私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「腹悪心麁」の星川皇子は・・・

2020-10-31 09:17:31 | 日記
 雄略の死後、その妃「稚媛」は息子である「星川皇子」に
 「あなたが、父雄略が皇太子にと指名したを弟白髪皇子を差置いて、次の天子になろうと思うならば、まず大蔵の位を取りまさい。」
 と言います。それを聞いた兄の磐城皇子は「そのようなことは義に反します。絶対にしてはいけません。」と諫めたのですが、「一本云;王腹悪心麁」な細川皇子は聞かず、大蔵を占領して、屋敷の守りを固め、国家の物をも己の物として権勢を振るいます。それを見た雄略の旧家臣(大伴室屋)たちは、雄略の遺言の通りに白鬚皇子を助けて、星川皇子の家を攻め、「稚媛」「星川皇子」「磐城皇子」の固めていた屋敷に火を掛け、そこにいた田狭の「兄君」などを含め吉備国関係者全員を焼き滅ぼしてしまいます。
 この事件を契機にして、それまで、田狭を初めとしたあれほど強力な力を保持していた吉備族の勢力が、倭の大王家から一掃され、わが国最初の「大和朝廷」というか、天皇を中心とした中央集権国家としての形の誕生を見るのです。さらに、この吉備勢力の衰退に輪を掛けたようね事件も同時に起きています。

 このように、つぶさに日本書紀も読んでみると、思いがけなくも、なかなか面白い大事件との遭遇も待っています。
  「秋の夜長を面白も可笑しくもなく過ごしている八十老人であることよ。」と思いながら一首が・・・
     
       あきふかし ときはゆくまま ながれおり よみいるほんの においとともに 
 
 と、しゃれにもならないことを思いては、一人悦に入っている年寄りの「よなべ」です。

       秋深し 誰か「いいね」に 判押して

      と、また駄洒落です・・・・

稚媛と雄略との皇子は「腹悪心麁」子か????

2020-10-30 09:39:00 | 日記
 吉備王国の大悪天皇「雄略」への融和政策によって献上された稚媛は大変美しい姫君であったことには違いありません。二人の間には「磐城<イハキ>皇子」と「星川皇子」の二人の御子がありました。その雄略も在位二十三年、御年六十二歳で崩御します。長子は先に殺戮した葛城園大臣の媛『韓媛』との間に生まれた「白髪皇子」ですが、その皇子がよほど気に入っていたのでしょうか、その死の床で「星川皇子」についての「どうしてそこまで」と思えるような悪口雑言とでもいうべき遺言されます。
 「星川皇子は心によくないことを抱いて兄弟の道にかけている、このような出来の悪い皇子に国家を統治させると、きっと君臣に恥ずかしい思いをさせ、国民に嫌われる。そのようなことを考慮して「白鬚皇子<シカノミコ>」を皇太子にしたのだ。この皇太子に跡を継がせよ。」
 などと、大悪天皇雄略の言葉とは思えないような暖かな心の持ち主であるが如き言葉が書紀には並んでいます。更にその上に、ご丁寧にも、"一本云”として
  「星川王腹悪心麁。天下著聞。不幸朕崩之後、当害皇太子、汝等民部相助、勿令侮慢也」
 (星川王子は大変な腹黒い男だということは天下に知れ渡っている。もし私の死後、星川皇子が皇太子の政務を邪魔しようものならば。お前たちみんなして皇太子を助けくれよ)
 と書いてあります。まあ、これも吉備王国を貶める為の大和朝廷、天皇家に対する忖度だと思われるのですが???
 

田狭事件を門脇氏は・・・・

2020-10-29 09:32:25 | 日記
 「稚媛」は上道臣「田狭」自慢の美人妻です。日本一の美人は己の妃にするのが当然とばかりに、邪魔者の夫である「田狭」を任那国司に任命して国外に永久追放します。そして、稚媛を我が物にせしめます。
 しかし、普通なら、いとも簡単に稚媛が雄略の下に来たなんて考えられませんがね??二人の息子もあったというのですから。そんなに簡単に雄略の妃になったのでしょうか。
 これについて、門脇氏は「吉備の古代史」で、次のように説明しておられますので紹介します。

 先の眉輪王の事件に関連して、雄略は自分が倭国の大王になるために、まず、葛城首長家の者(円大臣など)をこの時にすべて殺戮してしまいます。この時、葛城系の首長と婚姻関係などで深く結びついていたのが「吉備王国」です。だから、雄略は、どうにかして我が意にかからない「吉備国」を、この葛城首長家のように、その力を弱め、我が意に沿う国にしようと考えていたのです。それが、この「田狭事件」の物語を生んだのです。その融和策として取られたのが、人質としても吉備王国の媛の献上を求めたのです。
 その女性が田狭の妻という形で書紀に書かれたのですが、本当は、吉備国王の女性を雄略に人質として献上したのでしょう。しかし、それまで吉備では「雄略と、この際、決着をつけるべきだ。」「いや差し出すべきだ。」など多くの激論があったはずです。それが「田狭事件」として面白おかしく言い伝えられ書紀に記されたのです。

わが国最初の感染症対策では???

