都。本当は紅葉真っ盛りの頃にImg_2154_2行きたかったが、仕事の都合と、宿が取れない事情で初冬の京都を訪れた。ANAクーポン利用の京都全日空ホテルとメンバー利用の長浜ダイワリゾート。宿には殆どお金がかからない。

風水による開運の京都の歩き方というのがある。少しだけ真似てみた。まず、南から始め北に向かい、それから西、東とお参りする。まず、南に位置する 「東寺」に馳せ参じたが、既に閉門。寺の裏に沈む夕日を拝む。Img_2175_2 日が落ちたので、風水歩きは翌日にまわして腹ごしらい。「錦市場」まで歩く。京野菜の漬物が美味しい。 Img_2206

二日目は早朝から北へ向かう。バスで足利義満の別荘、「鹿苑寺」へ。金箔を張り直したばかりの外壁が初冬の青空の下でまぶしいほどに輝く金閣寺。Img_2231_4 古い町並み、裏道を歩いて「千本釈 迦堂」。米空軍も京都は空襲しなかった。本堂を建造した棟梁の奥さんの名前が福。旦那の苦境を救った福が「お多福」となる。福の像をS代が拝む。

その後は西に向かう。嵐電北野線の終着駅「北野天満宮駅」から嵐山へ。「天龍寺」脇から嵯峨野の竹林を散策。紅葉を落とした木々の枝が青空に突き刺さる。「常寂光寺」の苔の上に吹きImg_2269 Img_2253残された紅葉。「二尊院」の池の底に鮮やかな紅葉。

嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」まで戻り、「二条駅」へ。地下鉄に乗り換え真東に向かい「蹴上」で下車。石川五右Nec_2365衛門の「絶景かな。絶景かな。」南禅寺の大門から、琵琶湖疎水分流に沿って「哲学の道」を足利義政の東山文化の中心 「慈照寺(銀閣寺)」に向かう。修復工事中だったので寺には入らず、門前でお蕎麦屋で、朝から歩き通しで棒になった足を休めた。再び歩き出し、吉田神社に裏手の山側からアプローチ。さらに京都大学まで足を伸ばし、Img_2277 タクシーでホテルへ。そして、ホテルに預けた荷物を取ってから駅前のレンタカーを借り て琵琶湖湖畔の長浜に向かう。初めて走る名神高速道路。Img_2301

「長浜城」は、1573年浅井長政滅亡後、湖北を支配した羽柴秀吉が築城した。柴田勝豊、山内一豊らが城主になり、石田三成の支配下に入り、その後徳川時代の1615年に湖北支配の役割を彦根城に譲って使命を終えている。城の木材・石垣は彦根城に運ばれて、城は完全に消滅したそうだ。翌朝、琵琶湖は冬を感じさせる小雨に霞んでいた。長浜の町を散策し、車で湖畔に沿って南下する。米原から新幹線で帰京した かったが、レンタカー乗り捨て料金が高いので京都まで戻った。京都東ICから京都駅に向かう途中、Img_2325_4 「三十三間堂」の 看板が目に入った。千体の等身大観音像に囲まれた先手観音像、風神・雷神と二十八部衆像をじっくりと見学した。中世の人々が刻んだ精巧な群像にいたく感動。何度来ても、その時の心持次第で見方、感じ方が違うだろう、多分見飽きることはない仏像群だと思った。計画外の予定だったことが、歴史の京都の旅の締めとして、殊の外充実した時間に包まれた気がした。 Img_2332

初めての場所を早朝から動いていた。好奇心がフル回転していたようでお腹が空いた。駅で買い込んだ遅めの昼食。京都発午後2時台の「のぞみ」、西日の当る窓辺でゆったり。ワインで乾杯。

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