私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

西行の“つみ”をもう一つ・・・・

2019-07-30 08:36:29 | 日記
 西行は岡山の渋川の浦で、

     “つみより罪を習ふなりけれ”

 と詠んだのですが、もうひとつ、この「つみ」を岡山で詠んだ歌が、やはり彼の「山家集」にあります。

 「そげえなことばあけえて、どげえにすんなら。いらんことたあかかんで、はよう ジンムのことを けえて しまわにゃあ おえりゃあせんがなあ」

 とお叱りはありましょうとも、毎度のことです。そんなお叱りを蹴飛ばして、例の通り「寄り道、余残事」じゃあなくて、「つみ」荷を少しでも多くと思いながら書いていきますので宜しかったら御読みいただけたら幸いです。とまあ、前談義が長ったらしくなりましたが・・・・・・

 さて、西行のもう一つの「つみ」ですが、「ひびしぶかわと申す方へ・・・」の次に

    
  “  真鍋と申す島に、京より商人どもの下りて、やうやうのつみの物ども
    商ひて、又塩飽の島に渡り、商はんずる由申しけるをききて

  真鍋よりしわくへ通う商人<キンド>は
                 つみをかひにて渡るなりけり       ”


 とあります。
 同じ「つみ」でも貝類のつみと積み荷の「つみ」との違いがありますが、そこら辺りの西行の西行たる所以の文章だと、何時も面白く読んでおります。

 なお、これも余残事ですが、この2つの歌は、西行が四国に流罪になり哀れな最期を遂げられた崇徳上皇の墓に参られようとして西国へ旅している途中に立ち寄った時に歌った歌です。

話が又又?????

2019-07-29 08:42:12 | 日記
 さて、皆さんは

           “つみ”

 と聞けば何を思い浮かべますか??
 昨日、“志多美<シタダミ>”について、「イシダタミ」と書いたのですが、又、例のお人から「それではなく<ガンガラ>ではないか??」と教えてくださいました。「
 
 この「ガンガラ」は、岡山(瀬戸内沿岸部)では「ツブ」と呼ばれている「イシダタミ」より小粒な巻貝で、今では、誰も見向きもしないような貝ですが、戦前には、子供たちが、海岸に行っては、岩にへばりついているその「ツブ」を取って来て、それを鍋に入れて炊いて、マチバリや爪楊枝などでほぜくりだして、おやつにしてた食べていました。

 今では、そのようなその姿は何処に行っても見かけることはできなくなってしまっているのですが、何時頃からったかと云うと、歴史的にそのような風景を画いているものがあります。ご存じ平安末期の西行の

         “山家集”

 に出ております。「ツブ」が「ツミ」と云う言葉に代わって。
 それを少々・・・

  “   日比・渋川と申す方へまはりて、四国の方へ渡らんとしけるに、
      風あしくて、ほど経けり。渋川の浦と申す所に、幼き者どもの
      あまた物を拾ひけるを、問ひければ、つみと申すもの拾ふなり
      と申しけるを聞きて

    下り立ちて浦田に拾う海士の子は
                つみより罪をならうなりけれ      ”

 とあり、平安以前の昔からの、この地方における子供たちのに日常の生活の一部になったいたことの証明になります。

 その「つみ」の見える風景は、更に、有史以前から日本人の生活の中に見らたものだということを、このジンムの歴史が物語っておるのです。「つみ」ではなく「シタダミ」と云う言葉で・・・

 どうでしょうか。わたしは一日に1時間程度ですが、読書の「おもしろさ、楽しさ」を一杯味わっております。原稿用紙一枚程度の楽しさを・・・・

“又歌曰”

2019-07-28 07:46:08 | 日記
 「ハジカミ」の歌に続いてジンムは続けざまに、興が乗ったのでしょうか、亦も歌います。

        「神風の 伊勢の海の 大石に 
         這い廻<モト>ろふ
         シタダミの い這い廻ろひ 
         撃ちてし止まむ。」

 とです。「シダタミ」は
      
          “志多陀美”