2020-10-28 10:03:27 | 日記
 弟君がその妻「樟姫クスヒメ>」(「楠」は「樟」の誤りでした)によって百済で殺害されますが、任那の国司であった父「田狭」のその後の消息は何も書紀にはなく、忽然と歴史の中から姿が消えてしまっています。
当時の朝鮮半島は
        
 北部は高句麗、南東部は百済、西部は新羅が支配していました。「任那」がないじゃあないか。」と思われますが、この中の百済の南部の一部にあったのです。当時、朝鮮半島は高句麗と新羅が強国で、百済はこの二国からいつも侵略されていて、その防御のために倭国に軍事援助を依頼していたのです。だから、倭国が新羅との国交を遮断していて、今まであった新羅からの貢物が7年間もされてなかったのです。その日本と敵対関係にあった新羅と田狭が手を組んだのです。その田狭の息子「弟君」です。それを「樟媛」が恨んで、殺害するという強硬に打って出たのです。
 なお、書紀には、この百済より連れ帰った才伎<テヒト>が 
   "而病死者衆<ヤミテ シヌルモノ オホカリキ>” 
 その為に「上桃原、下桃原、真神原の3か所に移して住まわした。」と、殊更のように書かれていますが、これはもしかして、折角、この百済から連れ帰った最新の技術者たち『才伎」が、今流行のコロナ禍と同じようなウイルスにかかって、この人たちの間にクラスターか何かが起こって大勢の死人が出たのではないでしょう・・・その緊急対策として採られたのが、現代社会と全く同じの、集団移住しての感染症予防の処置だったのではないでしょうか。
 だとすると、これが我が国での感染症対策の第一号になるはずですが??その歴史を知らないものですからあのトランプ如きの人が現れるのではないでしょうか???その点、昔から多くのこれらの体験を通じての中国や朝鮮などアジヤ人の対策が現代の対策として功を奏したのではないでしょうかね???もちろん、日本もそうですが!!!

それ以後、田狭は・・・大和朝廷の成立が見え隠れ!!!

2020-10-26 09:31:39 | 日記
 弟君がその妻「楠媛」によって殺害されますが、それ以後、田狭は、そして楠媛たちはどうなったのでしょうか???こんな疑問が沸き起こりますが書紀には、ただ、「吉備海部直赤尾と一緒に百済の才伎を連れて帰国した。」としか書いていません。先に「赤尾も弟君と共に・・」と書いたのですが、それも全くの間違いでした。それならと、ここで、また、頭を横切ります。もしかして、この「赤尾」は、雄略が百済における弟君の行動を密かに監視するために遣わしていたのではないいかとも???だからこそ楠媛が赤尾の援助のもとに、いとも、簡単に夫を殺害できたのではないかとも???
 それからもう一つ、弟君と共に百済に派遣した「知利」が百済で集めた才伎(工人技術者)ですが、百済の人ではなく、当時の百済にいた世界最先端の数々の手工業技術を保持する中国人の「才伎」だったのです。書紀にはそれについて
 
   "新漢<イマキノアヤ>”(中国人)の陶部高貴、鞍部賢貴 画部因斯羅我、錦部定安那錦、訳語卯安那”

 と連れて帰国したと記しています。
 「陶器を作る人、馬の鞍を造る人、絵を描く人、絹織物をする人、通訳者」たちが日本に移住したことが分かります。このような人たちが倭国に帰化して、それが国力の増強にも通じて、唯、鉄器の製造だけの「真金吹く吉備国」を凌駕したのです。
 この、雄略による私的な遺恨の解消から発展した「弟君」への
     ”汝宣往罰新羅<イマシ ウベユキテ シラギヲウテ>”
「新羅を罰て」の詔は、このような思わぬ経済的な発展をももたらし、以後の「倭」と「吉備」との国力の差異につながり、これが吉備国の衰退の原因となり、そして、遂に、大和が日本の国を統一して、天皇中心の中央集権国家の誕生を生む原因になったのだと思われますが・・・