私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「吉備津神社記④」

2020-05-31 10:08:39 | 日記
 続いてこの記には「太田田根子命」について

 "当時、垂神天皇が出雲の神裔に係る大田田根子命を挙げて、出雲民族の祖神を祭らしめ・・・”

 とあり、この部分を何回読んでも私には理解しがたいのです。まず、ここに見られる「出雲の神裔に係る大田田根子命」ですが、一体誰でしょうか??
 この神様についてここでちょっとまた横道に・・・・・
 記紀には、垂神天皇の時、今の世のコロナのような伝染病に罹り、国内の死者の半数以上がその疫病に罹り死亡したのだそうです。そこで天皇は朝夕天神地祇にお祈りします。そうこうしている時、天皇の夢の中に大物主神が現れて、
 「天皇よ。今世の中が治まらないのは、私の意(こころ)によるものだ。我が子大田田根子命に我を祭らせなさい。たちどころに平らかになることだろうよ。」
 とお告げがあったと書かれております。
 
 これによっても分かるように、奈良の三輪山にある大神神社の大田田根子命がどうして出雲と関係があるのかわかりませんが、とにかくこの記にはこのように出雲と深い関係があるように書かれております。
 どうでもいいようなことですが、例によって余残事です。


「吉備津神社記③」

2020-05-30 09:19:50 | 日記
 「吉備津神社記」は、主に、日本書紀からの資料を基にして編成されていますが、中には、古事記にある
    "大吉備津彦命與若建吉備津日子命。二柱相副而。於針間冰河之前。居忌瓮而。針間為道口以。言和吉備国也”
 から、その時代的なことは無視して
 「・・・されば、命御兄弟が、この方面に向はせらるるを見奉るに、警戒おさおさ怠りなく、その播磨に到らるるや、ここを吉備の道口と定め、氷河の畔に忌瓫  を居えて軍神を祭り給ひぬ。・・・」
 と書かれ、更に続けて
 「かくて、大吉備津彦命御兄弟は吉備国に入り、温羅を平げ、尋いで崇神天皇即位の六十年秋七月には曩に将軍として東海に派遣し給へる武渟河別命と共に、進んで出雲を征し、当時の出雲梟帥たる出雲震根命を討ちてこれを誅し給ひぬ。」
 とあります。
 
 この辺りに、古事記と日本書紀との年代的にも聊か食い違った内容をまぜくじゃにして書き表した記述に工夫が見られ、苦労しながら編集しただろう筆者に、何時も、感心しているのです。

吉備津神社記②

2020-05-29 09:44:51 | 日記
 孝霊天皇の皇子「大吉備津彦命」は、

 「第十代崇神天皇の御代、不庭の徒、四方に起りて、世の中何となく穏かならざりければ、天皇はこれを鎮めさせんがために、皇族の御中より選びて北陸・東海・吉備・丹波の四道に差し向け給ひしが、もとより御性質も雄々しくましましければ、この選に漏るべくもあらず、やがて、四道将軍の一人として、吉備津路に向はせらるることとなり給ひき。”

 その出発の時に、たまたま、孝元天皇の皇子「武埴安彦命とその妻吾田媛」の反乱がおこり、その反乱を鎮めてから、その異母弟「若日子武吉備津彦命」と共に吉備津路にむかわれます。
 ”当時、吉備津路には、如何なる醜類の割拠せしかは詳ならざれど、社伝に従へば百済より温羅<ウラ>といへる強賊の来りて、この地方に居を構へ、西国の貢船を掠めしことを伝へたり。”
 とあります。なお、伯耆の楽々福<ササフク>神社の社伝には大吉備津彦命が征伐した強賊は「蟹梟帥<カニタケル>」だと記されているとかかれてあります。

「吉備津神社記」について少々①

2020-05-28 09:47:05 | 日記
 昨日見てきたように、愛妃「兄媛」を尋ねて吉備に行幸され、「葉田の葦守宮」で、その兄「御友別」から大歓迎を受けた応神天皇は大層喜ばれ、御友別一族が吉備の長たることを確かにされますが、日本書紀にはこれ以上の御友別のその後の歴史は何も書かれてはいません。しかし、吉備津神社に伝わる「吉備津神社記」には

     

 とあり、御友別一族もこの神社に祭られていることが記されております。
 では、この神社記にはその他何が記載されているのでしょうか、しばらく見ていきたいと思いますので、お付き合いいただけたら幸いです。

 まず、吉備津神社の祭神について
 ”人皇第七代孝霊天皇の御子に渡らせ給ひ、御名を日子五十狭芹彦命、又の名を大吉備津彦と申し奉る。蓋五十狭とは猛勇、芹とは邁進<セリ>の仮字なれば、其の御性質の雄々しかりしことは、推して知るべし。・・・・御母は倭国香媛といふ。歴史には御生誕の年は記されざれども、社伝に拠れば、孝霊天皇即位の三年、即、皇紀三百七十年、倭国黒田の廬戸宮に生れ給ひぬ。”
 と、記されております。西暦に直すと、お生まれになったのは紀元前287年のことです。

吉備津神社と御友別

2020-05-27 09:30:14 | 日記
 「造山古墳は御友別のお墓だ。」と書いたのですが、日本書紀に書かれた御友別を中心とした吉備の歴史がどれ程の真実性があるかは、歴史家は誰も言及しておりません。また、この御友別がその後の吉備にどのような政治力を発揮したのかも一切不明です。ただ、その兄弟や子達が吉備の地で確たる地位を得たことは記されていますが・・・・ ただ、わずかではありますが吉備津神社の残されている「吉備津神社記」にその存在をうかがわせる記事があります。明治末年に出版された本です。

    

   

 ここに示されているように、その製作年代全くの不明なのですが、この記は吉備津神社が造営された頃からあったはずです。ここに見えるように、この御友別一族が吉備津神社と深く係わっていたことが伺われます。どうして、このことが古事記に記されてないのが不思議なのですが???

 まあ兎も角も、吉備の一宮としての吉備津神社の存在と御友別の関係がわかる一つの資料にはなると思われますが???
 「では、それと造山とは・」
 と尋ねられても、今のところそれ以上の関係は不明です。はなはだ疑わしき推量だけですが、ただ、この辺りの郷に大きな渦となって駆け巡っているだけです・・・