 です。伊勢の海に居る「きさご」(石にくっついている小さな3角形をした瀬戸内では「イシダタミ」と呼ばれている巻貝)のように、敵に一杯纏いついて、全員を打ち殺してしまえ」
 と云う、誠に、勇ましい全ジンムの兵士を鼓舞する歌を声高らかに歌です。

 「韮の根を抜くように、山椒の実を噛み潰した様な苦い経験をしたその恨みを、決して、忘れないように、そして「シダタミ」のように」

 とジンム自身が大声で歌ったのです。漫画になりますね。こんな歌を聞いて気力が失いかけている皇軍全員を鼓舞したのでしょうか???

 まあ、このような歴史的な戦術を習ったのではないでしょうが、先の大戦で、頻りに軍歌が歌われましたね・・・結果は言わずもがなですが???????

“波士加美”

2019-07-27 09:20:39 | 日記
 ジンムが歌った次なる歌は
 「ジンムの兵士たちが自分の領地の周りに垣として植えた

       “波士加美<ハジカミ>”

 薑(はじかみ)です。山椒(やまさんしょう)のことです。この実を噛めば、口の中が、その余りにも苦さのために疼くように感じるのですが、
 「わたしは、それと同じような思いを五瀬命の死で感じた。その思いをここで一気に敵にぶっつけようではないか。」
 です。そして

        “宇知弖斯夜麻牟<ウチテシヤマム>”

 これがジンムが口した「トミビコ退治作戦」で歌った第二の歌なのです。

 なお、薑<ハジカミ>」ですが、秋になって、椒の木に生っている実を取って、直接、噛み砕いてみると、その苦さにたじたじするほど、口の中が疼くように感じます。それを例えて歌っているのです。実体験をもとにした歌です。

 古事記は、総て頭の中で抽象的に考えて作られたのではなく、この辺りにも深い配慮の元に作られた貴重な「歴史書」でもあるのです。

 「韮」と云い「椒」と云いうまい例を取り上げた物ですね、又又感心しきりです!!!!!

再び、“登美能那賀須泥毘古の登場

2019-07-26 08:54:05 | 日記
 ここでまた“那賀須泥毘古”がジンムの心に浮かびあがるのです。
 ジンムは吉備の国から「ウズヒコ」の案内で「浪速」にやってきますが、そこでジンムに立ちはだかり攻撃してきたのが

       “登美能那賀須泥毘古<トミノナガスネヒコ>”

 です。
  この戦いで敵の矢を腕に受けて死んで兄「五瀬命」の怨念が忘れることはできません。その恨みを晴らすためにジンムは土雲を破った勢いで、再び、トミノナガスネビコを打ち破る勢いが見えたのでしょう、ナガスネヒコに戦いを挑みますが、この時も、またもや、ジンムが歌を歌って味方の勢力を鼓舞するのです。その歌は

 「粟の植えてある畑に紛れ込み敵を攻撃しようとしたら、そこに臭い韮<ニラ>が生えていた、その臭い韮の根っこを引き抜くように、敵を
           “宇知弖志夜麻牟<ウチテシヤマム>”
 と。臭い韮、即ち、にっくきナガスネビコの息の根を止めるために、撃ち滅ぼそうではないか、「それ攻撃を開始せよ。」です
 
 これを合図に戦いが始まるかと思いきや、続けて、更に、「ジンム」は歌います。

 「よくもそんなに続けて、次から次へと、敵を前にして、口から歌が出てくるものでしょうか。???」と思えるように、後から後から続きます。と云う事は、もしかして、日本の神代の世界では、平安朝における和歌と同様、日常の生活の中に歌が溶け込んでいて、必須の生活手段だったのではないでしょうかね?。だから、会話の中に、常に、歌が出て来たのではないでしょうか。

 まあそれは兎も角として、いつも心に残っている兄「五瀬命」の敵討ちです。