物語は相変わらず人間の理不尽さと直面することを要求する。すわり心地の悪い思いをしながら読みすすめている。例えば伯爵のバカ息子が出てくるのだが、こいつが「猫の石打ち」というゲームをするシーン。
「ゲームは、それぞれが小石を1個取る毎に、壺に1ペニーを入れ、猫に致命的な1擲をあたえた者が壺ごと賭け金を得る、というものである。」
という記述どおり、若者(バカ者)どもが猫に石をぶつけるシーンが描写される。現代先進国では許されない行為だし、心臓をざらりと撫でられたように感じる読者も(自分も含め)多いことだろう。
読むのを止めれば?というアドバイスも聞こえてきそうだが、いや~ここまで読んでしまった以上、結末を見届けないとそれこそ寝覚めが悪くなりそう(^^;)。
そして個々の人間のちっぽけな生の営みとは別に、壮大な物語が粛々と進んでいく快感。今の所、ぜひ人に勧めたい骨太の小説だ。
ところで。
世界史で「宗教改革」というものを習った。免罪符を買えば罪が許されるということにルターが反対したというあれ。時代はルターより400年ほど遡るが、似た話が出てくる。修道院の運営が苦しく、大聖堂を建て直すために信者に労働を要求するのだが、労働することで罪が許されるという。読み進めてきた印象では、教会の腐敗とは無縁で、割とすんなり受け入れられた。となると「宗教改革」って、本当はどうなんだろう、と思う。教会の修理のために免罪符を売って資金を得ることはそれほど悪いことだったんだろうか。新教側のプロパガンダは入っていないのか?そんなことが、ちょっと気になった。
そもそも「大聖堂」なんて本を読む気になったのは、ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」でキリスト教文化に対する無知を思い知らされたからだ。
このあたり、今後の読書の羅針盤として頭の片隅に残しておこう。
【関連エントリ】
・『大聖堂(上)』ケン・フォレット
・『大聖堂(中)』2 ケン・フォレット
・『大聖堂(下)』ケン・フォレット
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